2「歴史と古文の授業をしよう」

 駅員のいない駅だった。無人改札口には縦長の簡易改札機だけがぽつんと立っていて、どこか懐かしさを覚える駅の中で唯一それだけが現代的だった。 

 目的地までは、ここから少し歩くらしい。

 改札を抜けたところで、笹貫が小さく呟く。


「私、ちょっと電話してくるからここで待っててね」


「あ、うん。ていうか、携帯持ってたんだ」


「……当たり前じゃん。鳴海君じゃないんだし」


 冗談めかして呟いた笹貫だけれど、その顔には緊張が滲んでいた。

 どうしたのだろうか。なんて、考えるまでもないことか。

 今のところ〈憑落〉の襲撃はないが、それでも一瞬たりとも気を抜けない状況にある。それに俺たちが広陵町に来るということが、なにを意味しているのかは道中散々話し合ってきた。


 広陵町に来たのは、笹貫の祖父に会うためだった。

 旅費は現在、俺と笹貫の貯金から捻出しているが、所詮高校生の金だから一か月間の逃亡生活が続けられるほどじゃない。ちなみに、イワカサはマジモンのホームレスだった。住む場所もなく、仕事もしておらず、それゆえに金もない。

 とにかくそういうわけなので、笹貫の祖父にお金を借りたかった。さらに言えば、未成年がホテルに泊まるには保護者の許可が必要なので、あらかじめ直筆のサインをもらっておきたかった。

 もっとも、一番の目的はべつにあるのだけれど。


 祖父とのやり取りを俺に聞かれたくないのか、笹貫は俺から離れた券売機の辺りで電話をしている。掌でひさしを作って空を仰いだ。

 空高くに昇った陽はギラギラと地上を焦がし、遠景に陽炎が揺らめく。立っているだけで汗ばむ身体の不快感に顔をしかめるも、蝉だけはこの夏の到来を喜んでいるのか、喧しい鳴き声を響かせていた。

 改めて考えるのは、俺をここに送り出したイワカサのこと。


 ──笹貫造健は、御前たち月の民の罪を知っているはずだ。


 俺が犯した罪とやらは、いったいどんなものなのだろうか。島流しならぬ、星流しなんて重罰を受けている限り、相当なことをやらかしたのかもしれない。

 それこそ、玉枝殺しが軽く思えてくるほどの──。

 思わず、背筋を寒気が走り抜けた。

 そんなとき、


「へいへーい! 少ぉ年ん、なーに、してるのかしら?」


「ぇ……?」


 見知らぬ女性に声を掛けられた。

 焦げ茶色の短い髪をしっぽみたいに結んだ女性だった。

 百七十後半はありそうな長身だが、細っこい身体のおかげか威圧感はなかった。本当に、どこにでもいるような若い女性。強いて言うなら、薄ら笑いが胡散臭い程度。

 彼女は無視されていると思ったのか、距離をぐっと詰めてきて、再び問いかけた。


「うぇーい! なにしてんだよブラザー! 暇してんならおねぇさんと遊ぼうぜぇ」


 どういうつもりで発された言葉なのかわからない。

 その無駄に高いテンションすら、なにかの前触れみたいで恐ろしい。

 真っ先に思い当たるのは、彼女が〈憑落〉の人間である可能性。でも、すぐに襲ってこない辺り、彼女も俺を警戒して様子を窺っているのかもしれない。

 俄かに緊張で震え始めた手を後ろに隠し、当たり障りのない返事を零す。


「……旅行、ですよ。夏休みなので」


「ふぅん? 彼女と? ……いやらしいわね。健全な男女二人、旅。なにか間違いでも起こるんじゃない? どうなのよ。どーなーのーよー!」


 言いながら、彼女はちらりと笹貫に視線を送る。笹貫は電話に集中しているのか、こちらの様子には気づいていないようだった。

 俺と彼女の関係性に気付いているということは、駅に着いたときから見られていたということだろうか。ますます怪しいな。


「彼女と、じゃなくて友達と……ですよ」


「否定する辺り、いっそう怪しいわね。なに、『まだ』友達ってこと?」


 ……否定する以外にどうすりゃあいいんだよ。面倒な酔っ払いに絡まれているような心境になって思わず溜息。意を決して、じろりと彼女を睨んで問う。


「で、なんの用ですか?」


「ところでそのマスク。風邪でも引いてるの?」


 俺の質問には答えず、どうでもいい質問を投げかけられる。会話の主導権はあくまでも自分が握っているのだ、とでもいいのだろうか。少しだけ迷ってから答える。


「予防ですよ。せっかくの旅行なのに風邪ひいちゃったら困っちゃいますもんね」


 どうだろうか。少し無理があるかもしれない。誤魔化し笑いを零すけれど、張り付けたような彼女の笑みはピクリともしない。

 つー、と背筋を冷や汗が伝う。手から始まった震えが脚にまで届き始めている。胸の鼓動が彼女に聞こえていないかと、無駄に心配する。

 見つめ合うまま数秒。彼女は視線を切って、空を仰いだ。

 濁点付きの「あー」を前振りに、彼女は短く、素早く問いかけてきた。


「伊達よね、それ」

「ダテ?」

「眼鏡」


 言いながら、自身の目元をトントンと叩く彼女。

 釣られるようにその眼を見つめ、ぎょっとした。

 彼女がずっと浮かべていた笑みがいつの間にか立ち消えていて、切れ長の眼孔に収まる瞳が曝け出されている。蛇のような縦長の瞳孔だった。

 常人離れした特徴に気圧されつつも、なんとか必死に言葉を返す。


「え? あぁ、おしゃれっすよ。眼鏡、好きなんです」

「マスクしてるのに?」

「のに、です」

「曇らない?」

「まぁ、曇りますけど……」


 気味の悪い問いかけが重ねられていく。

 もう完全に、彼女の瞳に呑まれている。笹貫を呼ぶ。連れて逃げる。ぶん殴る。どうする。混乱は強烈な眩暈となって俺を苛み、蝉の声も引いていく。

 俺の耳に届くのは、彼女の繰り出す短い問いかけだけだった。


「外してみなよ」

「え?」

「だから、眼鏡とマスク、外してみなよ」

「ど、どうして……」

「気になるのよ。顔」

「なんで……」

「本当は、風邪の予防じゃないんでしょ」

「え、いや」

「本当は、眼鏡なんて好きでもなんでもないんでしょ」

「なにを──」


 奇妙な女性は、笑った。

 それはさっきまで浮かべていた嘘くさいものじゃない。

 心の底から、歓喜に打ち震えるような──まるで、珂瑠の浮かべたような。

 いびつにゆがんだ月の眼に、困惑一色の俺の顔を写し取って。


「本当は、だれかから──アイツらから逃げるためなんでしょ」


「──ッ」


 臨界点を越えた緊張が破裂して、俺は笹貫の元に走ろうとしたけれど。


「がっ⁉」


 気がつけば、俺は彼女と肩を組んでいた。彼女の方が背が高く、だから俺は少しだけ背伸び。踵が地面から離れ、それゆえにふらふらとせざるを得ない。

 そんな状況で、彼女は耳元で囁いた。


「もう少し警戒した方がいいわよ? 敵は、どこにいるかわからないんだから」


「……それは、どういう意味ですか?」


「さぁね。お姉さんなりの老婆心よ」


 パッと解放され、おずおずと彼女の顔を見る。

 瞬間。


「老婆心って言うなァ‼ あたしゃまだ二十四歳じゃァ‼」

「おげぇー⁉」


 頬を思いっきりぶん殴られた。

 へたり込んだまま顔をあげて抗議する。


「いってぇ‼ なにすんだよ‼ なんだよお前ぇ!」

「あっはっはっは! また会おうぜ! 鳴海少年!」


 そう言い残して走り去る彼女の背中に手を伸ばしたが、するりと避けられる。猛スピードで走る彼女のシルエットがどんどん小さくなっていく。

 ていうか、俺の名前。なんで知ってんだよアイツ。

 慌てて駆け寄って来た笹貫が俺に問う。


「なに話してたの? 大丈夫?」

「気づいてたのかよ……」

「ん。さすがにね。でも、〈憑落〉の幹部じゃなかったから……何者だって?」


 玉枝が死んで、笹貫──御鉢が裏切り、龍珠とやらは長いこと空席になっているらしい今、残る幹部は燕貝と火鼠だけで、そのどちらも男なんだとか。

 だから、笹貫はひとまず様子を窺っていたようだった。


「ごめん。名前は聞けなかった。でも、もっと警戒しろって言われた。俺たちが〈憑落〉から逃げてるってことは知られてた。……信者の可能性はあるかも」


 もう少し情報を引き出せればよかった。ここまでなにもなかったから気が緩んでいた。自身の頬を軽く叩く。そうすると、笹貫が険しい顔で呟いた。


「早いところ移動しようか。連絡はついた。神社の方で待ってるってさ」

「おっけ。把握した」

「ん。把握された」


 そうして俺たちは駅を出発した。



    ●●●



 広陵町に来てから、元から少なかった口数がさらに減っている。閑静な住宅街に響くのは二人ぶんの足音だけで、俺たちは影を引きずっているのか、それとも影に引きずられているのか、どうにも気まずい沈黙に包まれていた。

 沈鬱とした横顔を盗み見て、溜息みたいな声を漏らした。


「あのさ」

「……なに?」

「讃岐神社、っていうんだっけ?」

「ん」

「……『竹取物語』のゆかりの地なんだっけか」

「ん」


 億劫そうな返答──と呼ぶことすらできない返事に溜息が零れた。気まずい。さっき、あの女の人の素性を確かめられなかったことに怒っているのだろうか。

 彼女の気持ちがさっぱりわからない。言いたいことがあるのなら、もっとはっきり言って欲しいのに。

 なんて不満というか不安というか。言葉にできないもやもやを押し殺し、黙々と歩く。そして、社会の教科書でしか見たことがないような鍵穴型の古墳が見えたころ、笹貫がおもむろに言った。


「『竹取物語』って、どんな話だったか。鳴海君は覚えてる?」


「え? あ、まぁうん」


 唐突な問いかけに困惑しつつも、中学のころの授業で学んだ記憶を掘り返す。

 歩くスピードを落とさずに、ぽろぽろと語った。


「あれだよな。竹から生まれたかぐや姫は、その美しさゆえに多くの男に求婚されるんだけど、姫は頑なにそれらを拒む。で、あんまりにもしつこい五人の皇子に無理難題を言いつける」


 石作皇子には「仏の御石みいしの鉢」を。

 車持皇子には「蓬萊ほうらいの玉の枝」を。

 右大臣阿倍御主人には「火鼠ひねずみかわごろも」を。

 大納言大伴御行には「龍の首の珠」を。

 そして、中納言石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」を。

 指折り数えて付け足した笹貫に少しだけ感心しながら俺は続けた。


「結局、五人とも上手くいかなかって、姫は今度、帝から求婚される。文通を続けていくうちに心を通わせていく二人だったけど、最終的に姫は使者と共に月に帰ってしまう。帝への手紙と不死の霊薬をこの地に遺して」


 作者不詳、成立年代不明のこの物語は、それでいてノンフィクション。

 実際に、本当に、起こった出来事だった。

 昔話を回顧して、語り終えると笹貫はぼんやりと呟く。


「広陵町ってさ。昔は散吉さぬきって呼ばれてたんだってさ。ほら、昔の人って、その土地を治める人の名前をそのまま地名にしてたらしいじゃん? だから、讃岐の造っていう名前の竹取の翁は、この土地を治めていた人物なんだよ」


 実際に、「讃岐垂根王さぬきたりねのみこ」って名前の人がいたって記録も残ってる。もっと言えば、その人の姪っ子の名前は「迦具夜比売命かぐやひめのみこと」なんだって。

 博識な笹貫が付け足したので、俺は「へぇ」と生返事。彼女は俺になにを伝えようとしているのだろうか。唐突に始まった歴史と古文の授業に少し困惑していた。


「未婚のまま月に帰ったはずの『迦具夜比売命』はなぜか結婚してるし、もっと言えば『袁邪弁王おざほのみこ』って名前の子供がいたって記録が残ってる」


「ふぅん?」


「結局さ、千三百年前になにが起きたのか、なんてことはもうわかんないんだよ」


 くたびれた声を漏らした彼女は、「同じように」とかすれた声で続けた。


「最愛の子を失った親が、なにを想ったのか、ってこともね」


「それは……──」


 それはいったい、だれの話だったのだろうか。単に、かぐや姫を失った竹取の翁とその妻の話というだけではなさそうだと、なぜか俺は思ってしまった。多分、大昔の他人の話と言うには、あんまりにも笹貫が辛そうな顔をしていたからだろう。

 彼女がなにを想って、ここにいるのかは、終ぞ俺にはわからなかった。

 問いかけるよりも早く、


「着いたよ」


 讃岐神社の小さな赤鳥居と、その奥に続く短い参道が目の前にあった。

 拝殿の前に立つ老人が、こちらを見るなり近づいてくる。なにかに怯える子供のように、笹貫が俺の服の裾をきゅっと握りしめた。そして、今にも泣きそうな声で。


「……多分、あの人がおじいちゃんだよ」


 白いたてがみみたいなひげを蓄えた老人は、矍鑠とした身体捌きで歩み寄り、俺たちの真正面に立ち止まる。闊達そうな笑みはそれでいて柔らかく、ひと目でその心根の穏やかさを感じ取る。

 彼は笹貫をじっと見つめて目を細め、寂しそうに呟いた。


「初めまして、ですね。……朱音に似て、美しく、そして立派になりましたね」


「……っ」


 ちらりと覗いた横顔は、なにかに絶望したようだった。

 だが、それは一瞬。老人は俺に視線を移して微笑んだ。


「初めまして。瓜丈──もとい、鳴海高君。イワカサ様より、話は伺っておりますゆえ、短い時間ではありますが、当代の笹貫家当主、笹貫造健がお教えしましょう」


 ひと呼吸分の間を置いて、


「竹取翁の血を引く私が知る、月の民の罪と罰についてを」

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