3「竹取翁と〈ツキオトシ〉」
「なにを、どこから話したものでしょうか。鳴海君はなにも知らないとのことでしたし……昔から、イワカサ様は言葉が足りなくて困ってしまいますね」
立派な顎髭を撫でつけて、造健さんは苦笑を漏らした。
彼に案内されたのは、拝殿の傍に建てられていた社務所の奥だった。神社を取り囲む林から響く蝉の声が遠く、夏の陽光もあまり届かない和室は、まるで世界から隔絶した異界のように思えた。
けれども実際、ここにいるのは見知った少女とその祖父だ。きっと優しく、そして穏やかな人たち──の、はずなのに。どうしてこんなに澱んだ空気が流れているのだろうか。少なくとも笹貫は、祖父との出会いを喜んでしかるべきなのに。
初めまして、と造健さんは言った。
それはつまり、そういうことなんだと思う。
背の低いこげ茶色した机の上に置かれた麦茶は、ものの数秒で大粒の汗をそのグラスの外側に張り付け始めている。対照的に、緊張しきった俺の口の中はカラカラに乾いている。麦茶で口を湿らせてから、そっと呟く。
「本題に入る前に、伝えておきたいことがあります」
「伝えておきたいこと……ですか?」
「俺たちがここに来てしまったから、〈憑落〉は造健さんを襲いに来るかもしれません。そのことを、まずは謝らせてください」
「……」
笹貫は、ずいぶんと前から〈憑落〉の幹部として生きてきたらしい。少なくともそんな状況で祖父に会えば、彼をどんな目に遭わせてしまうかは想像できる。
彼女はきっと、造健さんを巻き込みたくなかったんだと思う。もっとも、じゃあ〈憑落〉に入る前にどうして会わなかったのだろう、とは思うのだけれども。
老人は瞑目し、じっと微動だにしない。怒っているのだろうか。迷惑だと思っているのだろうか。思っているのだろう。申し訳なさで胸がいっぱいになって、砂漠を往くキャラバン商隊みたいに喘ぎたくなるのを堪えた。
「俺は〈憑落〉とかいう頭のおかしい連中に狙われています」
「えぇ。知っていますとも」
「綾瀬に残り、俺の家族を守ると言い出したのはイワカサでした。アイツは、〈憑落〉が俺を捕まえるために、俺と関わりのある人間を襲うと確信していました。だから、造健さんも同じように襲われるかもしれません」
そのことを考慮して、電話で済ませることができないかと思ったりもした。
でも、旅を続けるための路銀や宿泊のための署名が必要だったし、なによりイワカサとの約束があったんだ。旅に出る前、アイツは俺にだけこう言った。
──笹貫郁子を、笹貫造健に必ず会わせろ。と。
これは俺の贖罪の旅だ。笹貫がついてくる理由はない。でも、それでも彼女を連れていけと言ったのはイワカサだ。彼の目的は依然として不透明だけれど、少なくとも笹貫に害を為そうとは思っていないはずだ。
だから、造健さんに出会った笹貫が青ざめた顔をしていようとも、居心地が悪そうに俯いていようとも、それが彼女のためになるんだと信じるしかない。
「迷惑をかけてしまうかもしれなくて、だから、本当にすみません」
机にぶつからないように少し後ろにさがってから、畳に額を擦り付けた。
そうすると、造健さんは短い嘆息と共に優しい声で言う。
「顔を、上げてくださいな」
「……はい」
顔をあげるなり、柔和な笑みを浮かべる老人と目が合う。
けれども彼の眼の奥には、確かな決意と覚悟がギラギラと輝いている。決して、耄碌とは程遠い若々しくもたくましい瞳だった。彼は胸に手を当て、歌うように語る。
「笹貫家には、果たすべき使命があります」
「……使命?」
「親が子供に託す、至極ありふれた、けれどこれ以上なく尊い願い。……たとえ竹取翁とその妻が死に絶えようとも、〈ツキオトシ〉の苛烈な襲撃を受け、讃岐の姓を捨てて笹貫と名乗らざるを得なくなってもなお、絶えず受け継がれてきた使命です」
親の願い。奇しくも笹貫の発言と重なった。
『最愛の子を失った親が、なにを想ったのか』
かぐや姫を失った竹取翁とその妻が、いったいなにを願ったのか。
その答えを、彼は知っていた。
皺だらけの乾燥した唇が言葉を紡ぐ。
「──かぐや姫が帰る場所を守り続けること」
「……かぐや姫の、居場所……」
呟くと、造健さんは遠い目をして頷いた。
すぐに、彼の口から昔話が語られる。
「姫が月に帰ってすぐのころ、竹取翁とその妻は最愛の娘を失った世を厭い、死すら考えておったそうです。しかし彼らはとある人物の勧めを受け、本来の讃岐神社の摂社であり、なおかつ存亡の危機にあった散吉神社の管理者となったそうです。それから明治末期の神社合祀の際に散吉神社と讃岐神社が統合されることになり、正式に讃岐神社の神主を讃岐家の人間が務めることになったと、記録が残されております」
なにを言ってるのかよくわからずに首を捻っていると、造健さんは机上のメモ用紙にすらすらと文字を書き、「讃岐神社」と「散吉神社」の関係性を説明してくれた。
どうやら、元々「讃岐神社」という神社があって、その摂社──いわゆる本家に対する分家のような関係性を持つ「散吉神社」という神社もあったそうだ。
しかし、後者は管理者が早々に不在となっていて、そこに竹取翁が収まったという話らしい。その後二つの神社が合併して、今の状態へと至るとか。
一息で語った彼は机上の麦茶を一口含み、ほう、と溜息を吐いて続けた。
「二人は、信じたのです。いつかきっとかぐやがこの地に帰ってくると。だからこそ二人は養子をとって讃岐家を続け、この場所を守る使命を負った。そしていつか再会した彼女にこう伝えるのです」
──おかえりなさい、とね。
「……おかえり、なさい……」
取るに足らないありふれた言葉には、途方もない長くて深い思いが籠っていた。
笹貫家──もとい、讃岐家はその長い長い歴史をもって受け継いできたのだ。子供の未来を望む、確かな愛情を。雄大な時の流れを感じさせる重たい声に眩暈がした。
「ゆえにこそ、です。仮にこの老骨が朽ち果てようとも、その意思は死せず。都子が生き続ける限り、一族の悲願は果たされる。鳴海君が心配することなどありません」
しかし彼の答えは、俺の謝罪への解答としては不十分だった。だって、俺が言いたいのは造健さん自身が危険な目に遭うかもしれないという話で、彼の答えは、自分が死んでも一族の願いが果たされるのなら構わないというものだったから。
そういうことじゃないだろと、口を開きかけたとき、俺の隣で笹貫が息を呑んだ。
横目に見れば、その顔はひどくゆがんでいる。泣きそうなのか、それとも激怒しているのか。どちらとも取れるような、そんな酷い顔だった。
でも、彼女は唇を噛んだままなにも言わない。
だから俺も、言いたいことを飲み込んだ。
「……すみません」
「では、本題に入りましょうか」
そんな言葉と共に、造健さんは再びメモ用紙に文字を書き、俺に突きつけた。
そこに書かれていた文字は、〈憑落〉の二字。
「奴らがこの名を掲げはじめたのは、昭和初期。他にもいくつかの宗教が興り始めたころです。『不幸の原因である憑き物を落とし、真なる幸福を希求する』という教義もまた、それに合わせてでっちあげられたものです」
本題、と言うからには俺が月の都で犯した罪についてだろう。
だが、彼が口にしたのは名前の話。しかも、月の都とは無関係とは言い切れないが、直接的なかかわりのない〈憑落〉の話だ。
それがどう本題に関係するのだろうかと疑問に思いつつ、問いかける。
「……なんのために?」
「金と人です。金があるから人が集うのか。はたまたその逆か。いずれにせよ、行き場を失なった人間というのは、得てして神秘や超常に縋るものです。……昭和初期にこの名を拝した奴らは、それ以前にはこう名乗っていました」
ぼやきながら彼は、さらに文字を記した。そして、それを俺に見せながら言う。
「──〈月堕〉。この地に降った月の民を堕とし……殺し、月印を奪う。そんな願いが込められた名なのでしょう。……皮肉なものです。〈憑落〉と言う名を掲げた組織の長こそが、なにかにとり憑かれたかのように月の民を求め続けている」
同一の読みだが、文字だけがちがう。たったそれだけなので、いまいち反応に困った。微妙に話が見えずに困惑する俺をじっと見て、造健さんが言った。
「与えられた名が、その存在の生を定める。かつてはだれもが知っていたことです。今は昔の語りぐさ。けれど、尚も真理であるのには変わりありません。そしてそれは、瓜丈──という姓にも言えることです」
「へ?」
「竹の中が空洞になっているのはご存じでしょう。そして、瓜もまた、空洞果と呼ばれるように、栄養が足りなかったり痛んだりすると内側が空洞になります。……ところで、鳴海君は十六年前に〈月堕〉の施設の前で拾われたそうですが」
「……なんでそれを」
「イワカサ様より、伺っておりますゆえ。して、瓜丈高という名前は、いったいだれが付けたものなのでしょうか」
俺はどうやら、生まれてからずっと〈月堕〉に狙われてきたらしい。けれど、それを阻止してきたのがイワカサだった。俺が中三の頃に笹貫もそこに加わって、以降二人で俺を守って来てくれたんだとか。知らなかった。気づかなかった。
だから、なにが言いたいのかというと、俺は間抜けでバカだったってこと。
「それは……わかりません。ただ、施設の前に捨てられてた俺が身につけてた産着に、そんな名前の刺繍があったってだけで……」
おずおずと答えると、造健さんは大きく頷いた。
そして、それから俺の顔をじっと見て、ようやく核心に触れるのだった。
「月の都では、古くから罪を犯した民を地上に追放することがあったようです」
「……罪ってのは、いったい」
「──彼らの罪は、望んだことだと伝え聞いております」
彼ら。というのは俺とかぐや姫のことだろうか。
彼女ら、ではない表現を用いたことが気にかかったが、それ以上に。
「……望んだこと?」
「月の都の民は不老不死の身体を持ちます。それだけでなく、天の羽衣を身にまとうことであらゆる悩みから解放されている。ゆえに彼らは望まない。望みを持ってはいけないと己自身を、あるいは一族全体を縛り付けているのです」
そこで言葉を区切った造健さんは弱く首を振り、机上のお茶を飲みほした。彼がそうして飲み込んだのは、ただの液体だけではなかったように思えた。
期せずして零れ落ちそうになった言葉を、慌てて無理やりお茶で流し込んだような雰囲気がある。それくらい、唐突で素早い動作だった。
老人は寂しそうに微笑み続ける。
「きっと彼らは不幸を拒む代償として、あらゆる幸福を諦めたのでしょう。望みとは現状への不満。未来への希望を意味するものでしょう?」
「……望み」
不幸ではないが、幸福ではない。
それは果たしていいことなのか。身の丈に合った平穏を欲するという意味では小市民的ではあるだろうか。でも、どうして月の民はそんな生き方をしているのだろう。
ダメだ。さっぱりわかんないや。だから、一旦その辺は放置することにする。
わかるところから紐解いていこう。
「えぇっと、つまりアレですか。望みを抱いてはいけない。そんな法律的なものが月の都にはある。のに、かぐや姫や俺なんかは、それを破ってしまった。だから罰として島流しならぬ、星流しみたいな刑が科せられた、と」
「その通りです。望んだことが罪であるのならば、失うことが罰なのです。彼らはきっと、鳴海君やかぐやに理解して欲しかったのでしょう。自分たちが空虚を抱える一族であるということを」
かぐやが空虚な竹より生まれたことも、鳴海君が空虚な瓜丈という名を戴いたことも、すべてはその結末を暗示するための証拠に過ぎません。
そう語った造健さんは深い溜息を吐いた。
「じゃあ、どうすれば俺は月に帰れるんでしょうか……」
「望んだものを手に入れること。それだけです」
なんとも意地の悪い結論に、俺は少しだけ途方に暮れた。
ここまでの長い話をまとめるように造健さんは結論を告げた。
「つまるところ、鳴海君。君はなにかを手に入れるためにこの地に降り立った。だからこそ、あなたはあなたの望むものを追ってください。それはあるいは恋人か友人か。はたまた名誉か金銭か。──いずれにせよ」
──それが手に入れば月より使者はくだされるでしょう。
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