二章「大人と子供の境目で」
1「広陵町」
俺はあまり勉強が好きではなかった。
高校受験の際は学費が高いので私立高校に行かないように勉強した。晴れて公立校に入学した後は、赤点を取ったら養父母を呼び出されると聞いたので勉強した。
俺にとっての勉強は、養両親に迷惑をかけないためのものという認識しかなかった。学びを得て教養を深めると人生が豊かになる。なんて言われてもちっともぴんと来なかったのだ。
まさか、そんな不真面目さを後悔する日が来ようとは夢にも思わなかった。
「ねぇ笹貫、これなんて読むの?」
黄ばんで汚れた古いノートを見下ろし、深い溜息を吐いた。旅に出る直前にイワカサにもらったものだ。彼が肉筆でしたためたこれは、光子分解の指南書らしい。
でも、俺にはまったく読めなかった。笹貫が言うにはちゃんと日本語らしいが、俺には不規則な落書きか外国の文字なんかに思えてしょうがなかった。
問いかけると、笹貫は車窓越しに映る景色から視線を外し、こちらに身体を寄せてきた。たったそれだけの動作で、わずかに甘い匂い香りが漂ってくる。
跳ねる心臓を押さえ、平静を装ってノートの一節を指さした。笹貫はその部分をじっと見て、ものの数秒で解読し、呟いた。
「『光子分解を使ふ際には、四つの手順はかばかしく思ひやる要あり』だってさ」
「はかばかしく」
知らない単語だぁ……。でも、なんとなく知ってるふりをしておいた。
なるほどなるほど。四つの手順ね。光子分解にはそれが必要、と。はいはい。
「なんにもわかってないじゃん」
「……すみません」
「まったくもう……はかばかしくの意味は『はっきりと』。光子分解を使うときは、四つの手順をはっきりと思う。つまり、イメージする必要があるってことだよ」
「……ふむ。四つの手順をはっきりイメージ」
四つの手順ってなんだよ。そんなのどこにも書いてなかったぞ?
パラパラと数ページ前に戻ってみても、その中身は読めなかった。
「あー、ダメだ疲れた」
ノートから視線を外して大きく伸びをすると、自然と大きなあくびが漏れた。目尻に滲んだ涙を人差し指でそっと拭って、それとなく笹貫を横目に見る。
彼女はまた、車窓の景色を望んでいた。その横顔の半分はマスクで隠れていたが青白く、どこか強張っているように思えた。
揺れる電車の中には俺たちだけ。二人の呼吸音は線路を削る車輪の音にかき消され、ときおり跳ねる車両に合わせて肩を触れ合わせる。
俺も彼女も、すっかりくたびれていた。
夜明けと共に旅立ってから、三日が過ぎた八月二十一日。
ここまでは、公共交通機関に頼っている。仙台駅から十数回も在来線を乗り継ぎ、いくつかの県を跨いで東京に向かい、そこからさらに静岡京都と進み、ここまで。
途中、路銀の節約のために歩いたりもしたから三日もかかった。
「……光子分解が使えたら、もっと楽にここまで来られたのになぁ」
「ん。でも、しょうがないよ。イワカサでも他人を瞬間移動させるのは難しいって言ってたし、ミスったら身体の一部が千切れちゃったりするらしいし」
「……この前の、玉枝みたいに、か」
脳裏に浮かび上がった男の死にざまに、少しだけ胃の辺りが重たくなる。
人を殺してしまった事実を、俺はまだちゃんと呑み込めていない。
でも、それよりも考えなければならないことは山ほどあるんだ。
月の都と月の民。光子分解。〈憑落〉。旅の目的地。犯した罪を償う方法。笹貫郁子の背負っているもの。旅に出る前に交わした、イワカサとの約束。それと──。
「……みんな、無事かなぁ」
綾瀬に残してきてしまった、鳴海家の三人のこと。
考えてしまったから、俺の意識は数日前の晩に遡る。
●●●
「……どこ、行くんだ」
〈憑落〉の工場が爆破される少し前のこと。
夏休みに入ってからすっかり日課となっていた深夜徘徊に出ようとしたら、養父の謙一に声を掛けられた。その隣には、養母──蓮子もいる。
薄暗い玄関で靴を履こうとしていた俺を、リビングからの灯に照らされた廊下に立った二人がじっと見降ろしていた。
「……ちょっと、散歩です」
叱られてる。これから、叱られる。そんな予感に思わず声が低くなる。彼らの顔を見ないように、懸命に床を凝視して意味も無く靴紐を弄ぶ。
「高。おまえさ、このところずっとそうやって夜中に出歩いてるけど、ちゃんと勉強はしてるのか? 進路のことは考えてるのか?」
「考えてます。勉強だってちゃんとやってる。高校入ってから、一回も赤点とったことないでしょ? その辺のことで謙一と蓮子に迷惑かけたことないじゃないですか」
「謙一と蓮子、じゃなくてお父さんとお母さんでしょぉ?」
「……で、なにが言いたいんですか?」
それは、ある種のクッションみたいなものだっただろう。謙一はいつだって不器用で、だから、大事な話をする前には決まってそういう問いを投げかけてきた。
遠回しに俺の不真面目さを糾弾して、ゆっくりと、薄氷を渡るように語り掛けてくる。けれども大抵の場合、少しだけせっかちな蓮子が謙一の配慮を無視して本題を投げかけてくるのだ。
「コー君、この前補導されたでしょぉ? おとうさん、そのことで職場で嫌味言われちゃったのよぉ。『謙一さんの息子さんは、不良ですねぇ』って」
警察官である謙一の息子が、警察の世話になる。それはきっと、彼の立場を貶めて、彼の尊厳を傷つけることになるだろう。いつか、こうなると覚悟していた。
「……それは、すみませんでした」
「べつに、職場の奴らになに言われたってかまわないんだよ。俺が心配してるのは、高がそうやって意味も無くふらふらしてることで──」
「意味! ……は、ある……あります、よ」
無意味だと、すっぱり切り捨てられたのが気に入らなくて反射的に声を荒げていた。でも、すぐに冷静になって、語尾は消え入るように抜けていく。
落ち着いた声で謙一が問いかけた。
「意味……それは?」
「……もう、いいでしょ。反省してる。次は警察に見つからないようにする。じゃあ、もう行くから」
深夜徘徊を続ける意味なんて、説明できるはずもなかった。
鳴海家の人たちと一緒にいなくてすむだとか、居場所を見つけられるかもしれないだとか。そんな理由は理由になってすらいないんだってわかってる。
仮に言ってしまったら、それこそいろんなものが終わってしまうような気がした。
だから、逃げるだけ。顔を見ず、言葉も交わさず、想いを内に秘めるだけ。
養父の制止を無視して歩き出したとき、
「あ、おい! まだ話は──」
「逃げるんだ」
俺の中の静寂に投げ込まれた一石は、苛立ち交じりにあざける螢の声。
玄関口でのやり取りを聞いて、二階の自室で勉強中だった螢が出てきたのだ。階段を下りる音が響く中、俺は玄関扉のノブに触れたままピクリともできない。
逃げる、と自分で言うぶんには構わなかった。
でも、他人に言われると腹が立つ。でも、腹が立つけどその通りだから言い返すこともできない。でも、どうにかしてこの苛立ちを消化したい。
このまま家を出たところで、ずっと螢の言葉をぐるぐる考える羽目になる。
「いっつもそうやって逃げるよね。一緒に過ごすのもヤダ。話すのもヤダ。そのくせずっと寂しそうにして、自分は不幸ですよ、って被害者ぶった顔してさ」
「……そんな顔、してないし」
「じゃあ教えてあげる。お父さんたちを名前で呼ぶときも、話の途中で逃げるときも、いっつもお兄ちゃん泣きそうな顔してるよ」
「……うそ」
「嘘じゃない。はっきり言ってさ、迷惑なんだよ。お兄ちゃんがいつまでも子供だから、そのせいでお父さんたち困ってて、私は受験なのに二人の相談聞かなきゃいけなかったりするしさ。少しはちゃんと大人になってよ」
流れるように紡がれる糾弾が、頭にうまく入らずに通り抜けていく。
間違っているのは俺で、正しいのは間違いなく螢の方だ。そんなことはわかっているはずなのに、腹の底で煮える苛立ちが徐々に温度を上げていく。
「黙ってないで何か言ってよ‼」
堪えきれなくなった螢が声を荒らげ、脚を踏み鳴らした。
謙一や蓮子が宥めるも意味はなく、螢は怒りに満ちた溜息を吐いた。
「……俺、は……」
俺は、大人になりたい。早く自分で金を稼いで、鳴海家から出て自分の居場所を探しに行きたい。ここにいたら、俺は気が狂ってしまう。
大人になるために、できるだけ鳴海家の人たちを頼らないで生きようとしてる。
それが間違ってるとは思えない。迷惑だってできるだけかけないようにしてるし。
そんな本音を、螢は、謙一は、蓮子は信じてくれるだろうか。
──果たして三人は俺を理解してくれるのだろうか。
わからない。わからないから──。
「俺にだっていろいろあるんだよ……なにも知らないくせに」
零れ出たのは憎まれ口で、自分の本心を取り繕うような言い訳だった。
重苦しい雰囲気に耐えきれず、ドアノブを握りしめ、強く押し出す。
少しでも早く、この場所から離れたかったのに、
「いろいろってなに? 家族なのに言えないことなの?」
走り寄った螢が俺の肩を掴み、それを許さない。家族と螢が言ったからか、あるいはしつこい追及に我慢できなかったからか。
気が付けば俺は彼女の手を振り払って──。
「家族じゃねぇだろ。他人だろ」
「あ……」
決定的な一言を、零してしまった。俺の肩を掴んでいた螢の手が力なく離れ、それと同時に俺の全身から血の気が引いていくのがわかった。
早くここからいなくなってしまいたいのに、まったく身体が動かない。
すすり泣く音が背後で響いて、螢が漏らす。
「なんでぇ……家族じゃん……私たち……」
「高……。俺たちは家族になろうとしてたんだ。決めただろ? ちゃんと施設の職員も立ち会った場で、話をして、家族になるって。なのになんで……」
謙一が硬い声でそう言って、蓮子は悲しそうに笑って付け足す。
この期に及んで俺を傷つけないように、丁寧に言葉を選びながら。
「お母さん、思うんだぁ。ただ一緒に暮らしてるだけじゃ家族になれないのかなぁって。ちゃんと話さないといつまで経っても血の繋がっただけの他人のままなんだって。コー君の場合は、血の繋がりはないでしょ? だから、なおさらね」
ちがうだろ。そこは、怒るべきところだろ。どうしてだれも俺に怒らないんだよ。怒鳴ってくれないんだよ。腫れ物扱いするみたいに、優しくするんだよ。理解できない。おかしいよ。みんな。
でも、一事が万事、これだった。
俺は鳴海家のことをなにも知らない。知ろうとしてこなかった。
そのツケが俺を蝕む孤独になって、こうしてみんなを悲しませている。
初めから終わりまで、徹頭徹尾、俺が悪いんだ。
わかってるのに、口は固まり振り返る勇気もない。
だから。
「俺の居場所は、こんなところには無いんだよ」
そんな言葉で正当化して、逃げるように家を出た。
笹貫やイワカサと出会い、玉枝や燕貝と対峙したのは、そのすぐ後のことだった。
●●●
嫌なことを思い出し、電車の座席に身体を預けた。
薄汚れた車内の天井を見上げ、深い溜息を吐く。
あんなこと、心にもなかった。いや少しちがうか。確かにアレは、俺が普段から考えていたことだった。でも、あそこまで冷たくて鋭い言葉ではなかっただろう。
うまく言えそうにないけれど、もっと曖昧で不定形で、少なくとも彼らを傷つけたくて吐いた言葉じゃなかったはずなんだ。苛立ちが明瞭に反映されてしまったがゆえに、内に秘めていた想いが誇張されて飛び出しただけなんだよ。多分。
……なんて、そんなのは言い訳だろう。
いずれにせよ、そんな感じで家を出てしまったから、帰るに帰れなかったんだ。
鳴海家の人たちには、旅に出ることは伝えられなかった。
〈憑落〉のことも、俺の出自のことも。全部。
ひょっとしたら彼らは、帰るはずのない俺を待ち続けているかもしれない。
どんな説教をしようかと、いろいろ考えているかもしれない。けれどもそのうち、俺が帰らないことを心配して警察に捜索願を出したりするかもしれない。
そうじゃなかったらいいな。もう顔も見たくないとか、二度と帰ってくるなとか、いなくなってせいせいしたとかって思っててくれた方が気分は楽だ。
そんなふうに考えていた俺に向けて、笹貫は言った。
「鳴海君の家族は、イワカサがちゃんと見てるから大丈夫だよ。あの人、強いから」
イワカサとは、あまり会話もしないで別れてしまった。
玉枝の死によって一時撤退を余儀なくざれた燕貝が援軍を引き連れてくる可能性があったから、すぐに出発する必要があった。でも、そうなると今度は俺の家族が人質になってしまう危険もあって、だからイワカサと別れざるを得なかったんだ。
あれから三日。念のために用意した変装道具──マスクと眼鏡の効果があったのか、〈憑落〉からの襲撃もなければ、警察に追いかけまわされることもない。
至って平和。この旅だって、結局は単なる旅行と変わりなかった。
車内アナウンスが流れ、それを最後まで聞くことなく笹貫は呟いた。
「そろそろだよ」
それからすぐ、電車は奈良県の北西、広陵町で停車した。
ここは今から千三百年前──
かぐや姫と、竹取の翁とその妻が暮らしていた町であり、
笹貫郁子の祖父が住む町だった。
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