4「決死の反撃」

 鳴海君は、ちゃんと逃げてくれただろうか。

 彼が去ってから、すでに三十分が経っている。一般信者たちを倒しに行ったイワカサと合流していてくれたら、あとはなんとかなるだろう。

 私もそろそろ、この場から離れないと。

 でも──


「なァ御鉢……霊薬擬き、スゲェだ──ろォ‼」


「ッ」


 恍惚とした声音で語る玉枝が、蹴り折った木を投擲してきた。その攻撃はすでに何度も見た。この戦闘が始まってからというもの、ヤツは徹底して距離を取り続け、そうやって木を投げ続けている。

 遮蔽物の多い場所でそんなことばかり繰り返すあたり、やはりヤツは戦闘に関しては素人丸出しだ。一本、二本と猛烈な速度で迫る幹を避け、距離を詰めていく。


「ぅぁあ‼」


「ぶァ」


 短い呼気と共に吐き出した気合に合わせ、うなりを上げた掌底が玉枝の胸元に炸裂した。べきりと骨の砕ける音が響き、ヤツの口からバシャバシャとすえた匂いの血みどろが吐き出される、が。


 ──浅い。


「痛ェな。……あァ、痛ェ。だが、効かねェ‼」


 すぐさま反撃が迫る。私の掌底の息を殺さずに身を翻した玉枝の脚が迫る。風切り音を響かせて、針金みたいに鋭いつま先が私の首を掠めた。


「びゅ、ぅ」


 ぱっくりと裂けた喉から零れた血で溺れそうになる。咄嗟に傷口を押さえて止血を試みるが、ささくれた肉の感触を掌全体で味わうだけで、いたずらに恐怖を覚えるだけとなる。文字通り血の気の引くような感覚に、目の前が滲んだ。

 まずい。苦しい。痛い。怖い。

 でも──。


「たとえ肋骨が折れようとも、肺が破けようとも俺たちァ死なねェ。あるいは動脈が切れようとも、な。……だろ? 俺らは、霊薬擬きを呑んでんだ」


 そう。その通り。押さえた掌の中で喉の肉が蠢いた。ミミズが這うような不快感と共に赤黒い光の粒が喉から零れ、そうして、傷は塞がった。

 山の斜面。頂上側には私。麓側には玉枝。両者十五メートルほどの距離を取ってにらみ合う。血に汚れた手を振り払い、ゆっくりと口を開いた。


「だからこそ、決着はつかない。殺し合うのは無駄だよ。玉枝。鳴海君は逃げた。だから今日は諦めろ」


「ハッ。バカ言っちゃァいけねェよ。霊薬擬きがもたらすのは、人並み外れた身体能力とバケモノじみた治癒能力だけだ。未だ不死の実現はァなっちゃいねェさ。要するに、決着がつかねぇはずがねぇんだ。殺せばテメェも俺も死んじまう」


 舌打ちと共に血を吐き捨てて、ゆっくりと歩きながら距離を詰めていく。

 玉枝──〈憑落〉の研究部門を統括する幹部。

 もともと民間の研究機関に所属していたヤツは、研究倫理に反した人体実験を繰り返していたことが暴かれ、職を追われて〈憑落〉に流れ着いたと聞いている。

 特筆すべきはヤツの頭脳。霊薬擬きを創り、〈憑落〉の戦力増強を成し遂げたことで幹部の座に至った男だが、その反面で戦闘能力は高くない。


 霊薬擬きの効果が継続するのはおよそ六十五分。

 私が霊薬擬きを呑んだのは、玉枝から鳴海君を逃がす少し前。

 対して玉枝は工場爆破に巻き込まれて傷を負った後。

 つまり、私の方が効果が長く残る。ので、勝つのは私だ。


「──と、思ってんだろうなァ」


 初めて、玉枝の顔に感情が浮かんだ。

 そしてそれは、敗北の苦渋ではなく、勝利を確信した愉悦だった。 


「……あぁぶっ⁉」


 背後から、なにかに押しつぶされた。同時に肺から空気がすべて絞り出されて、強かに打ち付けた顔面も、脚も、背中も痛んだ。

 木だった。玉枝が投げ続けた樹木が転がって来たんだ。


「テメェ程度を殺すのに、俺が頭を捻る必要はねェ。真に頭の良いヤツァ、頭の使いどころを知ってるヤツだ。ま、そこで間抜けに下敷きになって死んでくれや」


 でも、霊薬擬きで強化された今の身体なら、木を持ち上げることだって──。


「ぁ」


「ハハッ。力ァ出ねェだろ。みんな知ってたぜ? テメェがイワカサと通じてるってなァ。ただ、それをテメェに悟らせちゃァつまらねぇ。珂瑠はテメェの望みすら一つの娯楽として楽しんでたからなァ」


 そこで言葉を区切った男は、私にだけ伝わる声音で、言った。


「これで、騙されるのは二度目、ってかァ? 笹貫郁子ォ」

「は……」

「テメェが今日の瓜丈襲撃を予期し、邪魔しに来るってのは予測済みだ。だからこそ、あらかじめテメェにゃ効果が三十分しか持たねぇ失敗作を渡しておいたのさ。ったく、少しくらい学べよなァ。テメェ騙されてバッカじゃねぇのさ」


 全部、バレていた。どうして。なんで。痛い。脚が折れてる。思考が散っていく。呼吸も満足にできない。こうなったら戦うよりも、会話を続けろ。

 鳴海君が遠くに逃げる時間を稼がないと。

 その果てで私が死んだってべつにいい。

 鳴海高。彼が生きてくれるのならば、それだけで私は──。



   ●●●



 イワカサは、玉枝のことと、霊薬擬きとかいう奇妙な薬物の話を俺にしてくれた。

 まぁこれが意味のわからない話で、玉枝──本名比島永嗣ひじまえいじという男はめちゃくちゃ頭が良くて、七年ほど前に人の身体能力を向上させ、さらには致命傷以外の傷を数分で治してしまう効果を持った薬を作ったらしい。

 んなアホな。と思ったけれど、その辺のことを考えている暇はなかった。


「よし。じゃあ早いとこ殺して、瓜丈追っかけるとするかなァ。最悪瓜丈の家族を人質にでもすりゃあ、すぐに出てくるだろ」


 ──笹貫が、負けた。


 沈黙と闇の帳が降りる山中で倒木の下敷きになった笹貫に、玉枝は冷酷に告げる。

 けれども彼女はまだ諦めていないのか、男の神経を逆なでするように吐き捨てる。


「クソ野郎。死ね。イワカサに負けて死ね。あんたも私も、地獄行きだ」

「ハハッ。御鉢は学がねぇなァ。罵倒のキレがねェ。……殺すぜ」


 どうして、あんな状況で平静を保っていられるのだろう。

 俺だったら泣き喚いて命乞いしてるだろうな。なんて呑気にも思いかけたとき、玉枝は脚を持ち上げる。身体の軸のブレがない、強固な体幹を窺わせる姿勢だった。

 きっと数瞬後には、その脚が笹貫の頭を砕いていることだろう。

 でも、そうならないために、俺はここまで戻って来たんだ。


「行くぞ」


というイワカサの言葉に返事はしない。その代わりに、飛び出す。


「ちょっと待ったぁ‼」「は」「え……」


 裏返った絶叫を飛ばすと、笹貫と玉枝は呆けた顔をしてこちらを見た。

 一点に集まる視線が全身をぴりぴりと痺れさせ、恐怖で膝が笑い始める。


「お、お望み通り出てきてやったぞ。だから、笹貫を解放しろ!」


 痩せぎすの男は脚を下ろし、完全にこちらに向き直る。

 その顔に表情は無かったが、どことなく強者特有の余裕が満ちていた。

 笹貫に背を向けることすら、なんら脅威になり得ないのだと告げている。


「これァ傑作だな御鉢ィ‼ テメェが命を懸けた意味も無くなっちまったァ!」


「鳴海君っ‼ なんで逃げてないのバカっ‼」


 笹貫の罵声を受けて、俺は小さく息を吐き出し笑った。

 

「責任をとるために」


 笹貫の「はぁ⁉」を合図に駆けだした。

 玉枝はだれかと待ち合わせでもするかのように、弛緩した身体をそのままにして欠伸も零してみせた。でも、ヤツの射程距離に入れば俺は死ぬ。

 殺気。なんてものを感じ取ることはできずとも、明確な痛みの気配は予期出来た。


「ま、面白おかしく死んでくれやァ」


 彼我の距離が五、四、三──と、縮まっていく中で玉枝は右足を持ち上げる。弧を描く脚線が停止したかと思えば、一瞬でその脚は風を切り、こちらに迫ってくる。

 時間がスローに引き延ばされていき、致命の一撃が迫る。迫る。迫る。

 その寸前で、


「──ッ光れェ‼」


 必殺の呪文を高らかに叫んだ。

 が、しかしなにも起こらない。残念ながら、俺は強くない。殴られたことも無ければ、殴ったことだって無い。当然、光子分解なんて超能力が使えるはずもない。

 つまるところ、これは犬死への徒競走。

 徒花となって散るまでの、ほんの一瞬の疾走だ。


「ぉおおおぉおおおああああああああああああ──ぁぇ?」


 ばしゃ、と。弾ける音。少し遅れてゴリゴリゴリって骨が削れる感じ。目の前が真っ暗になって、身体がバラバラになって軋む。痛い。それでも──。


「ぉえはァ‼ おぉおぃああああああ‼」


「あァ⁉ 放っ‼ 汚ッ」


 玉枝の細い身体に両腕を回し、血みどろの顔面を押し付ける。

 絶対に、コイツを離さない。

 だってそれが、イワカサと立てた作戦の、俺にできるただ一つ。


『御前が、囮役を務めるのだ』


 玉枝は合理的な思考を持ち合わせつつも、感情的な衝動に身を任せることが多いらしい。だからこそ、獲物である俺が近づけば、いの一番に俺に集中し始める。

 その隙に、イワカサが玉枝に接近し、殺す。

 これが、彼から聞いていたすべて。

 どのように玉枝に近づくのか。どのように玉枝を殺すのか。そこまではわからないが、詳細を訊ねるだけの時間はなかった。場当たり的かつ杜撰な作戦だ。

 でも、信じるしかない。


「ぅうううあああああぁあああ‼」


「テメェまさか──まずッ」


 玉枝は、俺たちの作戦に気がついたようだった。顔色一つ変えずに、けれどもその声には焦燥を張り付けている。霊薬擬きとやらの効果で向上した膂力は、俺を簡単に引きはがす。顔面に肘打ちを貰い、もう全身が痛みの塊になっちゃう。

 でも、その動作一つが致命的な隙を生む。


「──善い、働きであったぞ。瓜丈高」


 黄色い光の粒が踊り舞い、玉枝の背後で影を成す。

 収束する光の中に立ち尽くすイワカサは、玉枝の無防備な脇腹に手を当てて、


「光れ」


 ただひと言、光子分解のトリガーを引いた。

 決着は一瞬。

 イワカサの手から零れた黄色い光が、玉枝の肉体に侵食していく。身体の内より漏れ出る光が瞬き、そしてそのたび輝きを増していく。

 もはや、ヤツの断末魔も響かない。

 完全に光に飲み込まれた玉枝は、天高く昇って行った。見えなくなるほど遠くに消えたヤツは、やがて肉体を取り戻し、そのまま地面に叩きつけられるだろう。

 そしておそらく、命を──と、そこで俺は考えるのをやめた。

 ひとまず窮地を脱した。安堵感と痛みがぐっと押し寄せてきて、力が抜けた。

 全身が太陽にでもなったのか、暑くて熱くて堪らなかった。

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