3「押し付けられる善意」
木々の梢で丸く切り取られた空の中心に、ぷかりと満月が浮かんでいた。
あの場所から、俺は地球を見下ろしていた。……夢、だったのだろうか。それならいっそ、今夜見聞きしたすべてが夢であったなら──と、そこまで考えはっとする。
反射的に身体を起こして、瞬間。
「ぉひょわあああああああああああぁあぁ⁉」
クッソ情けない悲鳴が零れた。
死ぬほど胸が痛かった。思いっきり殴られた頭でもなく、転んでできた全身の擦り傷でもなく、キモいくらいにひしゃげていた脚でもなく。胸。なんで?
とは思いつつ、痛いものは痛いので、身体を起こしたまま微動だにせず息を止めた。指一本でも動かすと、さっきの痛みに襲われると確信していた。
そうして石みたいに固まっていると、よく響くバリトンボイス。
「目を、覚ましたようだな。調子はどうだ?」
視線だけを彷徨わせると、依然として山の中。
辺りに散らばる血痕が、だれのものなのかは想像に難くない。俺と、おじさんのだろう。でもおじさんの遺体も、俺を襲った燕貝とかいう少年の姿はない。
だから、この場にいるのは俺と奇妙な男だけ。真夏の夜には似合わないブラウンのコートを着た男だった。地元チームの野球帽を目深に被っていたので顔を見ることはできなかったが、ひと目見てわかる。
「ほー、ホームレス……の、人ですか?」
全体的に薄汚れた容貌に、そんな失礼なことを言ってしまった。
けれども彼は気を悪くした様子もなく、淡々と言葉を紡いだ。
「さて。御前。どこまで思い出した」
「思い……だす?」
なんの話だろう……って、そうだった。
胸を襲うわずかな痛みを堪えつつ、そっと呟く。
「〈憑落〉は……」
俺が意識を失う直前まで対峙していた少年、燕貝、だったか。あの口ぶりからして彼も俺を狙う存在だったように思えるが、どうして今、俺は無事なのだろうか。
ただ見逃してもらえただけ? それともこの男に助けられただけ?
考え込んでいると、男は溜息を零した。
「妙な話だ。かぐやも、義光もまた、月の都の記憶を有していたにもかかわらず、御前は何故総てを忘れているのか。……単に愚かなだけか。否。わからぬな」
「……なにを」
「まぁいい。御前。傷の調子はどうだ?」
独り勝手に疑問を飲み込んだ彼は、俺をじっと見て──というか、顔をこちらに向けて──問いかける。自身の胸と、脚と頭と、ゆっくり触れて確かめてから答えた。
「……なんか、怪我、治ってるんすけど。あと、死ぬほど心臓痛い」
「とりわけ深かった傷は頭と脚だ。頭に関しては骨が砕けていた。そして脚は、神経やら腱やらが断裂していたからな。あのままでは後遺症は免れなかっただろう。……ゆえに少しばかりの調整を施した。胸が痛むのはそれゆえだ。だが、じき馴染む」
「……あ、はい……えと、あの、助けてくれた、って認識で合ってます?」
「御前があの場で死にたがっていたのなら、私が為したことは余計なお世話、となるだろうがな。……家に、帰るつもりはなかったのだろう?」
どうにも迂遠な言い回しだった。首を傾げつつ「ありがとう、ございました?」と零す。男は小さく肩をすくめただけで、すぐに立ち上がってしまった。
「あの、どこに」
「雑兵共は私が殲滅しておいた。残るは玉枝のみ。ゆえに御前はここにいたとて襲われることもないだろう」
「はぁ」
「笹貫郁子の時間稼ぎも限界だ。私は玉枝を殺しに行く」
笹貫。その名前に、錆びついていた思考が熱を帯びた。
そうだ。悠長に喋ってる時間なんて無いんだ。大人を呼びに行くと彼女に言った。なら、俺がやるべきことは少しでも早く警察と消防に連絡することだ。
幸いなことに、静かな夜だった。
空はまだ赤く染まっているし、地響きが遠くから聞こえてくる。〈憑落〉の工場が燃えているままで、笹貫だって戦闘中だろう。サイレンはまだ、聞こえてこない。
つい安心して緩んだ心に喝を入れる。
「わかった」
玉枝を殺す。そう語る男のことはわからない。その行為の意味も、あんまり深く考えたくない。でも、とりあえずここで騒いでいたって意味はない。
ので、俺は俺の、やるべきことを成し遂げるだけ。
そうでなければ、あの、亡くなってしまったおじさんに申し訳が立たない。
「俺は、警察を呼びに行ってくる」
「それは、無駄だろうな」
「は? なんで?」
確信めいた声に間抜けな声を漏らすと、男は大げさに肩をすくめた。
「今宵の奪い合いにおいて、〈ツキオトシ〉は多額の金を積んでいる。ゆえに官警や救急はこの一件に関わる気がないのだ。もっとも、奴らが傍観している理由はそれだけではないのだがな」
実際、工場を爆破してからすでに一時間が経っているのにもかかわらず、パトカーや救急車、消防車のサイレンは鳴っていない。カタカナ語を徹底的に配した口調で、男はそんな感じのことを続けた。
「じゃあ、どうすれば……」
警察や救急を頼れないのならば、打つ手なしだろう。
あんな、平気で人を殺そうとするやつらを止める手段なんて。
考え込む俺に向けて、男は至極単純な答えを教えた。
「この手で、玉枝を殺さねば終わらない」
「……殺す。殺さないと、止まらない。終わらない」
俯き、呟く。殺すとか殺されるとか、そんな言葉はフィクションの世界だけの話だと思ってた。ときおりテレビで流れるその言葉は、あくまでも対岸の火事だった。
けれども今、ここで火事が起きている。
殺し、殺される戦い。
──〈憑落〉は瓜丈高を狙ってるんだ。
笹貫の言葉の意味は、ちゃんとわかった。わかっていたんだ。
だからこそ、こう思うのは自然なことだった。
「俺も、行くよ」
「ならぬ。私が玉枝を殺す。御前が来たとて意味はない」
それはその通り。俺にできることなんてゼロ。いやむしろマイナスだ。無理言ってついて行っても事態が悪化するだけに決まってる。だけど、それでも──。
「アイツは……〈憑落〉は俺を狙ってるんだろ?」
「そうだ」
「俺のせいなんだろ? これ。玉枝とかいうヤツが俺を狙ってることも。笹貫がソイツと戦ってることも。お前が戦おうとしてることも。〈憑落〉の建物が燃えて、孤児院の子供とか、いろんな人が怪我してることも。ぜんぶ俺のせいなんだろ?」
いじけた子供みたいな声で言い募る。情けなさと悔しさで泣きそうだった。けれど、必死に男の顔を見上げる。闇に隠れたその眼の奥に、俺は必死で想いを送る。
男はもう何度目になるかもわからない溜息と共に呟いた。
「御前のせいではない。そもそも童共はみな避難させている。ゆえにこの場にいるのは傷ついても問題ない悪人だけだ。……御前が気に病むことなどなにもない」
「それは良かった。でも、死者が出た。助けるって決めたのに、俺はおじさんを助けられなかった。死んでしまった。それは俺がバカだったから。俺が弱かったからだ」
もっとうまく逃げられた。おじさんを背負えるだけの力があれば、まだ早く燕貝から逃げられた。もっと周囲を警戒していれば、燕貝の襲撃を知覚できたはずだった。
俺は、その責任を取らなきゃいけないんだ。
だれも助けてくれないのなら、俺がこの手で終わらせなきゃいけないんだ。
けれども、そんな俺の考えを真っ向から否定する男は、少しだけ語調を強めた。
「くどい。そもそもの前提から間違っているのだ。御前が総てを背負う必要もなければ、それができるだけの力もないだろう。そも、〈ツキオトシ〉にまつわる総ての責任はこの私が背負うべきものだ。ゆえに、御前は大人しく待っていろ」
事が済めば二三の事情は語ってやる。
突き放すような言葉は頑なで、逆らうことなんて許さない絶対的な命令だった。けれども、少なくとも悪意はなかったように思える。
ただ、だからこそ全身がひどく熱くなった。男の放った言葉と、過去に受け取った優しさが奇妙なつながりを持っていたからだろう。
──これから、お兄ちゃんって呼んでもいい?
──ゆっくり、ゆっくり家族になっていこうな。
──きっときっと、私たちが幸せにしてあげるから。
十一年前、鳴海家に引き取られた日の夜に、義妹と養父と養母がそう言ったんだ。
やっぱりそこにはひとひらの悪意もなくて、ただ優しい善意だけが在っただろう。
でも、だからこそ俺は泣いたんだ。優しくされたら同じだけの優しさを返さなきゃいけないのに、俺はなにも返せない。なにも持っていなかったから。独りぼっちで、ちっぽけで無力だから。
一方的に押し付けられる善意に対して、俺は責任を背負えない。
ならせめて、俺は自分の意思で責任を負い、果たしたい。
きっとこれは拗らせた子供の論理だ。だれに理解されるものでもないし、理解されたいとも思ってない。それでも、俺が俺として生きるには、大事なことだ。
「……責任は、俺がとる。俺の人生の責任は、俺のものだ」
「ならば、どうする?」
男の問いかけには、すぐに答えなかった。でもそれは痛みと恐怖と不安の三重苦で全身が震えてしまっていたからじゃない。せめて、堂々と告げたかったからだ。
強烈な胸の痛みをぐっとこらえて立ち上がり、真正面から男を見上げた。彼はふてぶてしい黒猫みたいに顎を持ち上げて見下ろす。そうすることで、俺はようやく男の眼を見つめることができた。
不吉で醜い輝きの灯る、落ちくぼんだ醜い瞳だった。滲みだす夜色の雰囲気が冷たく俺を包み込む。怖気ついた心を懸命に奮い立たせながら言葉を紡ぐ。
「俺も、戦うよ」
「……度し難いな。愚かな選択だぞ? それは」
男は、頷く俺を値踏みするようにじっと見つめてから、「これ以上の問答は時間の無駄だな」と溜息交じりに漏らして言った。
「御前たち月の民は、心臓の隣に
「……くれてやるんで見逃してくれ、とはいかないんだよな?」
「御前が自殺志願者であるのならば、可能だろうがな。月印を失えば御前は死ぬぞ」
そもそも、月印とやらをあげるので見逃してくれという提案が通じるのなら、ヤツらもこんな強硬手段に出ることもなかっただろうし。それに、アイツらが話の通じる相手ではないことはもうすでにわかってるんだ。なら、戦うしかないだろう。
「しかし月印は武器でもある。御前の月印は半ば機能停止に陥っていたが、それを先ほど、少しばかり調整させてもらった。それにより、ある程度の力を取り戻すことはできたはずだ」
月印のもたらす祝福は二つ──とイワカサは続ける。
「肉体の増強。わずかばかりの傷や病では倒れぬ身体だ。骨が折れようとも数刻で完治し、肉が裂けようともすぐに血は止まるだろう。だが、これはあくまでも本質ではない」
「本質?」
「そうだ。月印に宿った本来の機能。頑健さの獲得はその副次効果に過ぎんのだ」
そこで言葉を区切った男は、俺の胸の右側に拳を押し付けてきた。
ちょ、そこ痛いから触んなよ、とは思っても言わない。
「光子分解。万物を光に変換し隷属させ、操る異能だ。それが、この月印の本質だ。必要ならば、肚の底より祈れ。『光れ』と念じろ。さすれば御前も、だれも届かぬ高みで輝けるだろう」
薄いシャツ一枚隔てて触れる彼の拳が、俺に覚悟を問いかける。
覚悟なんてできてない。でも、受け入れることにした。俺は月の都の住人で、なんだかよくわからない超能力を持っていて、それゆえに命を狙われているって事実を。
男は外套をはためかせて、なにやら意味不明な口上を響かせた。
「我が名はイワカサ。千年前の亡霊であり、されど今は、御前と共に戦う男の名だ」
「……とりあえず、よろしくな」
それっぽい口上を返すべきかと思ったけれど、巧い台詞は思いつかなかった。
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