2「月の都の咎人よ」
ツキオトシハウリタケコウヲネラッテルンダ。
どうやら、逃げなければ死ぬらしい。……冗談でしょ?
ひどい頭痛に苦しむ中でも、時は平等に流れていく。笹貫の吐いた言葉の意味を、俺が完全に理解する前に白衣の男は語る。その、乾いたバケツの底みたいな、うっすらと汚れのこびり付いた瞳に俺と笹貫を写して。
「あー。しっかし、どう報告したもんかなぁ。御鉢はイワカサと手を組んで俺らを裏切ってェ……で、ラボをぶっ壊してェ……瓜丈を守ろうとしててェ……。こりゃァ、俺の責任かァ?」
「正直に言えばいいんじゃない? 『俺は、役目も果たせない無能でした』ってね」
冷静な言葉を返しつつも、笹貫はそれとなく俺を庇うようにすり足で移動する。
そんな彼女らの様子に、俺はなんとなく時代劇めいた空想を抱いた。刀を構えた二人の侍が機を窺い合っているような一触即発の雰囲気だった。
呆然と見つめているだけの俺でさえわかる緊張感。ひりつくような、焦げ付くような空気の鋭さに、呼吸すら忘れていた。
「で、協力者はどこにいる。レーザー兵器かアレ。や、光子分解……ってェ可能性もあんのか。むしろその可能性の方が高ェか。亡霊……イワカサはどこにいんだよ」
「さぁね」
「そうかい……しゃァねェな。テメェは殺す。んでもってイワカサの居場所も探る。ついでに瓜丈は捕まえておく。そうすりゃあ全部丸く収まる。そんだけの話だ」
「あっそ。じゃあ、やってみろクソ大人」
スタートの合図は、笹貫の挑発。
男の身体がノーモーションでブレて消える。
「なっ⁉」
「──っづぅ‼」
大上段から振り落とされた踵落としを、笹貫は交差させた両腕で防いでみせた。防御できたということは、彼女は俺とちがって男の動きを認識できたということ。けれどもそれだけではない。防御から一転。攻勢に出る。
笹貫は男の脚を掴み、そのまま腰を落として回転した。ハンマー投げの要領でたっぷりと勢いをつけて、
「よいっ……しょぉ‼」
男をぶんと投げ飛ばした。弧を描く。なんてものじゃない。まっすぐ吹き飛ぶ男はそのまま薄ら闇の中に消えて行った。そうしておそらく、木やなにかにぶつかったのだろう。派手な音と振動が響く。
「早く‼ 走れ鳴海高‼ 鳴海君が死ねば全部台無しになるんだよっ‼」
「逃がすかよォ‼」
男の復帰は早かった。傷一つない身体のまま、火災によって赤みを帯びた闇から飛び出すヤツは、そのまま俺に向かって拳を振り上げる。
「させっ! ないよぉ‼」
縮まった俺たちのあいだに割り込む笹貫が叫び、俺は慌てて立ち上がる。
逃げる。それはそれでいい。というかそうした方が良い。
もう完全に理解した。男は異常。ついでに言えば笹貫も異常。
俺がどうこうできる範囲を超えてる。
ので、彼女らに背を向けて早口で言う。
「笹貫。俺、大人呼んでくる。だからそれまでどうにか耐えてくれ!」
早足で進み、地べたに倒れてピクリともしないおじさんを見下ろす。死んでる……わけじゃなさそう。幸いなことに胸はわずかに上下している。
安堵の溜息を零す間もなく、俺は彼の脇の下に手を挟み込み抱えた。背負えるのならよかったが、気を失った大人を持ち上げられるだけの膂力は無かった。
「なるっ! そいつもっ!」
「喋ってる暇あんのかァ⁉ ねぇだろうがよォ‼」
「あぁもうウザい‼ 諦めてよ‼」
振り乱される暴力の雨を受け止め、いなしながら笹貫がなにかを叫んでいたが、すっかり散漫になった俺の思考が、その内容を理解しようとするには無理がある。
こちらに体重を預ける男を引きずりながら、俺はなんとか走り始めた。
●●●
「おじさん! 死ぬなよ! 死なないでよ!」
半身になって、重たいおじさんの身体を羽交い絞めの要領で抱えて走る。いや実際、走るというよりも早歩きって感じだけれども。
それにしても、これはまずい。おじさんを引きずっている関係上、地面にはまっすぐ跡が残ってしまう。せめてそうならないように〈憑落〉の工場に続く、舗装された道ではなく鬱蒼とした獣道を選んだのだが、それが失敗だった。
でこぼこした木の根や草に彼の脚が引っかかるせいでろくに前に進めない。
置いていくか。いやいやダメだ。でも、こんな悠長なことをしている間に、もし笹貫が負けて、玉枝と呼ばれていたさっきの男が追いかけてきたらそれこそ終わりだ。
──〈憑落〉は瓜丈高ヲネラッテルンダ。
笹貫の声が聞こえる。その言葉の意味が、ゆっくりと俺の脳にしみこまれていく。
意味のない音の羅列が、確かな言葉として変換されていく。嫌な予感に叫びたくなる。でも我慢。無駄に喚いて居場所をヤツに知らせることになるのは避けたい。
とにかく、山を下りよう。
「ぅう、ぅう……」
頭の中を荒すように吹きすさぶ嵐みたいな思考たち。答えの出ない問を転がす俺の耳に、微かながら呻き声が飛び込んでくる。はっとして視線を降ろし、呼びかける。
「起きた⁉ 無事ですか⁉ あの、自分で走れますか⁉ 俺もう限界で……」
呻くおじさんは、巨大な血の塊みたいだった。俺が上着を巻きつけた頭だけでなく、全身に傷を負っているようでどこを触れても生暖かい液体でぬるぬると滑った。
できることならあまり長く触っていたくなかった。なんて、自分勝手だけれども。
「おいて、いけ」
「どうして!」
「おれ、は、お前を……」
息も絶え絶え、掠れた声で彼は言った。
「瓜丈、高を……殺すために、ここにいた」
瓜丈高。それは、俺が鳴海家に引き取られる前に名乗っていたものだ。
俺の本当の親が、唯一俺に与えてくれたもの。それを彼は知っていた。玉枝にぶん殴られる前に、瓜丈高と叫んでいた。だからこそ、彼もまた俺を狙う〈憑落〉の信者だと考えられる。けれども、
「でも、おじさんは俺に逃げろって言いました。助けようとしてくれましたよね」
「……」
「まあ、俺がバカすぎたからちゃんと聞き取れなかったわけですけど、助けようとしてもらったのは嘘じゃない。だから、受けた恩に報いるんです。それが責任を果たすってことだと思います」
呆けた目のおじさんが溜息を吐いて、「なに言ってんだコイツ」って感じの白けた空気が漂い始める。俺も同じ気持ちだった。こんな状況で格好つけんなよ。
冷静な、冷酷な部分では彼を置いていくべきだと思ってる。
でも、ただでさえ笹貫を見捨てて逃げたうえに、彼も見捨ててしまえば俺は本当にクズになってしまうんじゃないかって気がする。あるいはそうやって真人間ぶらないと、この状況では正気を保てなかったのかもしれないけれども。
「とりあえず、携帯電話持ってます? 俺、家に置いてきちゃってて」
「……い、いや」
現代人が二人も揃っていながら、携帯を持ってないなんてあるかよ普通。常に携帯しているからこそ携帯電話って名前なんだぞアレ。なんて、自分のことを棚の上にぶん投げつつ、現状把握に努める。
「ところでおじさん、なんで俺を狙ってたんですか」
ひたすら前を睨みつけて、足早に歩きつつ、おじさんの嘆息に耳を傾けた。
「おれも、詳しくは聞かされていない。でも、あの子が言うには……瓜丈高は──」
あの子って言葉に首を捻りつつ、ごくりと喉を鳴らした瞬間。
「あれ」
気がつけば、転んでいた。足場が悪いから転んじゃったみたいだ。でも、おかしいな。なんでひっくり返ってるんだろう。急いで逃げないと。立たないと。
そう考えて身体を起こしたとき、
「ひゅう?」
俺の隣に転がるおじさんが、たくさんの空気を含んだ呻き声を上げた。見れば、腕をねじりながらぴんと伸ばしていびきをかいて震えてる。でも、それも一瞬だけ。
すぐに彼は、ゲップのような吐息を漏らし、動かなくなった。
ボタンみたいに生気のない瞳が、丸く、黒く、空を見つめるだけ。
死んだ。かもしれない。事実、男の首には人差し指くらいの穴が開いていた。
「あ、え、ぁ、うそ──っ、いぃ、」
彼の死を理解するより早く、雷に打たれたみたいな痛みが全身を巡った。
「っ、う、あ、ああ、あああああ、あああああああああ」
口を閉じることができない。よだれが零れる。涙も溢れる。鼻水が湧き出て止まらなくて、だから呼吸はできない。死にかけのイヌみたいに口を開けて喘ぐ。
痛い。痛い。痛い痛い痛いいたいいたいいたい。なんだか、足が。おかしい。すごく、いたい。どろどろ零れる涙のわけもわからずに、小首をかしげて脚を見ると。
「ひぃいああああああぁあああ⁉」
俺の左足が、おかしな曲がり方をしていた。
膝関節から逆向きに折れ曲がって、膝の裏側から骨が飛び出してる。悲鳴に合わせて血潮がぴゅうと飛び出て、脈打つたびに傷口がてらてらと艶めかしく光る。白と黄色の境目みたいな色した骨に、細い筋みたいな肉が薄汚くこびりついている。
こんなの見たくないのに、視線が釘付けになって離れない。なにが起きた。なんで折れた。理解不能に埋め尽くされる頭に、変声期前を思わせる、少し掠れた高い声。
「いやぁ、気づかれないものだね。いちおう何度か声はかけたんだぜ? でも、君が僕にはすっかり気付かないものだから、少々イラついて、ね」
真後ろから響いた声にはっとして、恐る恐る振り返る。
そうして俺は少年を見て、痛みを忘れた。
月明かりをたっぷり含んで白くきらめく髪の毛は、精巧なガラス細工によく似ている。濃密な血の匂いを漂わせる深紅の瞳は、夜の底で確かに光り輝くルビー。整った。いや、整いすぎた容姿は総じて工芸品めいている。
小柄な体躯、そして美貌。けれどもそれらを遥かに凌駕するほどの威圧感が放たれていて、それにあてられ、俺は言葉を失くしていた。
「ソイツはね、えぇと、なんて言ったっけか。……忘れちゃったよ。あぁ、でもソイツは金に困ってたみたいって話だったかな? それだけは覚えてるかな」
「……なに、を」
「〈ツキオトシ〉……その長、
呆然と、地面にへたり込んだまま少年の言葉を咀嚼する。
〈憑落〉の長。ってことは、教祖? そいつは、なに? 珂瑠? そいつが、俺を捕まえろって? なんで? 意味わかんない。
ふつふつと、湧き上がる思いの正体は判然としない。
なにせ、一から百まですべてが理解できていないから。
ただ、命を狙われている。
それが事実であることだけが、確かにわかった。
「……なんで」
口に出せたのは、それだけ。
今にも気が狂いそうで、苦しくて、涙をこぼすことしかできない。
だって、おかしいだろ。俺を捕まえてなにをしたいんだよ。なんで俺なんだよ。どうして俺がこんな目に遭うんだよ。
今日だって、なんてことない夏休みの一つだったはずなんだ。
そりゃあ、夜中に家を出たのはまちがってたよ。鳴海家の人たちにひどいこと言って出てきちゃったのはだめだったよ反省してるよ。でも、こんな目に遭うってわかってたならさっさと帰って謝って──。
「なぜ、瓜丈が狙われているのか。その答えは至極単純。瓜丈高が、月の都の咎人だからさ。遥か過去より人知れず、月にて暮らす一族がいた。それこそが、月の民」
少年は薄ら笑みを張り付けた顔のままひと呼吸分の間を置いて、言葉を継いだ。
「あぁそう……つまるところ瓜丈は、かぐや姫そのものだったのさ」
「──」
シュールなことを、大真面目に。
理解できない俺はまだ、呆けて間抜けて瞠目するばかり。
そんな俺を置き去りにして、彼は歌うように言葉を継ぎ足す。
「〈ツキオトシ〉の幹部には、原典の物語──『竹取物語』における五つの宝物の名が与えられる。仏の御石の鉢。蓬莱の玉の枝。火鼠の裘。龍の首の珠。燕の子安貝」
繰り返される言葉の切れ目には、演技めいた一礼を。
頭を下げ、上げて、その顔にはやはり張り付けたような笑みが浮かんでいた。
「僕に与えられた名前は、
薄く引き伸ばされた唇も、細められた紅玉の瞳も、すべてが三日月のようだった。
緊張が限界を迎えたのか、不吉に笑う死神を前に、俺はゆっくりと意識を失った。
●●●
これは、夢だろう。
真っ先にそう思えたのは、世界がモノクロだったから。
真っ黒い夜空と、真っ白い砂と岩石の大地のあいだにしゃがみこんでいた。
ここはどこだろう。そんな疑問を浮かべた俺の心を読んだように、涼し気な女性の声が響いた。……独りっきり、ってわけじゃなかったのか。
『瓜丈高』
こんな砂だらけの世界には似合わない服装だった。
薄紅、若草色、灰梅色──と淡い色の着物を幾重にも身に纏っていて、教科書で見た十二単とかいうのに似ている気がした。
でも俺が目も心も奪われたのは、彼女の黒髪。風も無いのにはらはらと靡くそれらは、夜空の黒をはるかに凌駕して艶がある。扇に隠されたその顔を見ることはできず、だから唯一彼女の容姿を想起させる髪の美しさに、俺はただ息を呑んだ。
『瓜丈高。あなたを、この月の都から追放します』
『──』
ショックを受けている、と白状しよう。
女性の声が冷たかったからだ。顔の見えない彼女に甘く優しい声を、言葉をかけてもらえればどれだけ幸せな気持ちになれただろう。期待を裏切られた気になって、絶望感に襲われる。
呆然としたまま、ぼんやりとしたまま、続く言葉がしみ込んでくる。
『犯した罪には、相応の罰を』
『……──』
口を開こうにも、声が出なかった。パクパクと開く口は空気を弄ぶように掠れた吐息を漏らすだけ。喉に手を当てて確かめようとして、手足がなにかで拘束されていることに気付く。
そうしてようやく、俺は自分の姿勢の意味を悟った。地面に膝をつき、頭を垂れ、無防備なうなじを露わにするこれは──処刑される罪人のそれだった。
『咎人は地に堕ち、その身に穢れを宿しつつ、浅ましく生にしがみ付く』
背筋が凍る。なにをされるのか。なにが起きるのか。
俺にはまるでわからない。ただただ、鮮明な恐怖で目の前が滲む。
『これこそ、わたくしたち月の民の慣例。遥か千三百年前より続く習わし』
ひと呼吸ぶんの間を置いて、女性は言った。
『見なさい。瓜丈高』
ゆったりとした袖口から悠然と伸びる白磁めいた細腕が右を指し示す。首を回して彼女の示した方向に視線を送り、そして、我が目を、我が脳を疑った。
『──』
真っ暗い夜の中に、鮮やかな球体が浮かんでいた。ただ浮かんでいるのではない。回転していた。その証拠に、見覚えのある緑の図形が横に流れていく。表面にある青と緑を覆う、まばらな厚さの白も時々刻々と形を変えていく。
つまるところ、アレは──。
『……あれこそが、あなたの流刑地です』
科学の教科書で見たことがある。
あれは、地球だ。
ならば、ここは月だろうか。
『──』
おもむろに扇がぱたんと閉じられる。そうして光よりも眩しい白色の肌と、薄桃色に染まったゆがんだ唇と、大粒の涙に濡れた黒曜石みたいな瞳が露わになった。
泣きながら、辛そうに、苦しそうに、けれども声は冷静に、彼女は告げた。
『如何か。如何か良き出逢いを。あなたの、本当の居場所を。そのために、無用なしがらみには封をしておきます。きっときっと、幸せに──』
果たしてこれは、夢なのだろうか。
夢にしてはずいぶんと胸の痛みがリアルだった。
『輝きなさい』
女性の言葉に呼応して、視界いっぱいに二色の光が踊り舞う。彼女の身体から零れた光は、深い水底を思わせる色に染まっている。そして、俺の身体は末端から徐々に黄色い光を零し、それに合わせて感覚が遠ざかっていく。まるで、身体が光に分解されているよう。
中空で縺れて混ざり合う二色の光を眺めつつ、失われる肉体を惜しむ。
消えたくないと願っても、消えるはずがないと信じても、消えてたまるかと奮っても意味などなくて、あっけなく俺は──瓜丈高は、光と消えた。
もはや視界は闇に閉ざされ、浮遊感すらない。どこまでも広がる黒色の世界は、目を閉じたあとの暗がりによく似ていた。そんな中に、虚空を震わせただれかの声。
酷く寂しげで、泣き乱した女性の声だった。
『──嗚呼。羨ましいなぁ』
それはいったい、どういう。
問いかけるよりも先に、目が、覚めようとしていた。
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