第2話「帝国皇女、夏休みが始まる」


 帝国皇女アトリー=ロナンの夏は地獄である。


 帝国の王城には基本的には冷房というものは存在しない。

 ましてや、アトリーが皇女としての職務に着くまでは、夏場でもドレスを着なければならない決まりが昔からあり、夏場の貴族達は過酷な環境にあった。

 アトリーの必死の懇願と努力により、夏場もドレスを着なければいけなかった現状を変えて、最近は女性用の仕事着というものを導入し、少しは快適になった方だ。

 しかし、ロナン帝国は窪地にあり風が吹かないためか、暑いのは変わらない。

 仕事に出れば、動くのが億劫なほどに疲れ切ることが日常となる夏場というのはアトリーにとっては本当にこの世の終わりがずっと続いているかのような感覚だ。


 現在も、窓を開けているというのに、風がまったくと言っていいほど吹かない部屋で、アトリーは下着姿のままベッドの上で溶けかかっていた。


「あづい……ありえないわ」

「アトリー様? 大丈夫ですかー?」


 傍では何故かとても涼し気な顔をしているノレアが、紅茶を入れている。

 メイド服も、夏仕様に衣替えしており、アトリー自身がデザインして作らせたオフショルダーのメイド服を着用している。

 だから涼しそうに……ということはなく、むしろ何故下着姿のアトリーの方が汗だくなのか意味が分からなかった。


「どこにも行きたくない…」

「そうはいきません。今日はゼファー様からお呼び出しされているでしょう?」

「そうだった……ゼファー兄様の約束は反故に出来ないからなぁ……はぁ、鬱ぃ」

「がんばってーアトリー様ー」


 そう言いながら、ノレアは机の上に紅茶を置いて、それを自分で飲みだす。

 侍女としてはあまりにも失礼な行いではあったが、ことアトリーに関してはおおらかで、余りにもマナーや階級というものにこだわりがないので、ノレアはやりたい放題出来ていた。

 ナメられていると言い換えても良い。


 ゼファー=ロナンはアトリーを含めた皇族3人兄妹の長男坊であり、皇位継承の筆頭である。

 アトリーにとっては昔から何かにつけて構ってくる少し甘やかしの強いお兄ちゃんって感じの人物であり、その実、政界では貴族派閥を一手にまとめている政治のスペシャリストだ。

 実際、ゼファーからレオス=パルパの行動を聞くことも出来たりなど、貴重な情報屋としてアトリーはよく頼りにしている。


「ノレア―。今日の予定は?」

「ゼファー様のお呼び出し。その後は遠出のご準備を予定してます」

「遠出??? このクソ暑い中、何処かの領地に視察にでも行けってこと?」

「それはゼファー様から何かあるのではないでしょうか?」

「……ふーん」


 それだけ言われてアトリーはまったくと言っていいほどヤル気は沸かなかった。

 しかし、行動しなければいけないのは確かなので、アトリーは早々に諦めた。

 ベッドから跳ね起きると、アトリーは下着姿で仁王立ちしながら、未だに紅茶を優雅に飲んでいるノレアに言う。


「支度するわよ」

「着替えはベッドに並べて置きましたよ」


 そういわれてアトリーはベッドに上に並べられたシャツとレギンスを手に取る。

 最近、メイドとしての職務が割と雑なのではないかと心配になるアトリーなのであった。





 ―――コンコン。


「入っていいよ」


 ノレアが皇族の執務室をノックすると、ドアの向こうから優し気な声がする。

 その言葉に従い、ノレアがドアを開けて、アトリーは入室した。

 正面の机には、相変わらずとてもじゃないがアトリーには理解できないような案件の書類が山積みされており、山の頂上からゼファーが手を振っている。

 書類の山を周り込んで、顔の見えるところまで行くと、綺麗な金髪をオールバックにした優男がそこにいた。


「ゼファー兄様。ごきげんよう」

「うん。アトリーも相変わらず元気そうでよかったよ。てっきり昼ぐらいまでは夏バテでぐったりなんじゃないかと思ってた」


 実際さっきまで夏バテでダウンしていたとは、アトリーには言えなかった。

 ふと、部屋に入室していた時から気になることを、アトリーは口にする。


「あの、部屋が涼しいけど、これは一体……」


 そう、部屋が涼しい。

 夏場の執務室と言えば、仕事をするにも適さない最悪の環境で、度々文官の汗がにじんだ紙が出てくるほどの暑さがある場所のはずだ。

 自分の知らぬところで、とても快適そうにしている兄に、素直にアトリーは嫉妬した。


「あぁ。とある男から部屋が涼しくなる魔法のツボを譲り受けてね。ほら、そこにあるだろう?」


 見れば、たしかにツボがあり、そこから冷気を帯びた霧がもわもわと出ている。

 ちょっと不気味ではあるものの、アトリーは素直に羨ましく思った。


「ずるいです。兄様ばかり」

「はは、そう思っていいものを手に入れたんだ」

「……?」


 それを言うと、ゼファーは数枚にまとめられた紙束をアトリーに手渡した。


「これは?」

「我が愛しの妹へのプレゼントだよ。旅行券と、そこでの資金を兼ねた物だ。はいこれパンフレット」


 更に机の上にあった物をアトリーが受け取り、中身を読むと、それは”楽園リゾート施設『アトランティス』”と書かれた冊子だった。

 広げたパンフレットの後ろには、見覚えのある仮面男が描かれており、明るく「おいでよ楽園へ」と妙に彼に似合わないセリフが噴き出しにかかれていた。


「……。」


 思わず言葉を失って、固まってしまう。


「あぁ、そこの仮面の彼がツボをくれたんだよ。彼、交渉上手だよね」

「交渉?」

「うん。ピスティ家の領地で好き勝手させてもらいたいから、これで見逃して……ってね。あまりにも良い物だったから二つ返事でOKしちゃった」


 それは賄賂というヤツでは? とはアトリーは思ったが飲み込んだ。


「うん? ピスティ家?」

「うん、君のところのメイドさんの実家だよね」


 言われてノレアを見ると、彼女はわざとらしく口を尖らせて明後日の方向を向いていた。

 彼女もグルである。

 ロアが経営する会社の何かしらの新事業ということは容易に想像がついた。


「それで、これを貰ってよいのですか?」

「あぁ、うん。父上からは許可を取ってアトリーにはしばらく夏休みを取って貰おうかなと思ってね」

「夏休み、ですか」


 およそ前世で聞いてから、久しぶりに聞いたかも知れない言葉だった。





 その翌日。


「ノレア! 見てみて! 海が見えてきたわ!」

「アトリー様~。ちゃんとしっかり乗っていないと危ないですよ~」


 アトリーはクッソノリノリだった。

 その日の朝から鼻歌を謳いながら、起きており、朝に出勤してきたノレアをそれはそれはビックリさせていた。

 そうして、待ち合わせの大広場から、恐らくはロアの飼っているであろう、ファフニールの背中に乗り”楽園”へと向かって飛んでいる道中、彼女は身を乗り出しながら、日差しに照らされて輝く海を見る。


(まぁ、どうせ海の家だとか、そのぐらいの規模の施設でしょうけど)


 それはそれとして海は楽しみなアトリーは、心躍らせる。

 前では、恐らくはロアに雇われているであろう、飛竜使いの元騎士が手綱を引いている。

 その元騎士は飛竜免許というものを取得しており、フライトする前に「飛竜ライディングスクールで免許を取得しております、安心して乗ってください」と言っていたのは何故か少しシュールだった。

 乗っているファフニールの背中も大きく、それでいて力強い、女性二人と男性一人を乗せたところでかなり余裕があるみたいだった。


「もうすぐ”楽園”が見えてまいります!」


 その飛竜使いの言葉を受けて、アトリーはきょろきょろと辺りを見回す。


「アトリー様。あの浜辺の近くですよ」


 そういわれて、ノレアの指差した場所を凝視する。




「……………えっ?」




 そこには、何故か、まるで帝国の城そっくりの建物と、ハワイにありそうな高層のホテルのような建物が、とても広い砂浜の近くに立っており、その周りにはいくつもの小さな建物が幾つも軒を連ねている。


「なにあれ?」


 アトリーは侮っていた。

 どうせ大した施設ではなく、あくまでちょっとした海水浴場をオープンしたぐらいの認識だった。

 だがあれは違う。

 そう、それはまるで―――。


「町出来てるんだけど……?」


 どうみてもリゾート町が、そこにドカンと出来上がっていた。




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