第2話
バクバクバクバク――
これは、私の心臓の音。決して夢を食べる動物の名前を連呼しているわけではない。
今日はいよいよ内見の日。内見希望者さんに部屋の中をご案内する日。
そして、その案内する部屋は――私が過去、元カレと住んでいた部屋で、その元カレが現入居者として同席することになっている日。
つまり、今日、2年ぶりに元カレに会うわけで……、私は緊張せずにはいられなかった。
けれど、彼は私に会うなんてこときっと夢にも思っていなくて、そしてきっと、私のことなんてすっかり忘れてるんだろうな。
だったら――私が私だと気付かれることなく、ただ穏やかで平和な内見として、今日が過ぎてくれればそれでいい。
きっと彼だって、私だと気付くはずがない。別れて2年も経っているし、髪も切って黒く染めたし。今日は伊達メガネだってかけている。おまけに、彼の前では見せたことがないスーツ姿に営業スマイル。
気付いたとしたって、他人の空似止まりにしか思わないだろう。そう思った。
内見希望者は、羽鳥さんとおっしゃる新婚のご夫婦だった。奥様の香織さんのお腹には赤ちゃんがいて、妊娠を機に新居を探しているとのことだった。
旦那様の孝明さんは、会社へのアクセスが良くてコンビニが近ければ後はほぼ奥様に任せるよというスタンスで。
奥様の香織さんは、この部屋ならマンションの敷地内に公園があるし、近くに小児科も内科もあるし、小さいけれど徒歩圏内にスーパーもあるし、郵便局もある。
そして何より、近所にある幼稚園が、ママたちの間で人気の幼稚園らしく、子育てをするにはいい立地だと思ったとのことだった。
――私が、私達が住む時に気に入った、一面の桜並木も、それを一望出来る大きな見晴らしのいい窓も、それを一望しながら過ごせる広いリビングとキッチンも――ご夫婦の気に入った点には入っていないようで、少しだけさみしく感じたけれど、それは私の個人的な私情に過ぎなくて。
ましてやこのご夫婦は、私が昔ここに住んでいたなんて知らないわけで。
「そうですね、この立地なら子育てするには最高の立地ですね(にっこり)」
張り付けた営業スマイルに作りものの声を乗せて、待ち合わせから部屋までの道のりをご夫婦とご一緒した。
――ピンポーン
部屋の前について、インターホンを押す。見慣れた玄関。見慣れた景色。そして――懐かしいインターホンの音。
部屋の中から微かに彼の近づいて来る足音が聞こえて、ドキドキした。
「はい」
そしてガチャリと開いた扉から出てきたのは――紛れもなく、私が3年間付き合っていた、元カレ――
彼は昔と変わらない黒縁メガネのままで、頬のほくろも相変わらず当たり前にその位置に健在で。
そして、ラフ過ぎることもなければかっちりし過ぎているわけでもなく、おしゃれすぎるわけでもないけど、決してダサいわけでもない、本当に私にとってはちょうどいい服装で。けれど清潔感はしっかりと保たれていて。
(う、わ、…………すき)
――あの頃と変わらない彼の穏やかな雰囲気も相まって、また、心が震えた。
けれどこれは仕事の一環で。彼は私だと気付いているはずもなくて。もうそんな事は分かりきっているのに、何度も言い聞かせてしまうのは、私が今日のこの日に対して特別な感情を抱いてしまっているからで。
彼に悟られまいと、心の中で鉄の仮面をさらに厚くした。
「あ、菊池さん、お忙しいところお時間作っていただきありがとうございます。私くし不動産仲介会社、“お部屋チューカイ” の 葛城と申します。本日は内見希望の方をお連れさせていただきました。早速ではありますが、中を拝見させていただいてもよろしいでしょうか」
張り付けた笑顔と、作った営業用の声、そして合っているようで合わせていない視線を彼に向けて、一気に話しかけた。
緊張のせいか、いつもより饒舌だったかもしれない。
「え?」
なのに。ほんの一瞬、彼と目が合ってしまった気がしてドキリとした。
(あぁ、嫌だ。目を合わせないで。私だと気付かないで……。だって、私のこの気持ちに気付かれてしまうのは、恥ずかしすぎるから)
「あ、どうぞ……」
「わぁ、ステキな玄関ですねー!! 広いからこれならベビーカーも置けそう」
「そうだな」
「ベビーカーということは、もしかして御妊娠されてるんですか?」
「そうなんですうううう。夏頃出産予定で」
私がそう思っている間に、彼と内見希望者の羽鳥ご夫妻はそんな会話を交わしていて、すでに仲良くなっていた。
玄関で少し会話をした後、廊下を通って、トイレ、脱衣所、お風呂……を見て回ってリビングへと通される。
彼は本当に転居の手続きをしたばかりで、まだ一切引っ越し準備には手を付けていない状態だったらしく、物も家具もすべていつも住んでいるままという様子で、そして――多くの物が私も住んでいたあの時のままだった。
さすがにすべてがそのままというわけではないけれど、家具や家電も、壁や棚に飾られているインテリア類までも、ほとんど私と一緒に選んで買いそろえた当時のままだった。
男の独り暮らしのはずなのに、散らかっているという事は決してなくて、かと言ってきっちりとし過ぎているわけでもなくて、そこがなんとも彼らしい。
そう思ってしまうのは、私が今もまだフリーだからなのかな。
あれから2年も経っているのだから、彼には彼女の1人や2人くらい出来ていて、誰かが定期的に来て、掃除をしてくれているのかもしれない。もしくは誰かが来るから定期的に掃除をしているのかもしれない。
そんな風にも思ったけど、少なくとも今日のために急に掃除や片付けをしたという感じはしなかったし、今、女性と住んでいるという気配も感じられなかった。
そして――リビングの棚にそっと飾られたままの写真立てに目が留まった。
そこには、彼と――私が映った写真。満開の桜の木の下で、はにかんだ笑顔でぎこちなく隣に並んでいる写真だった。
それに気づいたのは私だけではなくて。
「わー彼女さんですか? 綺麗な方ですね」
そう声を掛けたのは、香織さん。
「あぁ、恥ずかしいな。彼女というわけではなくて。もうずいぶん前に別れちゃった元カノです。特段片付けるきっかけもないからそのままにしてしまってました。……確かに綺麗な方ですよね。僕には……もったいないくらいの人でした」
そう言いながら、彼はさりげなく写真立てをパタンと伏せた。
私はその写真を見て、その写真の中の私と、ここに居る私が同一人物だとバレるかと内心ドキリとしたけど、茶髪にロングヘア―の写真の中の私と、黒髪ショートヘアに伊達メガネを掛けている私では雰囲気が違うらしく、誰も気づいていない様子だった。
気付かれていないと安堵した途端、彼が言った、『綺麗な方ですよね。僕には……もったいないくらいの人でした』という言葉が私の中にまた響いて来て。そんな風に思ってくれていたんだと、少しだけ嬉しくなった。
そんなの――むしろ私が思ってる方だと思っていたのに。
彼は決して、メディアやネットで話題に上るような、今時のイケメンという感じではないけれど、知的で、程よく整った彼の顔立ちが好きだった。
決して
無理して会話を作らなくても、ただ、無言でその場所に一緒に居るだけで、心地がいいと思える人だった。
あぁ、そうか。私――いまだに彼のことを忘れられないのは、彼のことが嫌いになったわけではなかったからなんだ。
残業を増やして家に帰るのが遅くなっていく彼に……私への気持ちが薄れたのだと感じたことが嫌だったんだ。
振られるのが怖くて、自分から振っただけ――。
そんな事、今更気付いても遅いのに。
なのにどうして――また、再会してしまったのだろう。
そう思った時。
また、彼と目が合ってしまった。
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