第3話
その瞬間、また心臓がドキリと跳ねた。
(え、うそ、私だってバレた? やだやだやだ、バレないで、気付かないで。まだ彼に未練たらたらだなんて、恥ずかしい。きっと彼は私のことなんて、もう――)
そう思うのに、彼が伊達メガネの奥にある私の目を覗き込んでいるような気がして、全身の脈が一気に耳元に集結したかのような錯覚がするほど、全身がバクバクと脈打っているのを感じた。
「大丈夫ですか? 葛城さん。少しお疲れのように見えますが。お茶でも淹れましょうか。美味しい黒豆茶があるんですよ。もし、お嫌いでなければ」
そんな私に、彼は優しく微笑んでそう言った。
彼はただ、考え事をして強張っていた私の事を気遣ってくれただけなのかもしれない。それとも、私だと気付いたけど、あくまで仲介人として接している私を気遣って、気付いていないふりをしてくれているのか……。
「え……? あ、ありがとうございます。では、せっかくですので……いただきます」
けれど私の心臓はまだバクバクと脈打っていて、それがどちらかだなんて考える余裕もなくて。そんな内面を知られるのも恥ずかしくて、やっぱり私は鉄の仮面をかぶり直した。
すると彼は、私と羽鳥ご夫妻にリビングの椅子に腰かけるように勧めてくれた。
二人はご夫婦だから必然的に隣同士に座る。そうなると――私は彼の隣に座るのが自然な流れで。
そして香織さんは妊婦さんだし、ご夫婦の方がお客様ということもあって、お二人には2脚しかないダイニングチェアに座ってもらったので、私と彼は来客時用の小さな折り畳み椅子に腰かけ……る流れになったのだけど。
「きゃあ!!!!」
緊張していた私は、椅子に座り損なって転げ落ちそうになってしまった。
「あっぶない!!」
その時、寸でのところで受け止めてくれたのが、隣にいた彼――。
尻もちをつきそうな中途半端な体制のまま、私は彼の右腕に抱き止められるような形でギリギリ支えられていて。
その至近距離のままおのずとまた目が合ったままになってしまった。
もうすでに彼のことがまだ好きだと自覚しているのに、この距離とこの体勢で彼と見つめ合っている状態で。
どういうわけか時が止まったように目が逸らせなくて。
私はこの場ではただの仲介人でしかないはずなのに、仲介人という立場でいなきゃいけないのに、なのにこの失態が恥ずかしすぎて、そして彼に抱き止められて助けられたこの状況に、もう、心臓が締め付けられているように苦しくて。
息も出来ずにただ彼と見つめ合っていた。
するとそんな空気を元に戻したのはやっぱり香織さん。
「わー菊池さんナイスキャッチ―! 葛城さん大丈夫ですか? びっくりしちゃいましたねー」
パチパチと手を叩きながら満面の笑顔で彼を称えていた。
その声に私も正気に戻った。
「あ、すみません、私ったら、座り損ねてしまって。助けていただいてありがとうございます」
「あ、いえ、お怪我がないようでよかったです。この椅子、座面が小さくて座りにくいですよね」
彼も介添えしながら“椅子が座りにくいから” と私の失態を軽くフォローしてくれて、その心遣いにまた、胸がキュッとなった。
(はぁ――――――――――)
彼が淹れてくれた温かい黒豆茶を飲みながら、心を落ち着かせていく。
あぁ、早くまたいつもの鉄の仮面を被らなきゃ。そう思うのに、今の私にはそんな余裕もなくて。
あんなに彼と見つめ合ってしまったら、さすがに彼も私だと気付いたかもしれない。何より、彼の腕に抱き止められた事へのドキドキが止まらない。
仲介人として、この場をしっかりと取りまとめなきゃいけないのに、今の私はそれ以上に、彼への気持ちの方が胸の中を占拠してしまっている。
しかもこの香ばしく炒った黒豆入りの黒豆茶だって、私が彼とここに住んでいた頃、友達からのお土産でもらったものを気に入ってしばらくお取り寄せして飲んでいたもので。
それをあれから2年も経った今、彼が出してくれたことに驚きを隠せなくて。
当時のお茶は全部飲み切ったはずだから、これは彼がお取り寄せしたもの?
それとも、たまたま何かの偶然で彼が誰かからもらったもの?
気になることが多すぎて、私はどこから頭の中を整理したらいいのか分からなくなっていた。
そんな時。
「あの、菊池さん、この部屋のいいところと、良くないところってどこですか?」
香織さんが彼にこの部屋について質問し始めた。正直、会話が始まってくれて助かったと思う。
「え? あぁ、そうですね、いいところは、この見晴らしのいい大きな窓ですかね。特にこの先の春なんかは、ここから桜並木が一望出来て綺麗ですし、日差しも温かくて気持ちがいいです」
そして私は静かにお茶を飲みながら、彼のその言葉に同調して少し嬉しくなった。そう、そこがこの部屋の最大の魅力。私もこの部屋の決め手はそこだと思っていた。けれど。
「へぇー。それは素敵ですけど……でもそれってすごく短い期間だけのことですよね。カーテン閉めちゃったら意味がないし。もっと一年を通してよかったところってありますか?」
やっぱり奥様には刺さらなかったようで、また少し寂しい気持ちになった。それでも彼は優しい笑顔を絶やすことはなく話を続けていく。
「そうですねぇ。キッチンも明るくて広いですし、ああ、そうだ、立地も住みやすくていいですよ。静かですし、スーパーも近いですし」
「あ、それそれ!! それがすごくいいなって思ってるんですよ。公園もあるし、子育てするにはすごくいいですよね」
奥様はやはりそこに食いついて、途端に嬉しそうになった。
「そうですね、このマンションは小さなお子様がいらっしゃる家庭も多いから、お友達もいっぱいできていいんじゃないかなと思います。近くにある幼稚園も、人気のようですしね」
「ですよね、ですよね、あーやっぱりいいなぁ、この部屋!! やっぱりここに決めちゃおうかな! ねぇ、孝明さん」
「ん? あぁ、俺はいいよ。コンビニも近くにあるし、この辺りなら職場へのアクセスもいいし」
……仲介人は私のはずなのに、彼の話がうますぎて、私が入る間もなくこの部屋の契約が決まりそうになっていた。けれど。
「あれ? でも、こんなにいいお部屋なのに、どうして出て行かれるのですか? なにか不満などがあったんですか? お隣さんが怖い人だとか……」
またまた奥様が質問を始めた。そりゃ、これから住もうと思っている部屋だから、悪い点があるのなら知っておきたいのも自然な事だと思う。
「あぁ、そうですね。特にこの部屋に不満があるわけではないんですが……。実は僕、この部屋でさっきの写真の元カノと一緒に住んでいたんです。でも、別れてからずいぶん経つのに、この部屋には彼女との思い出が詰まっていて、ここにいる限りいつまでも彼女のことを忘れられない気がして。だから心機一転、引っ越しをしようかなって思ったんです。未練たらしい男は、かっこ悪いですしね」
そう言って彼は少し恥ずかしそうに笑った。
「……えー、なんで別れちゃったんですか? 元カノさん、綺麗な方だったのに」
「おい、香織……っ」
香織さんがした質問を旦那さんが止めに入った。けれど彼はやっぱりにこやかな笑顔のままで。
「ははは、いいですよ。これも何かの縁ですし。……別れた理由は簡単です。僕が、振られてしまったんですよ。本当は、プロポーズしようと準備してたところだったんですけどね。彼女にとって僕は、一生を添い遂げる相手としてはふさわしくないと思ったんだと思います」
「え……!?」
「え?」
思わず発してしまった声が香織さんと重なった。そして、ハッとして言葉を飲み込んだ。
けれど、冷静でなんていられない。プロポーズって、どういうこと? だって、そんな気配なんて微塵も……。むしろ帰って来る時間がどんどん遅くなって、一緒に過ごす時間が減っていたのに……。
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