頑固な犬
低田出なお
頑固な犬
犬がいた。
「えっ」
不動産屋の男は呆気に取られた声を上げる。そして俺の方を向き、一拍置いて息を呑んでから、またそちらの方を向き直った。
「えっ、なん、えっ」
戸惑う男の声を尻目に、犬は大きなあくびをした。座っている場所は大きな窓のすぐそばで、差し込んだ光が犬の背中を照らしている。
「…ちょっ、と、すいません」
不動産屋は両の手の平をこちらは向け、部屋の外の廊下へと俺を押しやる。俺はされるがまま後退った。
「……」
「……」
沈黙が降りる。男は冷や汗をタラリと流し、俺は手持ち無沙汰に後頭部を掻いた。
ここに来たのは新居の内見だ。当然、犬がいるはずがない。ないはずなのだが。
…がちゃり。
「あ、ちょ」
黙り込んでいる不動産屋を押し、もう一度扉を開いてみる。部屋の中には、やはり犬がいた。
犬種はミニチュアピンシャーだ。スリムで長い足を使い、首のあたりを掻いている。
「藤原さん、次の物件見に行きましょ」
部屋と俺との間に割って入るように、不動産屋が飛び込んでくる。そして再び俺を平手で押し、もう一度俺を廊下へ後退りさせた。
不動産屋はそのまま、廊下を越えて部屋の外まで俺を押し出した。そして、力強く扉を閉めると慌ただしく鍵をかけ、何度も「すみませんすみません」と連呼しながらアパートの階段下の車へと追い立ててきた。
冷や汗をハンカチで拭く彼の顔には、筆で描いたかのようにはっきりと「焦り」の文字が見てとれた。
俺は特に追求せず、大人しく車に乗り込む。不動産屋はぐるりと運転席に回り込み、ドアを開けて乗り込もうとして、すぐに閉めた。窓から見える様子から、電話をしているらしかった。
それから3分も立たずに開かれたドアから不動産屋は乗り込んで来た。
「いやあ、すみません! お待たせしました。さ! いきましょ!」
その顔には強引な明るさを滲ませている。早口で捲し立て、先の物件から意識を逸らそうとしているがありありと分かった。
「そうですね、お願いします」
対するこちらまで、申し訳なくなった。
****
「申し訳ございませんでした」
「いえ、大丈夫です」
深々と頭を下げる不動産屋へ、薄く笑いかけながら応じる。
言葉に嘘はない。驚きはあったが、まあそういう事もあるのだろう。
押し付けられるように渡された粗品を手に不動産屋を後にする。心なしか、少し多い気がした。
不動産屋から少し歩き、振り返る。すぐそばの電柱に、見慣れた影があった。
「モール」
口馴染みのある名前を呼ぶと、その影はスルスルとこちらへと向かってくる。その姿は、今日何度も見た姿だ。
もう他界してから5年も経つというのに、この愛犬はまだ成仏していないらしい。
「あんな風に出てきちゃ、俺上京出来ねえよ」
「〜〜〜」
モールの口からが聞こえる声が、靄がかかったように聞き取れない。まあ、幽霊ならそういうものなのかもしれない。
「帰るか」
「〜〜〜〜〜」
夕暮れの中、1人と1匹の影が薄く伸びていた。
頑固な犬 低田出なお @KiyositaRoretu
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