第15話 男谷道場 

男谷おたに道場の看板がかかる建物の前で、辰次は腕を組みにらんで動かないでいた。


「辰次さん?男谷道場には着いたんですよね?」


朱鷺の耳には稽古の掛け声と竹刀の打たれる音がしっかりと聞こえている。


「中へ入らないのですか?」

「……おまえ、一人で行ってこい」

「辰次さんは?」

「俺はここで待っててやる」


道場をにらんで動こうとしない辰次の背後から、音もなく忍び寄る影があった。


「コラァ!また稽古から逃げ出したな!?罰として素振り1000本だ!」


怒気をはらんだ喝を浴びせられ、辰次は肩をびくりとさせて振り返った。

剣術稽古の白い上衣に紺の袴を着た男が、竹刀を肩にかつぎ、ニヤリとイタズラっぽい笑みを浮かべていた。


「なんだ、大助先生かよ」

柏木かしわぎ師範代、だろ?辰次」

「なげぇよ。先生で十分だろ」

「相変わらず、お前は生意気だなぁ」


ははっ、と嬉しそうに柏木は笑った。


「久しぶりに顔を出したと思ったら。めくらの若いお嬢さんを連れてるとは、どうしたんだ?」


柏木は辰次の横にいる朱鷺をチラリとみた。


「コイツはちょっと色々あって。今、親父が面倒見てんだ」


朱鷺が柏木へ深々とお辞儀をした。


「一色親分さんにお世話になることになりました、朱鷺と申します」

「あ、これはご丁寧にどうも」


柏木はすぐさま姿勢を正し、きっちりと頭を下げた。


「自分はこの男谷道場で師範代を務めております、柏木大助という者です」

「柏木さま……お武家の方ですか?」

「はい、一応。関東の北にある秩父という田舎より出てきた、しがない貧乏武家の次男坊です。剣の道を磨いて独り立ちしようと、十年前に江戸へと出てきました。幸運なことに、かの有名な男谷先生に認めて頂き、門下生の指導を任せていただいております」

「男谷先生とは、こちらの道場主さまですよね?さほどに有名な方なのですか?」

「もちろん!剣聖、男谷精一郎の名をご存知ないですか?」

「剣聖?」

「はい!天下に名高い剣豪、男谷精一郎です」

「すいません、存じあげません」


やや驚いた柏木だったが、話相手は若い娘であるとすぐに思い直したようだった。


「まぁご婦人からすれば、剣など興味ないでしょうし、それが普通かもしれませんね。男谷先生は剣士として優れているのはもちろん、幕府から剣術指南をしてくれとの依頼がくるほど、指導者としても高い評価を受けている方なんです」

「それほどご高名な方なのですか」

「はい、先生の名前はこの国中にもとどろいております。江戸の剣術道場といえば、神田が有名ですが、そこへ主に通う者たちは武家の人間。剣術は侍のもの、と考える人間が多いからです。ですが、この男谷道場は多くの庶民も通っています」


柏木が一瞬、チラリと辰次をみた。


「剣術の強さに身分はいらない。その先生のお言葉と人柄もあって、さまざまな人間をこの道場は受けていれているんです」

「なるほど。男谷先生はとても立派な人間ということですね」


そこで、つまらなそうに聞いていた辰次が口を挟む。


「色白な太り気味のジジイだけどな」

「コラ、辰次っ!」


柏木が目をとがらせ辰次を叱った。


「先生をそんなふうにいうなッ!」

「本当のことじゃん。剣士って割には重そうな図体してよ。ちゃんと動けんのか?って感じだぜ」

「先生は剣をにぎれば俊敏な動きをなさるんだ!剣豪として試合に向かうの先生のお姿、お前も実際に見ただろう?」

「まぁ確かにあれはすごかったけどさ。でも普段は、ずーっとニコニコして、剣豪ってわりには威厳がないっつうか……道場の掃除サボってる俺を見つけても怒らねぇし。俺に怒らないジジィは男谷先生ぐらいだぜ」

「先生はお前だけじゃなく、誰にだって怒鳴ったことなどない。とても優しくて温厚な方なんだ。その証拠に、去年の道場での喧嘩の一件」


辰次が生意気を吐いていた口を閉じた。


「先生はちっとも気にしておられない。むしろ、お前が稽古に来なくなったのを一番に気にかけてるくらいだ」


辰次の太々しかった態度が少し改まる。

口調はぶっきらぼうだが、顔に真剣味が増した。


「男谷先生、なんて?」

「辰次君は剣客としての素質もあるし、何より負けん気の強い子だからきっとまた来る、とおっしゃっていた」

「……俺は、別に剣で食ってこうとか考えたことねーし」

「でもお前は、ここへ三年もの間ほぼ毎日通った。よそでの丁稚奉公は長続きしないくせにだ。それは、ここでの剣術練習が面白かったからじゃないのか?」


辰次は柏木の視線をさけるように顔を背けた。


「どっちにしろ、今日、俺は稽古しにきたんじゃねぇ。コイツの用事で寄っただけだ」


辰次が視線を隣のめくら娘へむけた。


「朱鷺さんの?」

「コイツ、いなくなった兄貴探しに京から来たんだとよ」

「え?京から、ひとりでか?」

「ああ。本所の石原の孫左衛門長屋にいるって聞いたのに、行ったらいなかったんだと。ここの道場、本所の石原からも来てる奴ら多いだろ?」


それだけで柏木は辰次の意図を汲み取った。


「今日来てるのでも何人かいるはずだ。聞いてこよう」


朱鷺から『兄の神崎政輔』の名前をもらい、柏木はすぐさま道場へと入っていった。

辰次と朱鷺は互いに細帯を持ちながら、道場の前で柏木を待つ。


「辰次さん、剣術を習いにこちらの道場へ通ってらしたのですね」

「……」

「柏木さまとのお話からすると、去年に辰次さんは道場で喧嘩したということですね?」

「悪いか」

「いいえ。ただ、昨晩、こちらの道場にあまり行きたくないとおっしゃっていたのは、その喧嘩が原因ですか?」


朱鷺の問いかけに答えず、辰次は無言になる。

かれは言葉もなく目の前の道場をにらみ続けていた。


「おい、そこのお前たち。道場前で邪魔だぞ」


武家風の若者二人組があらわれた。

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