一八六一年 辛酉 弥生月
第2話 朱鷺
京と江戸をつなぐ街道のひとつ
そこにある峠の茶屋で、僧侶の
「お坊さま、お待たせしたした」
前かけをした少女が団子と茶を運んできた。
歳のころは10歳くらいであろう。
小さな女の子がニコニコと給仕をしている姿に貫昭の頬が緩む。
「ありがとう。えらいね、おうちのお手伝いかい?」
「はい。お坊さまは、江戸へ行くんですか?」
「ああ。用事で京へと行った帰り道さ。いやしかし。この中山道にはまいったな。聞いていたとおり道がけわしい。川の上流ばかり歩かされて疲れたわ」
貫昭は今年で四十代に入ったばかりだが、今回の旅で足腰の衰えを感じていた。
「さて、残る
宿場町とは街道にある宿屋などが集まった休憩地点だ。
中山道には六十九の宿場町があり、板橋宿は中山道の中で江戸の玄関口と
「板橋宿はこの
「おお、それなら昼前に江戸へと入れるな」
「はい。この先に
「鳥居か。ということは、神社があるのだな?」
「はい、ちょっと変わった神社ですけど」
「ほう。それはどんなだ?」
「鳥居から神さまがいる建物……うーんと、なんてゆうんだっけ?」
「
「あ、それです。その本殿までちょっと遠いんです。鳥居から坂になってて、その下にほそーい川が流れてて」
「
「そう、それです。その
「それが、神様がいる本殿になるのかな?」
「ううん、洞窟の中がそうなんだって聞きました」
「なるほど。それは変わった神社だ。何という名前の神社なのだ?」
「大人たちは『お使いさま』って呼んでます」
「お使いさま?」
「神さまのお使いをした神さまだから、お使いさまって」
「ははあ、なるほど。それはきっと道案内の神様のことだな」
「お坊さま、知ってるんですか?」
「これでも坊主だからな。神さま仏さまのことは、ちゃあんと勉強しておるよ。その神様はな、天にいる神様がたを、この我々がいる地上へと導くために、別の神様が使わした神様なのだ。旅の安全、または正しき道へと導いてくれる神さまなんだよ」
「へーえ。だから、旅の人たちはみんなあの神社にお参りに行くんだね」
「そうゆうことだ。では、私も行ってみよう」
「お坊さまが神社に?」
少女は眉根を寄せながら首をかしげた。
坊主と神社が、どうも似合わないとみえたらしい。
「私は坊主だが旅人だ。それに、神仏に違いはない。お寺にいる仏様も神様と呼ぶだろう?どちらも目に見えないが、
「ふうん?」
「難しかったかな?」
「ちょっと。でも、わたし、お寺でやるお祭りも、神社でやるお祭りも大好き。だから、どっちの神さまも好きです」
「はっはっは。そうだな、祭りは私も大好きだ。さて、そろそろ行くか。これはお代だ。釣りはいらないよ。面白い神社を教えてくれたお礼だ。
「わあ!ありがとう、お坊さま!」
少女がいったとおり、神社は妙な場所にあった。
鳥居からは
貫昭は沢を
森が
そこに、ポツンともの寂しげに小さな祠が建っていた。
「なるほど、これは不思議な場所だ。何やら神秘的でもあるな。む?後ろに道があるのか?」
小さな祠の真後ろに洞窟の穴が続いていた。
大人ひとりが通れるかどうかの
「この奥が本殿というと、この小さな祠は
貫昭は手を合わせ、残りの旅の安全と無事を祈る。
(しかし、このようにまったく人の気配がない神社は初めてだ。何やら人でない生き物でも出てきそうな感じだな……)
ざっざっざっ、という音がして貫昭はびくりとする。
土と落ち葉を踏み締めるような音が、祠の真後ろの穴から響いてきている。
「な、なんだ?ど、動物か?」
暗い穴から、白くぼうっとしたものが出てきた。
ひいっ、と小さな悲鳴を貫昭は飲み込む。
「……
穴から出てきたのは、白い頭巾をかぶった若い女だった。
『人間』とわかってホッとした貫昭だが、娘の顔をみてすぐに驚きの色を戻す。
彼女の両眼は固く閉じられ、手には朱色の杖をもっていた。
「お
娘がゆっくりと口を開く。
「……ひと?」
娘の声は
あるはずのない神社の鈴が鳴ったのかと貫昭は
「え?ええと、わしは、ここへ参拝にきた人間だ」
「そうですか、人間ですか……」
「お主はその、奥の本殿へ何をしに行ったのだ?」
「神の使いに、会おうとおもって」
「は?」
「でも、留守でした」
面食らったように貫昭はあ然とした。
めくら娘の言葉が本気か冗談かがわからなかった。
「そ、そうか。ところで、お主はどこの寺の尼だ?」
「あま?それは、あのお寺で仏の
「そうだ」
「いいえ、わたしはちがいます」
「違う?なら、なぜそのような
めくら娘は紫色の被布(ひふ)という防寒用の裾の長い
さらに、白い
全身を
「これは……あまり人に姿を見せるなといわれているので……」
貫昭は周囲をみまわした。
「ここに人の目はないがのう……お主、ひとりで旅をしているのか?」
「はい」
「なんと!お主のような目の不自由な若い娘がなぜひとりで?行き先は?」
「……聞いて、どうするのですか?」
めくら娘は朱色の杖を両手でにぎった。
警戒するような仕草の彼女に、貫昭はしまったと思った。
「うっかりしとった、お主にはわしが見えておらんのだった。わしはな、江戸の
「お坊さま?」
「そうだ。だから、安心しなさい。お主を悪いようになどせぬ。事情を聞いて、助けられるなら、そうしようと思ったまでだ」
「なるほど。
めくら娘は警戒をとくように杖をおろした。
「あやうく間違えをおこすところでした」
「は?」
「では、失礼いたします」
お辞儀をして立ち去ろうとするめくら娘を貫昭はあわてて止める。
「待て待て!どこへ行くのだ?せめて行き先だけでも教えてくれんか?」
めくら娘が足をとめた。
「江戸……」
「江戸?それは、江戸の
「はい」
「どんな用事で行くのだ?」
「
めくら娘はふり返り、貫昭へとふたたび向き合った。
「探し出し、連れ帰るために江戸へ行きます」
「人探しか。その者、お主の家族か、なにかなのか?」
「ええまぁ……兄、です」
「そうか、兄を探して江戸へか。して、いつ、どうして兄君はいなくなったのだ?」
「……ひと月前だったと聞いています。理由はよく知りませんが、兄は、勤めていた神社から急に逃げ出してしまったとのことです」
「ほう、兄君は
「
「それはご立派なこと。兄君やお主は、生まれも育ちも京の都なのか?」
「はい」
「ではご両親も京の人間ということか」
「さぁ?よく知りません」
「ご両親に聞いたことないのか?」
「はい。あの人たちは、もうこの世にいませんから」
「それは……では肉親は兄だけということだな?」
「そうなりますね」
めくら娘は他人事のような口ぶりだったが、貫昭の気にはとまらなかった。
それよりも彼は彼女の身の上に同情しはじめた。
「唯一の肉親ともなれば、早く無事を確認したいだろう。江戸へ探しに行くということは、兄君の
「はい。江戸の
「本所なら浅草寺からすぐそばだ。これも何かの
「お坊さまもいっしょに?どうしてですか?」
「若い娘の一人旅など心配というもの。それに、案内がいた方が、めくらのお主にとってもよいだろう」
「……わかりました。お願いします。お礼は江戸に着いたらいたします」
丁寧に頭をさげる彼女へ、貫昭はほほえみをむける。
「お礼などいらんよ。人助けは坊主であるわしの使命だ。そうだ、まだお主の名を聞いていなかったな。なんという名だ?」
「トキ……朱色の
盲目なのに読み書きがちゃんとできるのか、と貫昭はひそかに感心した。
さらにいえば、彼女の言葉
(しっかりとした教育を受けているようだ。それに、あの兄の名。神崎というあきらかな
この時代、苗字を
(この娘、普通の
「朱鷺、江戸へは行ったことがあるのか?」
「いいえ、ありません」
「そうか、初めてということか」
「はい。外の世に出たのは、これで初めてです」
「んん?待て。外の世界へ出たのが、初めてというたか?」
「はい。生まれて初めて、家から外に出ました」
「な、なにィッ!?」
貫昭は心底おどろいた。
そして、ひとつ決心をした。
僧侶としての
貫昭はふたたび中山道へと戻った。
かれとなりには、朱色の杖をつく
「よいか、朱鷺よ。江戸は、天下の
「
「たしかに侍は多い。だが、同じくらいに庶民も多いぞ。むしろ実際に町を回しているのは、庶民たちといえよう」
「庶民?
「うむ。町の人びと、とひとくくりにするには、いろんな人間がおるからの。一般的に庶民と呼ぶのだ。商売人はもちろん、さまざまな仕事をする職人たちがおる。それに江戸では面白い人間たちがおるぞ」
「どのようなですか?」
「たとえば火消しに歌舞伎役者。それに侠客と呼ばれる男たちだ」
「きょうかく?それは、どんな種類の人間ですか?」
「侠客はな、弱きを助け強きをくじく。義理と人情を信念とする、まさに江戸っ子の誇りのような者たちなのだ」
めくら娘は首をかしげて、わからない様子だった。
「百聞は一見にしかず。江戸へゆけばわかるさ」
「お坊さま、お言葉ですが」
「ん?」
「わたし、見えません」
「むう、ことわざも知らぬか」
こうして、貫昭はめくら娘を江戸へと導いてゆく。
目指す先は、江戸でも中心から離れて東北寄りに位置する『浅草』というまち。
お城のはるか
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