第一章 夏の日差し、風鈴の音

隼人Side [1]

 8月下旬の絵に描いたようなじめじめと暑く、うだるような熱気に包まれた朝に、僕たちの合宿は幕を開けた。


「毎年のことだけど、ほんとなんでこの時期なのかと思うよね。暑くって合唱どころじゃないよ」


よいせっと言って僕の後ろで荷物を降ろしたのは、我らが“姉御”こと小路さんだった。


「小路さん、着くの早くないですか?楽課(がっか)以外の人は集合もう少し後だったんじゃ……」


「実家からパクってきた、いい日本酒があんの。今のうちに飲み会用の荷物に紛れ込ませておこうと思ってね。あと烏丸、私のことは姉御と呼べと、いつも言ってるでしょ」


バッチン!とどでかい音を立てて僕の肩を叩く。およそ人に向けていい力加減ではないと思うが、僕の体もそこまで柔な訳ではないので、先輩の手前ここは甘んじてお受けした。


 足元においた荷物を開けてガサゴソと酒瓶を探す小路さんは放っておいて、僕は部室棟に入るためのIDカードを玄関横のカードリーダーにかざす。自動ドアが静かに開いて、申し訳程度の冷気が顔を撫でた。自分の荷物を抱えてドアを入り、すぐ左手にある自動ドアのスイッチをオフにして開放にしておく。小路さんもすぐ入ってくるだろうし、後でバスに乗せる荷物の運搬もある。


「開けときますよ」


三本目の酒瓶を探している小路さんに声をかけると、顔をあげないまま


「おう、助かるわ」


と威勢のいい返事が聞こえてきた。てか日本酒、いったい何本持ってきたんだろうか。


 合唱部、というと真面目で清楚なイメージがありそうだが、僕たちの合唱サークルには小路さんを始めとして、個性的な面々が多い。とても多い。いわゆるインカレなので色んな学部や大学の人がメンバーとして参加しているため、文系から理系、学部生から院生まで在籍しておりごちゃ混ぜ感は強い。でも、それはそれで大学生っぽくて僕は好きだった。


 サークルの始まりは、医学部の学生が老人ホームや附属病院の慰問コンサートを目的に10人程度で集まったことらしい。それからどんどん団員は増えていき、今では100人を超える規模になった。おかげさまで年に一度、十一月頃には近隣の大ホールを借りて定期演奏会を開けるほどの大所帯だ。その演奏会も今年でめでたく60回を迎える。


 その定期演奏会に向けての練習として、毎年八月の最終週に五泊六日で行われているこの夏合宿。合宿前には一ヶ月ほどオフの期間があるが、そのオフ直前に定期演奏会の楽曲が発表され、楽譜が配られる。休みの間に各自譜読みを進めて、この夏合宿からいよいよ本格的な練習が始まるのだ。


 泊まりの大きなボストンバッグを担いだまま三階まで上がると、向かいのところに観音開きの大きなドアが見える。そこが僕たちの合唱団「YUI Choir(ゆいコール)」の部室だ。この部室棟には他にもテニス部や柔道部、軽音部なども入っているが、僕たちが一番メンバーの数が多いため、最も大きな部屋を割り当てられている。ちなみにコールというのは、ドイツ語で合唱のことらしい。


 荷物を背負い直して、僕は部屋に入った。途端に冷蔵庫かと思うくらいのひんやりした空気が、部屋の中から流れ出してくる。家から歩いてきたせいでさっきまで汗びっしょりだったが、あっという間に汗が引いた。むしろ風邪をひきそうなくらいだ。


 部室に入る前から少し漏れ聞こえていたが、どうやら伴奏の打ち合わせをしているらしいキーボードの音色が流れる。やや音量小さめなのは、朝7時すぎの早朝に周りの部室や近所迷惑にならないようにと言う配慮なのだろう。靴を脱いで右手の古びた木の靴箱に入れる。靴を脱ぐスペースと部屋の中とを仕切る、クリーム色の重めのカーテンを引いて中に上がろうとした。


 と、いきなり目の前に全自動麻雀卓が現れた。まさかこんなところに雀卓があるとは思わず、荷物を思い切り卓にぶつけた鈍い音が響いた。


「す、すみません」


とっさに謝る。さっきまでとは違う意味で汗が出る。


「すごい音したけど、烏丸くん大丈夫?」


中にいた松原さんが手を止めて、心配そうな顔で振り返った。


「だ、大丈夫です。ぶつけたのは荷物の方なので」


とは言いつつ、荷物越しに脇腹へクリーンヒットしたためそこそこ痛い。こっそり右腹をさすりながら、今度こそ部室にあがった。


 部屋にいたのは松原さんと大宮さんの二人だけだったようだ。やはり伴奏合わせをしていたらしい。


「まだ朝早いのに、お二人とも来てたんですね」


荷物を降ろしながら、部屋の奥でキーボードを囲むようにしている二人に声をかけた。


「俺は朝苦手なのにさ、松原に昨日の夜に呼ばれてさあ。眠くてしょうがねえよ」


そう言って大宮さんは苦笑いした。


「徹ったら本当に朝機嫌が悪いのよ。私さっきからめちゃくちゃ睨まれるもん」


「睨んでねえよ、目付きが悪いのは元からだよ」


「じゃあ普段から嫌なやつだあ」


松原さんは冗談なのか本気なのかいまいちわからないトーンで文句をつける。


「お前ほどじゃねえよ」


大宮さんの反論に、松原さんは無言のまま持っていた楽譜で頭をはたくことで答えた。


 松原さんと大宮さんはどっちも4回生で、僕より2つ上の先輩だ。松原さんは主任指揮者で、大宮さんは、彼女が指揮を振る合唱曲の伴奏を初期からずっと引き受けていた。さっきのような言い合いも、団員は見慣れたものだった。


 この合唱団には、四回生の主任指揮者、三回生の副指揮者、二回生の孫指揮者の計三人の指揮者がいた。そしてソプラノ、アルト、テノール、バスの四パートそれぞれにパートリーダーとパートマネージャーが付いている。基本的に普段のパート練習を取り仕切るのは二回生のパートリーダーで、三回生のパートマネージャーはその補佐役だった。計十一人の役職をまとめて音楽課、略して楽課と呼ばれている。テノールパートのパートリーダーをしている僕も、楽課の一員だ。


「烏丸くんこそ早くない?楽課の集合も7時45分だったと思うけど……」


松原さんが部屋の時計を見上げる。時刻はまだ7時12分だった。


「いや、ちょっと忘れ物をしちゃって……」


説明をしようと話し始めたとき、ちょうど部室のドアが開く音がした。


「おはようございまーす!」


朝の部室にソプラノの明るい声が響く。それを聴いて僕は心臓が跳ねるのを感じた。間違えるはずもない。僕はゆっくりと振り返った。


「あ、もう来てたんですねみなさん」


人懐っこい笑顔をカーテンの切れ間からひょこっとのぞかせたのは、なーちゃんさん―――じゃなくて―――、夏菜さんだった。

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月がきれい シャルロット @charlotte5338

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