人生はニャンセンス

@mocotaro

このままでいいのだ

 人間は、何でもすぐ意味を考えたがる。生きている意味、とか、猫と暮らす意味、とか。でも、そんなのナンセンス。意味なんて最初からないんだから、ニャンセンス極まりない、ということが、猫と暮らしていると分かる。彼らはただ、目の前にあるご飯を食べている。目の前にある獲物を追っている。ただそれだけ。それだけで十分満足そうだ。

 ジョン・グレイ著『猫に学ぶ』にこんな一節がある。「人間という動物は、自分ではない何かになろうとすることをやめようとせず、そのせいで悲喜劇的な結末を招く。猫はそんな努力をしない」――人間は常に意味のある何かをしないといけないと思い込んでいる。無為に過ごすのは罪悪のように思っている。でも、そもそも人生(あるいは猫生?)自体に意味がないのだとすれば、そういう考えこそ無意味だと思えてくる。だいたい人間は欲張りだ。もっと出世したいとか、もっといい暮らしがしたいとか。でも本当は、毎日のご飯が美味しく感じられて、ぐっすり寝られて、気持ちよく排泄できて、ただ生きているだけでいいのではないだろうか。「生きるのはつらい」っていうけれど、生きていること自体がそもそも歓びなんだ、ということが猫を見ていると分かる。もっとも猫の方じゃ、自分は何も教えたつもりはない、そうやってこっちの行動を勝手に意味づけして解釈するのは御免だ、というだろうけれど。

 猫は一瞬一瞬を全身全霊で生きている。過去のことをうじうじ悔やむことも、未来のことをくよくよ悩むこともない。お気楽でいいってか? いや、むしろそれって正しい生き方のような気もするけど。多分それは、彼らが言葉を持たないから。人間は言葉を獲得したことを進歩のように思っているけど、それって本当なのかな。言葉があるばっかりに、面倒くさいことばっかり考えている。(まさしくこのエッセイのように。)それが人間。猫は言葉が分からないから、人間よりも下等の生き物のように思われているけど、そんなことは断じてない。例えば良い匂いをかいだとき。人間はその匂いをすぐに言葉で変換しようとするだろう? お日さまみたいにポカポカした匂い、とか、香ばしいキャラメルの匂い、とかさ。でも、どんなこともそれに100%ぴったりな言葉なんてないんだから、言葉を介すればするだけ本質からはずれていく。猫はそんなまどろっこしいことはしない。その分、五感が研ぎ澄まされている気がする。

 わが家にいつの間にか居ついた野良猫が、いつの間にかいなくなった。もう高齢だったのだが、もともと飼い猫ではないから、ふらっとどこかへ行っても仕方ないかな、と思っていた。そうしたら、一週間後、猫はガリガリに痩せて帰って来た。あわてて餌と水を用意しても見向きもしない。それどころか、近寄るなと言わんばかりの侵しがたい空気を放っている。猫は数日間飲まず食わずで、即身仏のようにひっそりと死んだ。枯葉が枝から離れるように、ごく自然に、一言の文句も泣き言も言わず、たった一匹で。人間は孤独死はみじめだとか、死ぬときは子どもや孫たちに看取られて逝きたいとか軟弱なことばかり言っている。けれど、死ぬときはみんな一人(あるいは一匹)なんだ。苦しむ姿を見せなくないっていう、人間よりずっと高尚な生き物である猫を、私は尊敬する。

 私は猫の遺骨の前に初鰹を供える。といっても魚ではない。そういう名前の羊羹である。これをオーブンでかりかりにしたものが猫は好きだと、朝吹真理子さんの小説『TIMELESS』で知って、あげたことがある。人間になど絶対に懐かない、信用しないといった用心深い猫で、名前を付けて「~ちゃん」と呼ぶような間柄ではなかった。まさしく終生「吾輩は猫である、名前はまだない」状態だったのだが、このときだけは嬉々として食べていた。

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