第15話 青海(15、猫)


壁の両側に沿って、屏風がどこまでも続いている木の廊下だった。

僕は其処に一人、立っている。ここは何処だろう。知らない場所だ。とりあえず、歩いてみる。薄暗い廊下に淡く照る屏風には、どこまでもどこまでも、美しい青い海が描かれている。歩いていると、廊下の向こうに、見知った生首が見えた。艷やかな黒く長い髪。白い顔に差す朱い唇。豊ノ介さんだ。ふわりと、僕へ近付いて来た。

「旭。初めて会った時のこと、覚えてるかい?」

静かな声が、嫌に廊下に響く。

「初めて会った時?」

「昔話を聞いてくれ、と頼んだだろう」

「そういえば、そうでしたね」

そんなことを言われた気がする。叔父さんが直ぐに来たから、それどころでなくなったけれど。

「あたしもこの生活が面白かったから、つい忘れちまってた。今こそ。聞いとくれよ。ここなら、邪魔が入るまで時間が掛かるしね」

「邪魔?」

僕の問いに、豊ノ介さんは笑って誤魔化す。そのまま、海の屏風へと目を向けた。懐かしむような悲しんでいるような、そんな目。僕は改めて廊下を見渡す。後にも前にも、延々と続く廊下。部屋なども無い。ここから、出られそうになかった。大きく息を吐き出す。

「……聞きましょう」

「それでこそ旭だよ。ーーなァに、ただの身の上話さ」

豊ノ介さんは屏風から目を離し、怖いほどに美しい笑顔を僕に向けた。


改めて、僕と豊ノ介さんは、延々と続く廊下をまた歩き出す。時折、微かな波音と共に屏風の中の海が動いて波を立てているように見えるのは、僕の気の所為だろうか。それとも、豊ノ介さんの幻術なのだろうか。豊ノ介さんは屏風の様子には目もくれず、廊下の先を見据えて語りだす。

「あたしは生きてる時、ある目的の為に人の道から外れたのさ。……下法、ってヤツを使った。あたしは自分のやったことに悔いは無い。だが……そうじゃないヤツもいたんだよ」

「そうじゃない?」

「猫さ。あたしのたった一匹の家族だった。灰色の毛並みに、澄んだ青い目が美しいから、青海おうみ、って名付けたんだ。別嬪な猫さ。ーー天涯孤独の幻術使いに猫の家族がいるたぁ、おかしな話だろうがね」

「……そうは、思いません」

豊ノ介さんは僕を見て、目を瞬かせる。そして、ふ、と笑った。

「優しいねぇ、旭は。あたしの使った下法は、完成するまでちょいと時がかかるもんでね。間抜けな話だが、その間に青海に下法を扱ってるのを見られちまった。不思議なもんで、それからは、完成するまで青海には妨害されたよ。まるで、何もかも分かってるみたいに」

豊ノ介さんは不意に止まり、屏風の海を眺める。まるで、海の中に何か探しているみたいに。でも、それも少しの間で、また動き出した。僕も足を前に出す。

「ところで、この下法には決まりがあってね。最後の仕上げに、己以外にあたしが下法を扱っていると知る者の血を捧げる、ってもんだ」

豊ノ介さんの軽い口調とは裏腹に、僕は身体の芯が冷えるような感覚になる。天涯孤独と言う豊ノ介さんの側で、それは、

「まさか、」

豊ノ介さんは僕を見て、怖いような顔で笑う。でも、その目は深い悲しみを秘めているようで、長く見ていられなかった。僕は思わず、目を逸らす。

「言ったろ?あたしは人の道を外れたと」

いつもより覇気の無い笑い声が、廊下に響く。

「その下法を使って、豊ノ介さんは、何をしたかったんですか?」

そんな想いをしてまで、何を成したかったのだろうか。立ち止まった僕に、豊ノ介さんはくるりと向き直る。その目は、僕より遠くを睨みつけ、暗く燃えていた。

「ーー取り戻したいもんがあったんだ」

深い怒りと悲しみを押し込めた、低い声。景色が一変した。屏風も廊下も、突如、真っ黒な炎に包まれて燃え始めた。熱くは無い。でも、暗くて重い。豊ノ介さんは燃え盛る黒い炎の中、髪を艶やかに広げ、憤怒の表情を浮かべたまま、今度は僕を見つめる。

「唯一、側にいてくれた家族をこの手で殺め、バケモノに成り下がったのに。あと少しだったのに、叶わなんだ。成れの果てが、この様さ」

青白く光り出した生首の豊ノ介さんは、こんな状況なのに、黒炎の中で美しいと思ってしまった。僕も彼も、動かない。やがて、豊ノ介さんは、気が抜けたように微笑んだ。

「ーーあたしには、花のように可愛い妹と、その忘れ形見がいたんだ。旭に劣らず、聡明な子だったよ」

「それは、」

だけど、言葉は続けられなかった。それ以上を聞くのが、憚られるような。躊躇っていると、炎が更に勢いを増す。視界がどんどん暗くなる。

「結局みんな失っちまった。もう、誰の元へも行けぬ身だよ。笑っちまうだろ」

「豊ノ介さん」

炎が身体に纏わりつく。冷たくて重たくて、燃え盛っているのに、燃えるんじゃなくて、埋まって行くみたいな錯覚を覚える。重さに耐え切れず、膝を付く。そのまま倒れ込んでも重い。苦しい。目も開けられず、冷汗が流れた。真っ暗闇で慟哭が響く。豊ノ介さんだと思った。胸が痛くなる泣き声。ずっと話したかった昔話って、きっとーー。

何も分からなくなるその一瞬前。遠くから、バリバリと紙を引き裂くような音と、猫の鳴き声が聞こえた。そして、目を閉じてたはずなのに、視界の隅に、叔父さんの大きな金魚の鮮やかな朱い尾鰭が見えたのだ。

「青海……あたしを許さないどくれ」

酷く悲しい声がぽつりと呟いた言葉が、僕の耳に最後まで響いた。











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