鏡合わせのトゥシューズ

千羽稲穂

子どもは静寂と遊ぶ

 暗がりに遊ぶ子どもには三分以内にやらなければならないことがあった。子どもは誰もが寝静まった家で踊っている。夜には静寂という音があった。決してそれは無音ではない。足をついた時にわきたつテンポに静寂は答える。糸をぴんっとはったような静寂な音色に子どもが地に足をつけた音で緩む。その子どもは、夜の音を聞き取ることができた。トン、とトゥシューズを床に立てるように繊細に足を落とす。トン、トン、トン、と音の波紋を広げる。静寂の奏でる音に子どもは寄り添っていた。姿鏡には暗がりの子どもの姿が映る。一面のフローリングにつまさきを落としてくるくると回転する。スカートがひらりと舞い上がる。しかし、そこに静寂を阻む、音が乱入してくる。大人が気にしてその部屋の扉を開けた。光がまっすぐに降りてくる。ぎょろりと目が覗く。その子ども部屋には誰もいない。大人は扉をそっと閉じると、扉の後ろに子どもが隠れ忍んでいた。息をのんで、再び静寂の息が吹き返すのを待つ。そして完全な静寂に戻ると、子どもは姿鏡の前に立ち、ふわりと身体を浮かせる。右足を後ろに付き出し、アラベスクの形をとる。

 子どもの耳に届くのは拍手のあられだった。その曲の長さは七分。そのうち、三分間は無音の間があった。研ぎ澄まされた感覚に、静寂という音が湧き上がる。三分、子どもはポーズをとりつつ足を緩めて、音にテンポを合わせ、踊り遊ぶ。トン、トン、と無音と戯れる子どもを観衆の目線が固唾を飲んで見守った。ここは、無音と闇のステージ。子どもは頭の中にオルゴールを思い浮かべている。オルゴールの蓋は開け放たれている。いっさいの音がしない、音色。闇の色はどこまでも深く優しかった。

 子どもは三分間踊れずに、その場に立ち止まった。息を殺すように呼吸を整える。子どもがステージに立っていた光景は過去のことだ。ステージの光を浴びていた頃が懐かしく思える。足を後ろに持ち上げて、またトン、と地面に落としてしまう。隣からどうかしたか、と尋ねてくる何かがいた気がした。が、誰の気配もしない。

 この曲は、二人でないとできない演舞であった。

 いつだって、子どもの無音の三分間に紛れ込むのは劈く悲鳴だった。観衆はステージが崩れ落ち、落下する子どもたちに、固唾をのんだ。なぜか子どもたちのステージの土台が傷んでいたのであった。子どもの片方はステージとともに瓦解していく。無音の三分間は永久に葬られてしまった。

 家に設置されている姿見を再び見ると、子どもは、もう一人、そこに立っているように思えた。もう一人の子どもを思い出す。足を広げ、やや弱く足を折り曲げる。指先も、やや弱めに関節を曲げて持ち上げられていた。まるで生き写しのような二人が鏡を隔て立っているかのようだった。子どもたちは、鏡映しのように生きていた。何をするにも一緒であった。無音の三分間は、そうした二人のための曲だった。鏡映しのように二人は寸分違わずに踊っていた。

 無音の三分間前、一瞬の息の吸い込み。二人同時にアラベスクの体位を。現実に鏡を映す。二人は影と現実を演じる。この三分間を特に二人は好いていた。静寂と戯れて、足を下げる。そこから二人同時に羽ばたいた。視線を分かち合うよりも、なによりも存在といった輪郭を静寂でなぞっている。この時間が永遠であったらいいのに。子どもたちは、春の桜が散ってしまうような哀らしさを終演に抱く。光の影がぴたりと当てはまった、そのとき足場の不安定さに気づいた。足が揺れている。思ったように体重を支えられない。鏡の向こうの子どもと分かたれてしまう。まだ鏡の中の子どもは踊っているというのに。鏡の外にいる子どもは、右足を抑える。痛みが足の接触部分から浸透する。ないはずの、足が悲鳴をあげている。既に接触部分から下の足はなく、切断されふさがっているというのに、子どもの痛覚はないはずの足にまで続いていた。血の通っていない足を握りしめる。硬質な肌がべとついている。子どもは鏡にいるもう一人と目を合わせる。心配そうにしている瞳に、笑みで返した。

 永遠の三分間をもう一度踊ろう。

 子どもは痛覚を引きずりあげて、立ち上がる。

 もう一度、アラベスク。一本の足で身体を支える。軸はぶれない。鏡の中の子どもも呼応した。

 この無音の三分間は、桜の花が降りてくる一瞬を切り取ったものだった。あらゆる人が桜を観賞し、歓談する後で降りつもる白に目を奪われた作曲者は静寂に表現を委ねた。桜の白と、その背後の影の黒が同時に動き、寸分違わずにひらひらと風に揺られて遊びだす。その様に、子どもたちが遊んでいる光景を重ね合わせた。

 子どもは、つま先を床に落とすたびに豆が弾け、トゥシューズの中が血の海になった感覚を思い出す。同じタイミングでもう一人の子どももつま先を血で浸す。もうひと踏み、どろりとした感覚がつま先に溜まる。赤い海を携えて現実の水面には一点の軸しか落とさない。二つの波紋が静寂にリズムをつける。もう一人が落ちると同時にひらひらともう一人の影も世界へ心音を傾ける。心臓の音が同時に鳴り響く。鼓動の回数も、脈の震動すら、一寸違わずに同時に鳴り響く。腕を広げる。もう一人の腕の癖はもう一人に移りこむ。着地のときの足のよれが鏡の向こうの子どもに移り、もう一人の指先のかすかな震えが現実の子どもに合わさる。何もかもが完璧な子どもたち。完璧だからこそ、子どもたちは三分以内にしなければならないと示し合わせていた。もうそろそろ、最後の水面に脚を穿つ。終焉まぎわの飛びはね回る桜の花びらを子どもたちは遊び、踊りまわった。既にトゥシューズの中の感覚はない。

 ステージには子どもたちを熱するライトは、静寂には不要の産物であった。子どもたちは暗がりにて完璧な静寂と、完璧な二人の時間を欲した。何も不要なものはなく、何も不足しない。

 三分間の間に消えてしまえば、それは永遠に手に入るのではないか。

 そうして子どもたちはステージ頭上にある忌まわしきライトのネジを緩めた。三分間の間に落下するように直前にギリギリとネジを痛めつけ、空白の三分間に二人の頭上に同時に落下するのを待ち望んだ。

 だが、崩れ落ちたのは、ステージそのものであった。子どもたちは足下をすくわれてしまったステージに大人たちはすぐに駆けつけた。一人は帰らぬ人に、もう一人は一本の軸を失い、ステージは望んだ形ではないにしても、永遠になってしまった。

 しかし、夜になったら子どもは思い出して、鏡の前に立つ、アンファスの形に。ふわりと手を広げて、そこからもう一度。あの完璧な二人を続ける。

 三分間を終えると、子どもは呼吸を荒げて、肩で息をした。血まみれのつま先は見る影もない。鏡にはもう一人の子どもはいない。軸を一本失った子どもだけが存在する。

 子どもは、三分間を踊るたびにもう一人の子どもと再会する。永遠に再会を繰り返し続ける。もう二度と完璧さにひとすじの傷も、ひびすら刻まれない。

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鏡合わせのトゥシューズ 千羽稲穂 @inaho_rice

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