第38話 人魚の肉【6】

秦の都、咸陽かんようの王宮の一室にて一人の男が平伏し、慎重に言葉を選んでいる。

その男は、始皇帝に仕える宦官趙高かんがん ちょうこうであった。


その部屋は、昼だというのに真っ暗である。


真っ暗な理由は、部屋の4隅の窓が垂れ幕で塞がれ、またその垂れ幕から1mの距離を空けて内側(四方)総てに分厚い垂れ幕が下がっており、外からの明かりがまったく入らない様になっているからだった。


趙高自らが外から持って来た、蝋燭の火の明かりだけが部屋を弱弱よわよわしく照らしている。

それは、まるでその部屋での彼の立場を象徴しているかのように、かぼそい灯りであった。


『始皇帝様、飽桀ほうけつという男より・・、不老不死と言われる人魚の身体の一部を口にした赤子を見つけたという報告が参りました。』


『その者の報告によると、その赤子は、既に不老不死になっており、赤子を食べた猛獣は知恵と永遠の命を得るとの事です。』


趙高は分厚い垂れ幕へ向けて、王座があった方向に頭を下げ、平伏し報告する。


『・・・・・趙高よ、真人しんじんは、それを何時する事ができるのじゃ。肝心な部分はそこじゃ。』


趙高は、自分の後ろから聞こえてきた声に、驚き、慌てふためきながら、後ろの方角に向き直ろうとすると、怒声がそれを制止する。


真人しんじんの姿を見る事は許さぬ!、振り向けば死罪ぞ!!そのままの姿勢で報告せよ!!。』


『ヒィッ、お許しくださいませ。』と趙高は叫び、その場で平伏し動きを止めた。


秦の始皇帝嬴政はこの時期、侯正こうしょうという名の方士の言を信じ、自らの一人称をちんから真人しんじんへと変えていた。


侯生こうしょう曰く、自らを真人と呼び、他の者に自分の姿を見せずに生活していれば、別の真人がそれを認め不老不死の霊薬を授けてくれるとの事であった。


始皇帝は、侯生の言を信じ、その日から自身を真人と呼び、趙高以外の者とは極力接触せず言葉を交わさなくなったのである。


始皇帝へその事を上奏した侯生は、その日始皇帝の姿を見た事、秘密を知る者は一人でなくてはならないとの理由で、その日の内に始皇帝自らの手によって殺された。皮肉でそして非常に残忍な話である。


『真人が、人魚の肉を食する事が出来るのは何時じゃ。』と始皇帝は、趙高へ何度も繰り返す。


『飽桀という者の手紙によれば、今月の満月の日に赤子を誘拐する予定との事。』


『・・・・趙高よ、言葉を間違えるな。赤子ではない。人魚の肉じゃ。』


『真人が赤子を食するわけがあるまい、真人は人魚の肉を食するのじゃ・・。』


『スィ―ッ、ジュルッ・・・。』


静寂の部屋の中で、趙高は始皇帝の口から出る音を聞き、恐怖の為その場から逃げたくなった。


『真人様、始皇帝様、飽桀なる者、一国の王になる事を所望しておりまするが・・・。』


『真人が、不老不死になった暁には、その者の故郷の斉の国の王にしてやると、伝えよ。』


『人魚、人魚、人魚の肉、人魚、肉、肉。ニクゥ・・・』と、始皇帝は狂気の言葉を繰り返す。


『真人は昨日、夢を見た。海神と闘う夢じゃ。あれは、正夢じゃ。人魚の肉がすぐ手に入ると、真人が教えてくれたのじゃ。』


『ヨシ!4回目の巡遊じゅんゆうは東南じゃ。その者に伝えよ、満月の日より、一月後、東南の海で真人が待っておると。人魚の肉を持ってくれば、その場で斉の国王の称号を与えてやると・・フッハハハ。』


『趙高、お主も巡遊へ同行せよ。胡亥こがいにも同行せよと伝えるのじゃ。』


『真人が、死を克服する記念すべき日を、瞬間を見せてやるぞ。』


『ハッ、直ぐに出発できるように準備致します!。』と趙高は言い、逃げる様に部屋から飛び出していく。


一人になった始皇帝は、鼻歌の様に低い、低い声で繰り返す。

『人魚、人魚、人魚の肉、人魚、肉、肉。ニクゥ・・・、もう直ぐじゃ。』


狂王の呪詛じゅそであった。

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