第25話 狂人の笑い声

紀元前219年夏、秦の国、後宮の一室にて二人の男が話をしている。


『我が君、聡明なる我が君、偉大なる王、嬴政いんせい様、お喜び下さい、霊薬を探しに出たあの者達と同行した者から伝書鳩が戻って参りました。』

『あ奴らは、無事海を渡り、蓬莱山の地へ辿り着いたとの事。霊薬が見つかるのも時間の問題かと・・・。』と男は、平伏し上座に座る皇帝に伝える。


『お・・そ・・い、遅い、遅いわ、どれだけ朕を待たせるのじゃ。』

『この神であるワシをこんなに待たせるとは言語道断じゃ。趙高よ、今日も又、方士の者達を3人殺せ。』

『朕を待たせる、あの方士の代わりに罪を償わせるのじゃ。神の怒りを鎮める生贄として、生きたまま火炙りにせよ!。これから、あ奴らが帰って来る迄、一日遅れる度に3人じゃ、3人の命を朕に捧げよ。』


『ハツ!。』と、趙高ちょうこうは恐れるように平伏する。趙高の額には冷や汗が滝の様に流れる。

趙高は、心底始皇帝を恐れている。


この時すでに秦の始皇帝嬴政は、狂人になっていた。かっては、聡明で武勇にも優れた偉大な王は、死への過剰な恐れから神仙思想へ傾倒し、その過程で精神が病み常軌を逸しタガが外れ、自分を神だと信じこんでいた。


趙高は、平伏しながらある出来事を思い出していた。

ある日、始皇帝は趙高へ一つの命令をする。その命令とは一匹の鹿を宮中へ連れてくる事であった。

趙高は、命令通り一匹の鹿を連れ、始皇帝の指示の一室へ連れて行くと、その日その部屋には始皇帝の末子である胡亥こがいと国の高官達が集められていた。


始皇帝は、趙高とその鹿を見つけると、部屋中に聞こえる大きな声で高官達に伝える。

『趙高が珍しい馬を連れて来たぞ、面白い珍しい馬じゃ。お主らもよく見ろ、面白い馬じゃ。』


幼い王太子胡亥が、不思議そうな顔で始皇帝に伝える。

『父上、それは馬ではなく、鹿ではありませんか?。』

『・・・馬じゃ、これは珍しい、面白い馬なのじゃ。』

『その方らは、どう思う??。』と、始皇帝は大きな目を瞬きさせ、始皇帝はその鳥に似た顔にワザとらしい笑みを浮かばせながらお道化て聞く。


返答に困って、黙っていた高官達はその始皇帝のお道化た態度を見て、それぞれ重たい口を開け自分達の考えを述べ始める。


始皇帝の狂気を恐れる者は自分を偽り始皇帝の弁を支持する様に、『馬です。』と答え、始皇帝の権威に屈しない気概を持った者達は『お戯れはお止めください、鹿です。』と答えたのであった。


鹿を連れて来た趙高以外、その場にいる総ての者の意見を聞いた後、始皇帝はワザとらしい笑い声をあげ、『余興じゃ、余興じゃ、皆の者、何をそんなに緊張しておる。笑え、笑うのじゃ。』と言い、満足そうにその場を去る。


部屋に取り残された高官達は、始皇帝の思惑が分からず困惑するばかりであった。

彼らが、始皇帝の思惑を知ったのはそれから数日後の招集の日であった。


鹿と答えた高官達の姿が消えていたのである。彼らが、その日から数日以内に捕らえられ一族郎党、抹殺されたという事実を知り、生きのびた者達はその時の自分の選択が正しかった事を大喜びし、そしてその喜びと同じくらいに始皇帝を恐怖した。


鹿を馬と呼んだ者も愚かであるが、絶対的な権力者に従わず、正直に鹿と呼んだ者も愚かであったというその逸話は、後世の世で愚か者を指す、馬鹿という言葉の由来となったのであった。


鹿と正直に答えた高官達の処分を命じられたのも又、趙高であった。

『趙高よ、神である朕の言葉を否定したあの者達、その一族郎党を根絶やしにしろ。』

『神である朕の言葉を守らない者、否定する者、朕を謀ろうとする者、全てを朕は許さぬ。』


その時の始皇帝の残忍な顔が、未だ趙高の脳裏に焼き付いており、その件から数年たった今でもたまに彼は悪夢でうなされる事があった。


始皇帝の低い声が、趙高を思考の世界から現実の世に戻す。

『徐福という、あの方士を監視する者に伝えよ。不老長寿の霊薬を見つけた暁には、あ奴らを殺し、その者自ら朕に献上する様にと。褒美は、朕が望むものすべてを与えると伝えよ。』


『ハッ!』

『大王様、霊薬が見つからない場合は、どういたしましょうか?。』

『朕は、もう長くは待てぬ。後3年、いや、後2年じゃ、2年以内に見つからない時は、あ奴らを消せ。』

『朕を待たせ、失望させた罰は重い。今迄殺された生贄の者達も、これから殺される生贄の者達も、あ奴らを生かす事は望まんじゃろ。朕は、慈悲深い王じゃからな・・・。ハハハッ』


低く、そして残忍な笑い声がその部屋に響き渡る。


当然徐福と姜文には、その狂人の笑い声が聞こえていなかった。

それどころか、その時の彼らは自分達が未だに狂王の監視下にいるとは露とも思っていなかったのであった。

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