第5話
翌日、目が覚めたらもうお昼近かった。
今まで生きてきた中で初めてというぐらい、夢も見ずに朝までグッスリ寝てしまった。
―――ブライアンとの結婚がダメになったこと。お父様とお母様にお話ししないとな。
説明するのは少し気が重いけれど、結婚がダメになったこと自体はガッカリしていない自分にエレノアは気が付いた。
むしろスッキリした気分だ。
メイドに手伝ってもらって着替えると、朝食室へと向かう。
「お嬢様。クリストファー様がおいでになっています。」
「え!本当に?どうしましょう。いつから。」
「・・・・お嬢様がまだ寝ていると伝えましたら、寝かせておいてあげてほしい。待っているからと。」
「えええ~、そんな大分お待たせしてしまっているじゃない。」
エレノアが寝ている時から待っているのだったら、どれだけ待ってくれていたのだろう。
朝食室に入ると、お茶を飲んでいたクリスが気が付いて立ち上がる。
「・・・・お待たせして申し訳ありません。」
「・・・・いや、こっちこそ突然押しかけてすまない。昨日のトランクとか、うちに置いたままだったから届けに来て・・・。」
「ああ!」
確かに昨日、リッベン侯爵家で身支度をしてから王宮へ行き、直接マーロウの屋敷に帰ってしまったので荷物を置いてきてしまっただろう。
「でもそんなの。待っていただかなくても置いていってくだされば。・・・・いえ、こちらかそのうち取りにうかがいましたのに。」
「うん。・・・・そうなんだけど。」
手早く朝食を片づけてしまってエレノアもお茶を頼む。
食器が下げられてお茶が並べられると、セバスチャン以外の使用人達が気を利かせたのか全員下がって行ってしまった。
もちろん扉は開けられている。
「お嬢様。お手紙のチェックは後でなさいますか。」
「・・・・手紙?」
普段エレノア宛に手紙などほとんど届かないのに珍しい。セバスチャンの手元を見ると。
「え!何それ。」
セバスチャンの持っているトレイの上に、山のように手紙が積み重なっている。一体何事だろう。
全部エレノア宛だというのか。
「悪いけど、先に僕に少し時間を貰えないかな?」
「かしこまりました。」
エレノアが答える前にクリスが答え、それに従ってセバスチャンまで部屋から出て行ってしまった。
「何だったんでしょう。あれ。」
「・・・・こんなことになるだろうと思っていたんだ。」
クリスが苦い虫を噛み潰してしまったような顔をしている。
「エレノア、話を聞いて欲しい。」
「・・・・はい。」
クリスがいつになく真剣な表情をするので、エレノアは思わずドキリとしてしまった。今更クリス相手に。いけないいけない。
「正直、まだ僕自身、自分の気持ちが分からないところもあるんだけど。」
「はい。」
「でも、君に初めて会った時、君の歌声を聞いた時、本当に心が震えたんだ。もっと聞きたい。ずっといつまでも、エレノアの歌を隣で聞くのは僕が良いと。」
「・・・・はい。」
私も出来る事ならずっと、クリスと一緒に。クリスの前で。ソフィアと演奏出来たら。そうしたらどんなに幸せな事だろう。
「なのに・・・・クソ。まだ音楽サロンなんかに連れて行かなきゃ良かった。」
「え?」
「いやゴメン。それじゃあいつと同じだ。違う。えーと、どう言えば良いんだろう。」
「・・・・・・・・。」
「でも昨日、君が華やかなドレスを着て舞台の上に立って輝いている姿を見て。この気持ちが歌を聞きたいってことだけじゃないと気がついて。」
「・・・・・・・・。」
ドキドキドキドキドキ
心臓の音で、クリスの声が聞こえにくい。
「エレノア。僕は君が・・・・。」
「お待ちください!!!取り込み中ですので。」
「気にしなくていいよ。僕とエレノアの仲じゃないか。」
その時、騒がしい声が近づいてくるのに気が付いた。玄関ホールの方角。
聞き間違えようもない。ブライアンの声だ。
バタバタと複数人の足音が聞こえる。ほとんど走っているようだ。
「やあエレノア!こんにちは。昨日は大活躍だったね。」
いつもならこんな時、体が固まって汗が流れ出し、何も言えなくなるのだけど、今日は不思議と平気でいられた。
クリスがいてくれるからかもしれないし、もう婚約者じゃなくなったからかもしれない。
「ブライアン。取次ぎを待たないなんてマナー違反だと思うわ。」
考えるより早く、たしなめる言葉が出てきて、自分でも驚いた。
「え!・・・・あ、ああ。それはすまない。でもそんな僕と君との仲で。」
「・・・・昔からの知り合いという事は認めるけれど。もう私たちは婚約者でも何でも・・・。」
「そうそう!!!昨日の音楽サロン。素晴らしかったね。僕も婚約者として鼻が高いよ!昨日も色んな奴から、君が婚約者な事を羨ましがられてしまったよ。」
エレノアの言葉を遮るように、不自然な大声を出すブライアン。
「何を言っているの?私たち、もう結婚は無理だってあなたが・・。」
「エレノアこそ何を言っているんだ。そんなこと僕言った?確かに君を心配して、音楽サロンに行くのはまだ早いんじゃないかくらいは言ったかもしれないけどさ。これだけ長い付き合いでそんなに簡単に別れるとか・・・・ああ、もしかしてそいつのせい?」
また言葉を途中で遮られてしまう。大きな声で。
ああ、こうやって、私は段々何にも言えなくなっていったんだな。
皆の前で、大きな声を出して。
大事にしたくない。喧嘩していると思われたくない。
そう思って、我慢しているうちに、思っている事を何も言えなくなっていったんだ。
「ブライアン。私の言葉を最後まで聞いて。話の途中で遮るのを止めてちょうだい。」
メイド達や使用達が集まってきている。先ほどブライアンを止めようと、何人もが一緒に来てしまったのだ。
「何を騒いでいるんだ。」
「お父様!お母様!」
なんと、騒ぎを不審に思ったのか、お父様とお母様まで来てしまった。
「おじさまおばさま!いやー、エレノアが興奮してしまって。お騒がせして申し訳ありません。」
「おお、ブライアン君。・・・・そちらの君は?」
「・・・・ご挨拶が遅れて申し訳ありません。クリストファー・リッベンと申します。お嬢様とは、妹が親しくさせていただいております。」
「ああ、君は昨日の。・・・・一体これはどういう状況なんだ。」
「おじさま。実は・・・・。」
「お父様!私とブライアンの婚約の話はなくなりました。ブライアンの方からお断りされてしまいましたの。申し訳ありません。」
今度はブライアンの言葉をエレノアが遮る。
お父様に、先に都合の良い話なんてさせない。今日は負けない。
「エレノア。・・・・酷いよ、そんなウソ。僕が君との婚約をなしにするだなんて、冗談でも言うはずがない。・・・・そこの男に騙されておかしくなってしまっているんだね。」
「・・・・エレノア?」
お父様が、咎めるような目をエレノアに向ける。心なしか、周囲の使用人たちの目も厳しい気がする。
―――あ、でもセバスチャンは、エレノアを励ますようにじっとこちらを見つめて頷いてくれている。
いいえ、他にもよく見たら、何人も。
「ブライアン。私が酷いウソつきで、男に騙されている女って言いたいのね?それで良いのね?」
「まさか!そんな事・・・・。」
「お父様も。私がウソつきでブライアンに酷い事をしている浮気女だというブライアンの言葉の方を信じるのですか。」
「・・・・まさか。そんなはずはない。」
―――そんな事言っているし、信じていたじゃない。
なんだかバカバカしくなってしまう。あれだけ揉めないように騒ぎを起こさないように、地味な服を着て言う事を聞いていても、結局信じてもらえないなら、好き勝手自由にしていた方がましだ。
「だったら・・・・」
「そうよ!!この女に皆騙されているのよ!!可哀そうブライアン様!!」
その時、一人の女性が飛び出てきて、ブライアンに飛びついた。半年前くらいに新しく入ったメイドの一人だ。
子爵家の使用人は数が少ないので、全員の顔を覚えている。
「この女!ブライアン様という素敵な婚約者がいるのに、こそこそと他の男に会いに行って!!手紙もやり取りしてました!!私証拠持ってます!」
「お、おい。」
縋りつく女性を、ブライアンは引きはがそうと焦っている。
「証拠?」
「この手紙よ!ホラ!!」
そこには一通の手紙が。
センスの良いシンプルな封筒に、意外と綺麗な文字で「エレノア・マーロウ様」と書かれている。
―――読みたいな。
こんな時なのに、その手紙に何が書かれているのか。何て書いてくれたのかの方が、気になってしまった。
「ブライアン様には証拠は残すなって言われたけど。こんなこともあろうかと一通だけとっておいたんです!これが浮気の証拠です!」
証拠って・・・・証拠は証拠でも、ブライアンは手紙を盗んだ証拠を残すなっていう意味で言っていたのに。
―――このメイドは浮気の証拠は残すなってことだと思ったのね。
「貸しなさい。・・・・読んでも?」
「どうぞ。」
お父様が手紙を受け取り、クリスに中を読んで良いか確認する。
「・・・・ソフィア嬢もクリストファー君もエレノアを心配している。練習が出来なくても良い、元気なのか状況だけでも教えてくれないかと・・・・書いてあるな。問題がある内容だとは思わない。」
クリスの手紙の内容に、エレノアの胸が熱くなる。
―――あんなに一方的に約束を反故にしたのに。怒るどころか心配していてくれたなんて。
「こそこそ隠れて手紙のやり取りをしている自体が問題なんです!」
「やり取りなんて出来てないわ。私にはその手紙が届かなかったんだもの。なぜそれをあなたが持っているの?」
「そ、それは・・・・浮気しておいて偉そうに言わないで!!ブライアン様を解放して!!」
「いや、なんだろうねこの子。ははは。ちょっと君、さっきから何。」
「ブライアン様!もう言ってやりましょう。この家から解放してくれって。私たち愛し合って・・・・。」
「何を言っているんだ!!!!この泥棒が!!」
「ひっ!」
突然のブライアンの大声に、流石にビックリしてメイドが腕を離してしまう。
「君!この子を捕らえて連れて行ってくれたまえ!手紙を盗んだ泥棒だ。言っていることも信用できない!」
ブライアンが高圧的に、傍にいるマーロウ家の使用人に命令する。こういう時、いつもはブライアンのいう事を聞いてしまう使用人だけど、今日は誰も動かない。
この場に家長であるお父様がいるのに、ブライアンなんかの命令で動くわけはない。
「そんな酷い。・・・・ブライアン様。言う事を聞いたら結婚してくれるって。」
「もういい!!僕がつまみ出す!」
「キャ!」
使用人たちが動かないのに焦ったブライアンが、メイドの腕を強引にズルズルと引っ張って連れて行こうとする。
「止めて!お腹に赤ちゃんがいるかもしれないの!!!」
「・・・・妄想だろ!!俺が愛するのはエレノアだけだ!!お前の妄言に付き合っている暇はない!!!」
「・・・・待ちたまえ。まだその娘はうちのメイドだ。勝手な事をすることは許さない。」
ついに口を開いたお父様のその言葉に、使用人たちが一斉に動き、ブライアンの手からメイドを引き離す。
「その娘はどこかの部屋で休ませるんだ。誰か一人メイドが・・・ベテランのメイドが見張りで付くように。・・・・ブライアン君。君は一度家に帰りなさい。言いたいことがあるなら後日改めて聞こう。」
ブライアンにも二~三人の使用人たちが取り囲み、出口の方へ促す。自分で歩かなければ、強引に連れて行くことになるだろう。
「まずはエレノアの話をゆっくり聞くことにする。・・・・あの娘の話もな。」
「そんな・・・・!ウソなんです。本当にウソなんです!僕の言う事を聞いて下さい!」
「・・・・エレノアが噓つきだと?」
「そ、そうじゃないけど!!その娘が嘘つきで!僕はエレノアを守ろうと・・・。」
ついに使用人たちに引き立てられるブライアン。自分の不利を悟ったのだろう。何とか挽回しようと、適当な言葉を並べ立てる。
「愛しているんだエレノア!!!これは!これだけは本当なんだ!君を他の誰にもとられたくなくて必死で!!あの娘との事は遊びなんだ!エレノア!!愛している!!君は僕のいう事を聞いていれば・・・・!!!!!!!!」
混乱しているのか、もう訳の分からないことを叫ぶ声が、少しずつ遠ざかっていく。
後にはお父様とお母様。クリスとエレノア。ほんの少数の使用人だけが残された。
「・・・・エレノア。すまない。」
「お父様!?」
なんとお父様が深々と腰を折って、エレノアに謝るではないか。
「一体何を。」
「さっきの事もそうだけど、今までずっと。エレノアは何度かブライアンの事を訴えてくれていたのに聞こうとしなかった。ブライアンにああいう面があることになんとなく気が付いていながら、子爵家を継いでもらおうと目をつぶっていた。本当にすまない。」
「・・・・・・・・・・・・。」
それを言うならエレノアもだった。喧嘩になろうが、騒ぎになろうが、婚約がどうなろうが、しっかりと最後まで抗議していたら。
「昨日エレノアが歌う姿を見て頭を殴られたような衝撃だったよ。そういえば君は小さいころ、歌が大好きでいつもニコニコと歌っていた。ピンクや黄色のドレスがお気に入りで、天使の様に可愛くて。その事を思い出したんだ。・・・・いつから君の笑顔を見ていなかったんだろう。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「私が守りたかったのは、家なんかじゃない。エレノア、君だよ。君が一人でこの家を継いでいくのが心配で、焦って婚約者を探してしまったんだ。賢くてハンサムで、口が上手で。ブライアンを逃したら次がないような気がしてしまって・・・・。でも、家なんて誰が継いでも良いんだ。私の弟のところに継がせても良い。君が幸せになりさえすれば、それで良いんだ。」
お父様は泣いていた。
お母様も、ハンカチで顔を押さえながら、一緒に頭を下げている。
「ブライアンとの婚約は白紙だ。どうせ正式な書類も取り交わしていない口約束だ。・・・・ブライアンの家の方から、まだ正式な契約はしないと断られていたんだ。・・・・足元を見られていたんだな。」
正式な書類を取り交わしてもいない。そのことにエレノアは安堵した。もしほんの数か月前なら、逆に焦って不安になっただろうに。
「謝っても謝り足りない。今から取り戻せないものもあるだろう。でも、出来る限りのことはする。エレノアの好きな事を応援して。結婚も君の好きな相手を選んでくれ。・・・・別に結婚したくなければしなくても良い。本当に、申し訳なかった。」
目まぐるしく何かがあったような気がしたけど、まだお昼前だった。
屋敷が大騒ぎをしているので、クリスを送りがてら屋敷を抜けだしてゆっくり散歩でもすることにする。。
クリスと二人でいるところを誰かに見られるかもしれないけど、もうそんなことは気にしない。
それにもう、ブライアンとの婚約は白紙になったのでエレノアは自由だ。
「・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
しばらくは心地の良い無言の散歩を楽しむ。
だけどエレノアには一つ気になって聞いておきたい事があった。
「クリス。さっきあなた、何か言いかけていたと思うのだけど。」
「・・・・・・・・うん。」
「何かしら。」
「・・・・分かってて聞いてるだろ。」
クリスが赤くなって上目遣いで少しむくれて見せる。可愛い。
エレノアの顔が自然と綻ぶ。
その顔をみて、クリスが増々真っ赤になって、横を向いてしまった。
「あー、もう。時間がなさすぎる。昨日気づいたばかりだってのに。あんな大量の手紙・・・・・。」
そして何やらぶつぶつと呟いている。
「エレノア。エレノア・マーロウ。」
「はい。」
やっと決心したように。立ち止まってエレノアの方を真っ直ぐ見つめるクリス。
そうすると今度はエレノアがドキドキして、先ほどまでの余裕がなくなってしまう。
「君の歌が好きだ。声も好きだ。それから何かを決めたら決して逃げない強さも好きだ。その笑顔も好きだし。華やかなドレスも好きだけど。紺色のドレスだって清楚で実はすごい好きだ。」
「え、・・・・ええ!?そんな。」
少しは期待していたけど、何もそこまで言えとは言ってない。予想外の誉め言葉に、ムズムズして逃げ出したくなってしまう。
「毎日好きなところがどんどん増えていく。正直あいつの気持ちが少し分かってしまう。音楽サロンなんかに出ないで、僕の前でだけ歌っていて欲しい気もする。」
「・・・・私はそれでも良いです。」
「いや、それはそれで嫌だ。やっぱりサロンとかに出て華やかに歌っている君も好きだ。」
「・・・・どっちですか。」
「エレノア。ずっと僕に君の歌を聞かせてくれないか。僕と結婚してほしい。」
「ええ。」
小鳥の鳴き声、近くを流れる川の音。肌に当たる優しい風、暖かな日差し。
エレノアの焦がれて止まなかった色鮮やかな世界がごく自然にそこにあった。
そして、その世界をエレノアにくれた人が、今目の前にいる。
「ええ。はい、喜んで。」
これからは光の日々が続いていくだろう。そんな予感がしながら、エレノアは頷いた。
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