第4話

次の日、音楽サロンの開かれる日の早朝。


トランクに最小限の身支度の品と、大切なドレスを詰め込んだエレノアは、部屋からそっと抜け出した。

昨日の今日では、家の使用人の誰が裏切り者かはさすがにまだ分からないだろう。邪魔されないように。ブライアンが迎えに来るずっとずっと前に、抜け出すしかない。


皺にならないように丁寧に大切に畳んだドレスを入れたトランクを、エレノアは寝ている時すら抱きしめて離さなかった。



「お嬢様。」

「・・・セバスチャン!」


誰もが寝ている時間のはずなのに、部屋のドアの横にはセバスチャンが立っていた。


「い、いつから。」

「昨日の夜からです。使用人の不始末は、私の責任ですので。万が一にも不埒な考えを起こすものがいないよう、一晩中見張っておりました。」




「・・・・セバスチャン。馬車の操縦はできる?」

「お任せください。家令は万能なんですよ。」



―――信じてみよう。


使用人の全員が敵のような気がしていたけれど。いくらなんでもそんな事はないはずだ。


裏切り者がいるとしてもきっと、一人か多くても二人とか。全員が敵なんてことはない。



小さな馬車でセバスチャンと二人、出来るだけ静かに早朝の街へと抜け出す。これから音楽サロンの時間まで、どこかに馬車を停めて時間を潰そう。

開始時間が近づいたら王宮へ行って、休憩室か何かを貸してもらって、身支度をすれば。



そう考えていたら、屋敷から出たばかりだというのに、馬車が緩やかに停車した。


―――なに?まさかもうブライアンが!?


ドキドキしながら待っていると、セバスチャンが馬車の扉を開けた。



「お嬢様。残念ながら、私がお供をするのはここまでのようです。」


―――そんな!!!やっぱりセバスチャンも裏切って!?



「クリストファー様がお迎えにみられていますよ。」

「・・・・!?」


その言葉に、慌てて外へと飛び出す。そこには、貴族の装いをしたクリスが、静かに腕を組んで佇んでいた。



「クリス!!いえ、クリストファー様。一体いつから。」

「いや今更。クリスで良いって。・・・・ついさっき来たところだよ。」


―――ついさっきってそんなバカな。こんな早朝に。



「とりあえず、ウチ行くぞ。あっちに馬車を待たせてる。部屋用意するからちょっと寝ろ。起きたら練習と打ち合わせだ。」

「・・・・はい!」







リッベン侯爵家に付くと、こんな時間にもかかわらず、ソフィア様が出迎えて抱き着いてきてくれた。


「エレノア!会いたかったわ。」

「ソフィア様。」

「前から言おうと思っていたけど、ソフィアで良いわ。ずっと一緒に練習してきた仲間じゃない。」

「・・・・ソフィア。」

「うん!まずは寝ましょう。酷い顔よ。歌手は見た目も大切なんだから。」


 

侯爵家の使用人にドレスを預ける。きっと広げて吊るして皺を伸ばしてくれるだろう。


案内された部屋で、横になる。

こんな状況で眠れるか心配だったけれど、目を閉じて次に開けたら薄暗かった日が、すっかり昇り切っていた。




サロンの時間は夜だけど、のんびりしている暇はない。

できるだけ急いで優雅に用意された朝食をいただくと、早速ソフィアとの練習を開始する。

二週間ぶりだったけど、二週間前よりもぴったりと呼吸が合っている気すらした。きっとソフィアも、ずっと一人で練習していてくれたのだろう。


その様子を、貴族の服を着たクリスが見守ってくれていた。


「あらクリス。今日は使用人の服ではないの?」


ソフィアがからかうように言う。


「いや、あれは。こいつが俺の事使用人だと勘違いしているようだから。貴族だってバレたらどうせ緊張して歌えなくなると思って。」

「まあ、失礼な。今更あなたの前で緊張なんていたしません。」

「はいはい。その調子で本番も頑張れよ。」



「それにしても、なぜ初めて会った時、あのような服を着られてたのですか?」

「ん?木に登って何度も服を駄目にしていたら、さすがにお母様に怒られて。」

「・・・・木に登らなければよろしいのでは。」



練習が終わったら、ポイと風呂場に放り込まれ、メイド達に囲まれ体の隅から隅まで洗われる。

一応貴族の子女であるエレノアだが、これほど気合を入れて磨かれたのは初めてだ。


風呂から出たら、服を着るより先に肌に化粧水を塗り込まれる。髪を梳く者、爪を整える者、マッサージをする者。一部の隙も無い見事な連係プレーだ。


見る見るうちに、エレノアの肌艶が良くなり、何というか高級感が出てくる。



―――クリスの髪が妙に艶々していたわけだわ。


そうしてウエストを下着でギュッと絞られて、ドレスを着ていく。

髪の毛はハーフアップにするようだが、上の方は一体どうなっているのか分からないくらい複雑に編みこまれる。


そしてお化粧。

エレノアはお化粧をしたことがなかった。例のごとく、ブライアンに止められていたのだ。

「君はそんなもの塗って、男を引き寄せる必要なんてないだろう?僕がいるんだから。」と。



ドキドキしながら目をつぶっていると、ちょっとだけ眉をそられ、顔に何かが塗られる。

その後は眉毛、目、頬、唇にチョンチョンとほんの少しだけ触れる感触がしたら、もう終わりだと言われる。


これで何か変わるのだろうか?


「目を開けていただいて結構ですよ。お肌も艶々ですし、お化粧はほとんど必要ないぐらいです。」


そう言われて鏡を見ると、信じられないほど変わった自分がいた。

確かに自分の顔だけど、いつものボンヤリした印象の顔と違って、眉も目もくっきりとして見違えるようだ。



「すごい。あれだけでこんなに印象が変わるなんて。」

「エレノア様は元々がお綺麗ですから。」





身支度が済んで広間へ案内されると、ちょうどソフィアも用意ができたらしく、入り口のところではちあった。

エレノアと同じ薄ピンクで、刺繍のデザインも似た系統で少し変化を付けている。シルエットだけ違って、エレノアの方が少し大人っぽく体に沿っているのに対し、ソフィアの方はスカートがふんわりと可愛らしく広がるようになっている。


「まあエレノア!可愛い。もともと美人だったけど、今日は可愛らしくて華やかでとっても素敵よ!」

「ソフィアも素敵。とっても。とっても可愛い。妖精みたい。」



居間に入ると、ソフィアのお父様とお母様。そして、クリスが待っていた。



「見てクリス!エレノアとっても可愛いでしょー。」


開口一番、ソフィアがクリスに聞いた。

エレノアも、クリスがこの格好を見てどう言うのか少し気になっていたので、ドキドキしながら返事を待つ。


「・・・・・・・・・・・・。」

「ちょっとクリス!どう?」

「・・・・え?」

「だからエレノア!可愛いでしょう?」



「あ、ああ。うん。・・・・可愛い。」



・・・・それだけか。

実は少しだけ期待していたのでガッカリしてしまう。

貴族というのは女性を褒めるのがマナーなので、年頃の青年なんかはとても誉め言葉が上手いものなのだ。

今までお葬式のような服を着ていたエレノアにすら、お茶会に行けば誰かしらに美しいとか清楚だとか、一応言ってもらえたものだけど。


初めてのキラキラのドレスにお化粧で、少し浮かれてしまっていたようだ。



―――やっぱり地味な私は綺麗なドレスを着ても、あまり変わらないのね。



「いや!ゴメンちょっと今の。本当に可愛いから!驚いただけだから。」

「はい。ありがとうございます。」


―――うん。綺麗なドレスを着れただけで嬉しいから大丈夫。社交辞令でも十分嬉しい。


「あー、そうじゃなくて!・・・・・・・・失敗した。」





「まあまあクリスったら。」


リッベン婦人がクスクスと楽しそうに笑っている。


「ソフィア、エレノア。本当にとても可愛いわ。・・・・エレノア、ありがとうね。ソフィアがこんなにも何かに夢中になって取り組んだのも初めてだし。クリスもあの調子だし。私とっても楽しくって。エレノアさんのおかげだわ。」


「そんな・・・・そんな。なんのことだか、私はお礼を言われるようなことは何も。私の方こそ、本当に、この何か月か夢みたいに幸せで。お礼を言っても言い切れません。」


だから決めたのだ。

お父様とお母様には申し訳ないけれど。今日の音楽サロンだけは出ようと。ブライアンには結婚してもらえなくなってしまうけれど。



「エレノア嬢。息子と娘がお世話になっているね。本当に、聞いていた通り、美しく咲き誇る花のようなお嬢さんだ。今日の演奏をとても楽しみにしているよ。」

「侯爵様。も、もったいないお言葉です。」












そうして時間になり、侯爵家の馬車で、王宮まで送ってもらう。

社交界デビューの時に一度来たきりの王宮。それなのに今日はいきなり王妃様主催の少人数しか出席できない音楽サロンで歌うことになるとは。


ドキドキが止まらない。



「順番まで時間があるけど、他の方の演奏を聞く?それとも控室で待っている?」

「控室で待っていて良いかしら。」



他の方の演奏にはとても興味があるけれど、とても演奏を楽しみながら順番を待つ余裕がなさそうだ。

控室で少しでも心を落ち着かせたい。


「そうね、私もそうする。一緒にゆっくりお喋りでもして待っていましょう。」



待合室では、皆思い思いの事をしながら待っていた。楽器を鳴らしてみる人や、声の調子を確かめる人。


年配の人が多く、ソフィアとエレノアが一番若いみたいだった。全員が自信ありげで、自分よりも上手そうに見える。


―――別に競争ではないのだから。落ち着こう。


固い決意のおかげだろうか。意外にもエレノアは冷静に待っていられた。







*****






「ねえ、ソフィア。誰もいなくなってしまったわ。」

「・・・・そうね。」


一組ずつ順番に人が呼ばれていき、気が付けばエレノア達以外誰もいなくなってしまった。他の出演者は控室ではなくて、サロンで演奏を聴きながら待っているのだろうか。


「まさか、私たちの順番忘れられてたり・・・・しませんよね。」

「そんなことはないと・・・・思うけど。」


エレノアより王宮に慣れている様子のソフィアだけど、流石に音楽サロンの演奏は初めてなので少し不安そうだ。



「お待たせいたしました。ソフィア様、エレノア様。よろしくお願いいたします。」


少し不安になりかけた時、やっとエレノア達の名前が呼ばれた。良かった。忘れられていなかった。




「こちらから、舞台の中央までお進みください。」



「エレノア。楽しみましょう。」


ソフィアがエレノアをギュッと抱きしめてくれた。


「ええ、ソフィア。あなたと演奏できるだけで、楽しいわ。」


時間がないので一瞬だけギュッと抱きしめ返すと、ソフィアはピアノの方へ、そしてエレノアは舞台の中央へ向かった。



顔を上げる。

初めて見る豪華なサロンが目の前に広がっている。


奥の方の煌びやかな刺繍の施されたカーテンの奥には、王妃様がおられるのだろう。

思っていたよりも広いホールには、中央にスタンドテーブルがあったり、周囲にはくつろぎやすいローテーブルなどがあり、リラックスして音楽を楽しんでいる様子がうかがえる。




―――クリスだ。


すぐに目についたのはクリスだった。リッベン侯爵夫妻と一緒に、前の方の席にいる。

エレノアと目が合うと、少し心配気な視線をよこしてきた。



そして―――


お父様、お母様。


エレノアの両親が来ていた。

今まで王妃様の音楽サロンに招待などされたことがないので、きっと今回はリッベン侯爵夫妻が呼んでくれたのだろう。


その両親と一緒の席で、まるで家族のように親し気に一緒にいる人物が。




―――ブライアン。



ドクリと心臓が鳴り、背中に汗が流れ落ちる。喉がキューっと締め付けられた。




クリスの心配げな表情が、視界の端に映っていた。




―――駄目よ。落ち着くの。今日だけは頑張るって決めたんだから。今日だけは。



まだ動揺が収まらないうちに、ソフィアの前奏が始まってしまう。ソフィアの位置からはブライアンが見えないのだ。



―――大丈夫。あれだけ練習したんだから。

最近は、侯爵夫人の前だって緊張しなくなって。

だから。だから―――




いつも通りに歌い出す。


歌い出したつもりだった。でも声が掠れて上手く出ない。何とか大きな声を出そうと張り上げると、音程がくるってしまった。



何とかしようとすればするほど、どんどん酷くなっていく。


―――ああ、どうしよう。


観客がざわめきだす。隣の人同士視線を交わしたり、苦笑している人も見える。




笑われてしまうだろうから他の人の前では歌わないほうが良いよ。

笑われてしまうだろうから他の人の前では歌わないほうが良いよ。

笑われてしまうだろうから他の人の前では歌わないほうが良いよ。




ブライアンが苦笑している。

だから言っただろう?って。

言った通りだろう?って。




ああ、私。やっぱり―――














「ソフィア!『おやすみくまさん』を弾いて。」

「・・・・・・え?」


その時、誰かが舞台の上にヒラリと飛び乗った。

クリスだ。


一瞬警備の人が動きかけたが、侯爵令息であることに気が付いたのか、元の位置に戻る。

目線だけはクリスから離していない。



「ク、クリス?」

「『おやすみくまさん』!ほら!」

「は、はい。」



言われたソフィアが本当に『おやすみくまさん』を弾き始めてしまった。


いよいよ騒めくホールの観客たち。もうクスクス笑いを隠さない人も出始めた。



そんな最悪な雰囲気の中、クリスが大きな声で歌い始めた。


子どもが歌うような童謡をこんな素晴らしいホールで歌う場違い感。その歌声は、やっぱり下手だった。



くすくすくす

ははは。なんだあれ。侯爵令息?




エレノアは涙が溢れそうになった。でも堪えて一緒に歌い始める。



―――私、何を考えていたんだろう。

こんなホールで王妃様や上位貴族の前で歌って。

認められたい、褒められたいとでも思っていたのだろうか。

失敗したら終わりだとでも?




そんなのどうでも良いじゃない。

好きに歌えば。

あの時みたいに、クリスと一緒に歌って、ソフィアが伴奏してくれて。


それだけで、こんなに楽しい。



「良いぞ。次は『森の小鳥たちのワルツ』」



森の小鳥たちが、集まって一緒にさえずり、また分かれて呼び合って。楽しそうに歌っている。


自由に飛び回って。

誰かに認められるためじゃない。

歌うのが楽しいから歌って、聴くのが楽しいから聴くんだ。



『下手でも楽しく作れば、その楽しさが伝わってくるものなんだよ。』



最初に会った日、クリスが言ったことだった。あれは刺繍についてだったけど。



―――本当にそうだわ。童謡だろうとなんだろうと。


私今、最高に楽しい!!




「次は今日最後の曲。『雪の精霊』です。」



もう笑っている人は誰もいなかった。


クリスはまだ舞台にいてくれたけど、少し中央から外れてエレノアを見守ってくれている。


―――ありがとう。私、もう大丈夫だよ。




―――雪の精霊は、なぜ融けて消えてしまうまで人間の世界にいたんだろう。いくら好きな人が出来たからって。その人にまた一年後・・・・ううん。半年後にまた会おうって言えば良かっただけなのに。




でも今なら分かる気がする。


きっとその雪の精は、暖かな世界が見たかったんだ。



凍てつく氷の世界から抜け出て、たったの一日だけでも。消えてしまうと分かっていても、春の日差し、咲き乱れる花、動き出す動物たち。


その世界に一日だけでも、行ってみたかったんだ。



灰色の世界から抜け出して。

今日この一日だけでも。



私は暖かな光溢れる世界に立ちたい!!


















パンッパンッパンッパンッパンッパンッパンッパンッパンッパンッパンッパンッパン

パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ


わーーーーーーーーーーーーー!!素晴らしい!






気が付けば、ホール中の人たちが立ち上がって拍手してくれていた。奥のカーテンから王妃様がわざわざ出てきて拍手してくださっているお姿まで見える。


お父様とお母様が泣いている。侯爵夫人も。他にも何人か。



この日の事を忘れない。

明日がどうなっても。

明日からがずっと灰色の日でも。


私は一生、この光を忘れないだろう。







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