板挟み
鈴宮縁
板挟み
ほのには三分以内にやらなければならないことがあった。
起床。何よりもまずこの布団から出ねばならなかった。そして、急いでパソコンの中にあるファイルを取引先に送らねばならない。あと三分で、締め切りなのだ。
「後回しにしなきゃよかった……」
後悔が漏れ出る。
昨晩のことだ。ファイルを保存し、メールを書こう。そんなときにあろうことか、ほののかわいいかわいい恋人たちはノートパソコンをぱたんと折りたたんだのだ。
「ほのちゃん、ね〜ましょ」
「にゃ〜ご」
ほのが見上げれば、飼い猫のふきを抱きかかえた恋人のまりかがにやにやと挑発的な笑みを浮かべて立っていた。
「メール送ってからね」
「いつまで?」
「明日の朝8時」
「じゃあ早起きしたらいいじゃーん」
「すぐ終わるから」
「えーじゃあ朝でもいいじゃん」
「にゃむ」
「ふきちゃんも言ってるよ」
どうにもまりかは折れそうになかった。ほのは、その日1日をすべて仕事に注ぎ込み、仕事が休みのまりかをずっとほったらかしていた。おおかた、我慢の限界が訪れたのだろう。
であればさっさと寝て、朝にメールを送ってしまおう。そう思ったのが間違いだったかもしれない。
あと三分。しかし、腰にはうしろからがっちりと抱きつくまりか。そしてお腹のあたりでまるくなって眠るふき。起こそうといくら揺らしても、寝起きの悪いまりかは「うん、うん、わかった」と言うだけで一向に目覚めもせず、腕の力を緩めようともしない。一方のふきはといえば、よく眠っていて起こすのは忍びない。しかし、このまま無理に起きようとすればふきを起こすどころか、下敷きにしかねない。これが板挟みか。
ああ、平時であればなんて幸せな板挟みだろう。生涯ここから出たくない、そう思ったことだろう。ほのは悔しくてたまらない。こんな幸せな空間を一刻もはやく抜け出さねばと思わねばならないのはなんという罰ゲームだろう。
そう思ううちに時計の針は無慈悲にも進んでいく。
あと二分。焦るばかりで、事態が動く気配はまるでない。
「まりか、お願い。とりあえず離して」
「うん、わかった、うん」
「寝ぼけてないの!」
ほおをつねれば、ぎゅむりとまりかの目元にしわが増える。
「いたい……」
「あと五秒で起きないとまりかの大事な恋人が無職になるよ」
「え」
一瞬腕の力が緩んだ隙に、ふきに気をつけて急いで布団を脱出する。
急いでパソコンを開きにいくと、昨日書いていたメールの続きが表示される。時計を見る。あと一分。このときのほののタイピングは過去最高速度を叩き出したことだろう。
「まにあった……」
起床して間もないというのに、ほのは心身が異様に疲弊しているように感じた。ふらりと布団へ戻る。
「無職……?」
不安そうなまりかが布団の中から尋ねる。
「おかげさまで失わずにすんだよ」
そう言ってほのはゆっくりと幸せな空間へと身体を滑り込ませた。
板挟み 鈴宮縁 @suzumiya__yukari
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます