第2話

「――、魔王様起きてください!」


「ん……」



 心地良い微睡の海にあった雷志を、現実へと連れ戻すその声はひどくうるさかった。

 誰かが自分を呼んでいる。しかし、一度も聞いたことのない声だ。

 いったい誰なのだろう、と雷志はゆっくりとその瞼を開いた。



「――、おぉ! ようやく目覚められましたか」


「……はい?」



 視界に映るそれに、雷志は素っ頓狂な声を思わずもらしてしまう。

 やかましい声の主は、俗に言う執事服をビシッと着こなしていた。

 彼の佇まいから察するに、気品と礼節さがひしひしと伝わってくる。

 だが、頭部はおろか袖口より覗かせる手足は明らかに人間とそれとは異なる。

 オウルマン――そんな言葉は、雷志の脳裏にふとよぎった。



「え、えっと……すいません。どちらさまでしょうか?」



 雷志はおずおずと言った様子で、目前にいるオウルマンに尋ねた。

 これはあくまでも勘だが、返答を誤ればきっと殺されるに違いない。

 口調や仕草こそ、モンスターとは比較対象にもならないぐらい極めて温厚だ。

 彼とは十分なコミュニケーションが可能である――だからこそ、油断は許されない。



「何を仰いますか魔王様! わたくしです、アモンにございますよ!」


「ア、アモン……さん?」


「魔王様……いったいどうされてしまわれたのですか? 昏睡状態になられてからようやくお目覚めになられて、記憶が曖昧になられているのですか……?」


「いや、えぇっと……」



 雷志は平常心をどうにか装いつつも、しかしこの状況にひどく狼狽していた。

 まるで話が頭に入ってこない。

 突然ながら自分は魔王などではないし、人違いもよいところだ。

 何気なくふと、見やった等身大の鏡にはよく目にした己がはっきりと映っている。

 特に身体に異変はないらしい……。それがわかっただけでも、幾分か安心することができた。

 ホッと胸を撫でおろす。とは言え、事態がこれで解決したわけではないが。



「――、すいません。実はよく憶えていなくて……」


「……そう、ですか。ですがまずは、魔王様が無事にお目ざめになられたことを喜ぶとしましょう」


「はは……はぁ……」


「とりあえず、わたくしめは他の皆にこのことを伝えて参ります。魔王様は、お目覚めになられたばかりです。色々と驚くこともありますでしょうが、今はゆっくりと療養なさってください」


「あ、ありがとう……ございます」



 アモンが退室してからすぐに、雷志は大急ぎで身支度を整えた。

 これが異常事態であるのは明白であり、自らを危険に晒すも同じ行為だからだ。

 なんの因果か、自分は魔王という立場にあるらしい。

 勘違い極まりないが、いずれにせよバレた時の報復が恐ろしい。

 あれは、悪魔だ――見た目からそう判断して問題はなかろう。

 悪魔が人間に優しくするはずがない。

 一刻でも早く、雷志はここから逃げ出す必要があった。

 とは言え、どこへいったい行けばよいというのだろうか?

 雷志はそう自らに尋ねて、何気なく窓の向こう側を見やる。



「明らかに日本……じゃ、ないよな」



 そうもそりと呟き、力なく笑う。

 開けた窓から吹く緩やかな風は、頬をそっと優しく撫でていく。

 雲一つない快晴はその心地良さを増長する。

 さんさんと輝く陽光はとても眩しくて、それでいて暖かい。

 その下で優雅に泳いでいる――ドラゴンは、非常に雄々しかった。

 異世界――雷志の脳裏にふとよぎる。



「異世界……だよな。おいおい、まさか本当に、そんなことがありえるのか……?」



 とても信じられない話だ。

 不思議の国のアリスではあるまいし――あれは、オチが結局夢の中だった、という展開だが。

 であれば今目にしている光景も、夢ではないのだろうか。雷志はそんなことを、ふと思う。

 夢であるのならば……。雷志は思いっきり、自分の頬を強く抓った。

 結果は――とてつもなく、痛い。

 痛みがはっきりとしているのだから、ここが現実であるのは間違いなかった。

 それと同時に、厄介な場面を見られてしまった。雷志は頬の筋肉をひくり、と釣りあげる。



「魔王様! いったい何をされておられるのですか!?」



 やってきたのは、一人のメイドだった。

 あどけなさが残る顔立ちだが、端正でとても美しい。

 白くきれいな柔肌に翡翠色の瞳、腰まで届く金色の髪はさながら満月のよう。

 誰しもが美少女だ、とこう口を揃えるだろう。しかし、彼女は人間ではなかった。

 背中に生えた身の丈以上はあろう双翼が、彼女が人外であることを物語っている。



「え、えっと……アンタは?」


「そんな……お忘れですか!? 私です、メリナです!」


「メリ、ナ……?」


「あぁ……アモン様が仰られていたことは本当だったのですね」


「あ、おい。何も泣かなくてもいいだろうって……!」


「だって……だって……うぅっ……」



 突然泣き出してしまったメイドに、雷志は慌てふためくしかできない。

 女の涙というのは、どうも苦手だ。

 こっちが悪いわけでもないのに、つい悪いように感じてしまう。

 そして、どう慰めればよいか。適した言葉がまるで思い浮かばない。

 泣くのをやめろ、とこれぐらいであれば誰にだってできる。

 もっと気の利いた言葉ば……。雷志は必死に思考を巡らせた。

 その時、遅れてやってきたその存在に雷志はつい安堵の息を吐いてしまう。



「何をしているのだメリッサよ。魔王様に迷惑をかけるとは感心せんぞ」


「ア、アモン様……! すいません、つい取り乱してしまって……」


「まったく……貴様も魔王様の配下なのだ。もっとそれ相応の振る舞いをせねばならん――もっとも、貴様の気持ちがまるでわからないわけでもないがな」


「アモン様……どうしてこのようなことが」


「恐らくだが、勇者共の攻撃による副作用的なものだろう……。こればかりは情報が少なすぎる今、断定することは極めて難しいが」


「勇者……? 攻撃? 俺、つい最近攻撃されたんですか?」


「えぇ。つい先日、勇者たちがこの城に攻めてきました。なかなか腕の立つ者達で、そこで魔王様は……」


「攻撃を喰らって、ずっと昏睡状態にあった……と?」


「えぇ。どれだけ回復魔法をかけても、一向に目覚めることがありませんでした」


「な、なるほど……」



 アモンの言葉を聞いて、雷志は思わず納得してしまった。

 魔王なのだから、当然それを討伐する者がいてもなんら不思議ではない。

 魔王と勇者の物語は、別段そう珍しくもなんともない。

 むしろ王道的設定だと断言しても、それは過言ではないだろう。

 しかし、これは厄介なことになってきた。雷志は内心で滝のような冷や汗を流した。

 魔王である限り、今後も勇者たちが攻めてくるのは確実だ。

 冗談じゃないぞ……! 雷志は大いに焦った。

 どうにかしてこの状況を打破しなければ、自分に明日はやってこない。

 とは言ったものの、いったいどうすればいいのだろうか……。



「――、魔王様。今はとにかくゆっくりとお休みください。後は我々が」


「魔王様。何か御用がありましたらこのメリナになんでもお申し付けください! メリナは、魔王様のためならば例えこの命だろうと喜んで捧げます」


「あ、そういう重いのはいらないな。自分の命は大事にしてくれ」



 雷志はそう口にして、苦笑いを小さく浮かべた。

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