第8話 とらわれた者
僕の——と続いた鵙の言葉は、もう憶えていない。
バシャン。……ピチョン、ピチョン。意識が世界に浮上するのと同時に、湿気の臭いと水の冷たさが彼の思考を冴え渡らせた。水を被ったことで目覚めたので、今の今まで眠っていたことになる。となればあれは、きっと『走馬灯』と呼ばれる夢の類だろう。あの時間は、アルビノが『アルビノ』であることを自覚した日であり、アルビノの世界が広がった日。そして、彼だけの『世界』が現れた日でもあった。
徐々に増していく痛み。この状況下の前後の記憶を思い出そうと、彼は頭を振った。
「……起きろ白柘榴。今こそ貴様の存在の意義を、役目を果たす時ぞ」
口の端から液が垂れている。ぺろりと舌でなぞれば、それは甘く熟した自分の味がした。そんな状況が可笑しく思えて、アルビノは思わず吹き出した。
「……何を笑っている」
「……いいや……? ……そうか。……なあ、今日は何日目だ?」
「…………二日目だ」
「……ハ、ハハッ、アハハハハ! そうか! ……なるほど」
目の前にいるであろうマスカレードの言葉が、妙に腑に落ちる。——俺が生きていられるのはあと一日。それまでの時間は、この薄暗く冷たい部屋で過ごして終えるのだろう。
アルビノは途端に全身からふっと力が抜けるのを感じた。これは魂が消えかけていく時の感覚に酷似している。呼吸をするたびに「死」に近づいていく。そんな不便な体が憎く思えるも、そう思うことさえ許されなくなっていくのだ。
(……このまま、あいつにだけは知られずに終わりたいな……)
自らが死にゆく姿を、愛おしい者に見せたい者がいるだろうか。
「…………ああ……馬鹿な話だ……」
❀
目が覚めて、ふと例えられない不安に駆られる。いつもの悪夢を見なかったからだとアルビが気づいた時にはすでに日が暮れ始めていた。丸一日以上眠っていたのだろう。夕日の差し込む自室がこんなにも寂しいものだとは思いもしなかった。悪夢を見なかったのは何かの前兆なのか、偶然そういう日だったのか、そこまでは分からなかった。だが何かが起きていると感じたアルビはアルビノに会わなければならないと直感していた。
寝起きの重い体を引き摺りながら、アルビはアルビノのいるであろう庭園の中枢部に向かう。部屋を出てすぐ外を見れば、庭園には雪が膝の辺りまで降り積もっていた。白い吐息が空に溶けていく。ああ早く彼の許へ向かわなければ。きっと、あの白柘榴の木の下はとても寒くてさみしいだろうから。
けれど、白柘榴の木の下に着いた時、そこにアルビノは——いなかった。
「…………アルビノ……どこぉ……?」
アルビノがここにいないという現実が、アルビの心をざわつかせる。辺りを見渡してみるとマスカレードたちが回廊で何かを話していたのが見えた。アルビは彼らに悟られないよう、会話に神経を向けながら彼らの前を平常心を装い素通っていく。
聞こえてきた、それは、はっきりと言っていた。
いわく、
アルビは、気づいたときにはすでにその場から逃げるように走っていた。それでは盗み聞きをしたも認めたようなものだったが、それでも彼は足を止めることをしなかった。どこからかマスカレードたちの慌てる声が聞こえてくる。だがそれは、気がしたけだ。
アルビは彼がどこに囚われているのかを知っていた。そこは知らない場所だったが、アルビの魂は憶えていた。そこは湿度の高い場所。木造で出来た錆びれた地下牢屋は風格がある。ここは古くから罪を犯した者が収容される場所だった。アルビがこの場所を訪れるのは初めてであるが、どこか物悲しく感じるのは気のせいではない。それはきっと、遠い過去にもここへ収容されたのであろう『彼ら』についての記憶が魂に刻まれているからだろう。
アルビは本能の赴くままに、その牢の鍵に触れる。瞬間、背後から「アルビ様!」というマスカレードの複数の声が湿気た地下に響き渡った。マスカレードは、アルビノとの接触を阻止するつもりで
「来ないで」
「アルビ様、どうかこちらへお戻りくださいまし」
「どうして? ここにアルビノがいるんでしょ? だったら会わせてよ。僕のことを思うなら、今すぐ!」
「なりません」
「なんで!」
「あの木に情を移されては困るからですよ、我らが王・鵙よ」
「僕をその名で呼ぶな!」
アルビは『
(僕はただ、僕として見てくれるひとが欲しいだけなのに)
アルビの願いは、どうしたって届かない。
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