失われた聖櫃 (アーク) の十戒 ~アクスム王国戦記~

kanegon

西暦761年

 全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れには三分以内にやらなければならないことがあった。

 広大なエチオピアの大地を、このままの全速力で走り続ければ、あと三分ほどで、切り立った崖の上に出ることになる。それまでに群れが冷静さを取り戻して立ち止まらなければ、高い崖から転落して死ぬことになる。これでは群れの集団自殺だ。

 先ほどまで、バッファローの群れは静かな水場で束の間のくつろぎを享受していた。本日はたまたま凶暴な肉食獣も見当たらず、燦々と輝く太陽の下、水浴びをしながら平和なひとときを過ごしていた。

 突然、大きな破裂音がした。近くに潜んでいた人間が立てたものらしい。バッファローは壮健な肉体を誇り、たとえ肉食獣が相手であっても鋭い角で戦うことのできる勇猛さを兼ね備えているが、本質は草食動物であり、危険に対しては臆病である。静寂を破られて驚いた群れは一斉に反対方向へ逃げ出した。東である。

 大雑把にいえば、エチオピアの地理は、東が低地であり、西は岩盤の高地となっているため、南北に渡って延々と切り立った崖が続いている格好だ。東西の高低差は顕著な場所では一〇〇〇メートルにも及ぶといわれている。ただしエチオピアの中でも北部にあたるこの近辺では、そこまで極端ではなく、高低差は二〇メートルほどだ。

 それでも転落すれば、いかに頑丈な体躯が自慢のバッファローといえども無事では済まないはずだ。更には、上から次々と仲間たちが落ちてくることになるので、最初に落下した個体は、仲間たちの下敷きになって押しつぶされる格好になるはずだ。

 集団転落で群れが全滅するのを阻止するために、すぐにこの猪突猛進を止めなければならない。猪ではなく猛牛であるが。

 憎むべきは、平穏を破り、大きな音を出した人間と思われる者だ。いや、原因などはこの際曖昧なままでも良い。とにかく我に返って立ち止まることだ。

 だが単純に先頭を走っている個体が立ち止まっただけでは意味が無い。群れ全体が驀進しているので、後ろからどんどん押し寄せて来るので、一体が立ち止まっただけでは、後続の集団に踏みつけられて蹂躙されるだけだ。

 群れの全体が、一斉に立ち止まることが必要だ。

 アフリカ東部、エチオピアの高地は基本的に荒涼とした平地だが、平地といっても水平ではない。西高東低が原則の地形なので、西が高く東が低い下り坂になっているのだ。東に向かって走り出せば、いつもよりも勢いがついて速度が出る。

 もうすぐ乾期が終わって雨期になるはずだが、乾いた大地は猛牛の集団が速く走るのには適していた。ごくたまに小さな木が生えていることもある。群れの進行方向にある木は、何体かの猛牛の体当たりを受けて、たまらず根元から折れて倒れてしまっていた。バッファローの群れの爆走は全てを破壊し尽くしても止まらないのだ。

 人が通った後に道ができるというが、バッファローの群れが通った後に残るのは道ではなく、濛々たる土煙ばかりである。



◎◎◎



 将軍は大激怒していた。

 遠征軍を編成したエルサレムの地から、南西方向へ、砂漠を渡り、ヒトコブラクダの背に揺られて遥々やって来たエチオピアの地。

 この地を支配しているアクスム王国を傘下に入れて、アフリカの奥地で産出する象牙や犀角などの交易による利益を手に入れよう、と画策しての遠征だった。

 アクスム王は、アッバース朝イスラム帝国の教王 (カリフ) のマンスールに忠誠を誓うと口約束しておきながら、所定の税を納めようとはしなかった。王子を人質としてアッバース朝の都へ差し出してきたが、その王子はいつの間にか逃げ出していて市井に紛れてしまったという。

「あのアクスム王国のアムハラ族の黒人異教徒どもに、神の正義を見せつけてやるのだ」

 そう言った教王 (カリフ) マンスールではあるが、母親はアフリカ北部出身のベルベル人奴隷であり、息子もまた母の血を継いだ浅黒い肌の黒人であった。

「アクスムの都には、コプト派キリスト教の教会があって、そこには、モーゼの十戒を刻んだ粘土板だか石版だかが収められた聖櫃 (アーク) があると聞く。太古の昔、ソロモン王の時代にエチオピアから嫁いできたシェバの女王マケダが持ち帰って、かの地の国宝としたと聞く。本当に連中が我が帝国に忠誠を誓うと約束するのならば、その証として、十戒を収めた聖櫃 (アーク) を差し出せ。これが、無礼な奴らへの要求だ」

 砂漠の旅は過酷だった。途中ではアトバラ川の河沿いを遡って進む場所もあった。ここに来るまでに既に一〇〇頭以上のラクダが死んだり、行方不明になったりしている。ラクダや荷物と一緒に脱走した兵士も、ごく一部存在すると報告を受けている。神に背いた臆病者どもがどこに逃げたのかは分からないが、発見し次第処刑である。

 アクスムの都は、高原地帯の中でも更に二つの山間にある平地部分、つまり盆地であった。アクスムの都に入った軍隊は一泊してから、翌日にまずは王との会談の席を設けた。

 王は体調不良とのことで、代理として大臣が将軍の目の前に座った。枯れた黒檀のような痩せて頬のこけた老人であった。長い顎髯だけが妙に白かった。

 老大臣はコプト派キリスト教の信徒であるはずだが、アッラーの寛大さを讃え、預言者ムハンマドの寛大さを讃え、教王 (カリフ) マンスールの偉大さを讃えた。だがアクスムの連中は口先ばかりが達者なので一切信用するな、と教王 (カリフ) から厳命されている将軍は、冷静に老大臣の言葉を聞いていた。勿論、言葉は通じないので、通訳の者が翻訳してくれている言葉を介してである。

 忠誠を誓うのならばその証として国宝の聖櫃 (アーク) を引き渡してほしい、と将軍が要望を切り出すと、老大臣はそれまでの弁舌が嘘のように歯切れが悪くなった。

 いわく。聖櫃 (アーク) は聖なるもので、門外不出のものであり、シオン聖マリア教会から持ち出すことはできない。万が一持ち出した者には、天罰が下るだろうと占い師が言っていた。聖櫃 (アーク) の代替として、占い師が祝福を与えた土器の壷があるので、それを献上する。それを以て和平の証とし、矛を収めてはもらえないだろうか。

「バカなことを言うな。……いや、通訳のお主に対して怒っても始まらないな。まあ、とりあえずその壷とやらを見るだけ見てやろうじゃないか」

 将軍付きの通訳兼助言者の男は、遥か東方の出身で、一〇年ほど前に戦争捕虜となってアッバース朝に仕えるようになった外国人だった。

 将軍の目の前に置かれた壷は、悪趣味なほどにけばけばしい緑色の釉薬が塗られていた。表面には人の顔が描かれていて、嫌味ったらしいような強欲そうな笑顔を浮かべていて、見る者を挑発しているかのようだった。

「なんかこの壷、腹立つな」

 将軍は壷を両手で抱え上げ、渾身の力で床に叩きつけた。安っぽい音と共に壷は割れて破片となった。

「交渉は決裂だ。いや、最初から交渉にすらなっていなかったではないか。今からシオン聖マリア教会に突入する。連中が差し出さないとあくまでも言い張るのならば、こちらから自ら出向いて、聖櫃 (アーク) を持ち出してやる」

 将軍は会見の場から慌ただしく立ち去って、そのまま一隊を引き連れて教会に向かった。

 入口で将軍の入場を食い止めようとした黒人管理者を押し倒し足蹴にして、強引に奥に押し入った。

 最奥の部屋に、それらしき大きな箱があった。だがそれは、単なる古びた木箱のようであった。

「思っていたのとは違うな」

 聖櫃 (アーク) と言うからには、豪華な宝石が象眼されて金銀で飾り立てられた立派な箱だと将軍は思っていた。

「ソロモン王の時代というからには、今から一七〇〇年とか一八〇〇年とか昔のことと思われます。箱が古くて粗末であっても、あり得ない話ではないのではありませんか。箱の外観だけを見て判断するのは早計かと」

 通訳兼助言者の唐国人に言われて、将軍は中身を確認することにした。自らの手で蓋を開ける。罠が仕掛けられている可能性もあったが、恐れ知らずの勇猛な将軍は軍隊の行動でも常に先頭に立って行動していた。

 箱の中には一枚の紙が入っていた。広げてみると四角形でかなり大きさもある。書かれている文字は単純な記号を組み合わせたような形だった。ソロモン王時代の古代文字だろうか。将軍には読めないので、通訳の男に紙を手渡す。

「これは……確かに書かれている内容は十戒のようですね」

「ならば、この粗末な箱が、シェバの女王が持ち帰ったという聖櫃 (アーク) で間違い無いのか」

「いいえ。記述内容こそ十戒ですが、書かれている文字はソロモン時代の古代文字ではありません。現在のアムハラ族の間で使われている、グズ語とかゲーズ語とか呼ばれている書き文字です。どこで入手した紙か分かりませんが、黄ばんでもおらず比較的新しい紙です。恐らくサマルカンド辺りで作られて、それが交易で流れ流れてここまで来たのでしょう。それにそもそも、本物の十戒は粘土板か石版かに刻まれているって話でしたよね」

「どういうことだ、それは」

「つまり、これは偽物だということです。箱も、単に粗末なだけの箱だったようです」

「ふざけるなよ」

 怒りにまかせて、将軍は木製の箱を蹴りつけた。古びた木材は容易に壊れた。

「おい、誰か、あの嘘つき大臣をここへ連れて来い」

 呼びに行った兵士がしばらくしてから戻ってきて報告した。アクスム王国の老大臣は会見の場から姿を消していた。どうやら逃げたらしい。将軍は顔を真っ赤にした。

「どこまでも馬鹿にしやがって。アクスム王国の連中、最初から騙すつもりだったのだな。いいだろう。そちらがその気なら、こちらにも考えがある。本物の聖櫃 (アーク) は運び去ったのだろうが、さすがに教会の建物までは逃げることはできないからな。見せしめとして、この教会を破壊する。槌を持ってこい」

「さすがに、そういう乱暴なことはしない方が良いのではありませんか。アクスムの都の住民たちの反感を買ってしまいますよ」

 通訳の男が、もう一つの役割の助言者として、将軍に対して意見具申する。

「住民どもも、これを機会にイスラムに改宗すれば良いのだ。住民に対して無駄に危害を加えるつもりは無い。あくまでも教会の建物を破壊するだけだ。ただし、それを邪魔をする者がいたら容赦なく処刑する。まあどの道、仮に本物の聖櫃 (アーク) を正直に譲渡してくれていたとしても、行き掛けの駄賃として教会は破壊するつもりだったけどな。その方が俺の手柄として教王 (カリフ) 様への覚えもめでたくなるだろうし」

 同じイスラム教徒同士であっても、立場や意見が食い違えば容易に血で血を洗う戦いに発展して殺し合う。通訳の男は一〇年ほど、広大なイスラム帝国をあちらこちらを渡り歩いて、数え切れないほどそういった光景を目の当たりにしてきた。同じイスラム教を信奉していても必要があれば殺し合うのだ。異教徒であるキリスト教徒に対して、怒りに身を焦がした将軍が寛大になることはないだろう。

 早速、教会の建物の破壊が始まった。それに気づいた住民たちの一部が阻止しようと押しかけてきて、幾つかの箇所で遠征軍の兵士と小競り合いになった。死者や怪我人も発生して、アクスムの都は騒がしく不穏になった。

 破壊されていくキリスト教の教会を眺めていた将軍だったが、しばらくしてから気づいた。

「いや待てよ。奴らは本物の聖櫃 (アーク) を持ち逃げして、その代わりに偽物を用意していた。泥棒対策として偽物は元々あったのかもしれないが、本物を持ち逃げしたのは随分手際が良いという感じがする。事前に向こうに情報を漏らした不届きな奴が居るんじゃないのか」

 アクスムの都に辿り着くまでに、幾人もの脱走者が出ているのを将軍は思い出した。大半の者は過酷な進軍に我慢できずに脱落したのだろうが、軍隊の中には将軍や教王 (カリフ) マンスールに対して不満を抱いている者も潜んでいたのかもしれない。偉大なイスラム帝国軍といえども、一枚岩ではないのだ。

「おい、脱走兵を捕まえたら処刑と言っていたが、すぐには殺さずに、俺の前に引っ立てろ。拷問して、本物の聖櫃 (アーク) がどこに持ち逃げされたのか知っているかどうかを聞き出して、それから処刑だ」

 将軍は難しい顔で腕組みをし、教会が破壊されていくのを見守り続けた。

 更に時間が経ってから、一つの事実に気づいた。

「いやいや待てよ。脱走兵がアクスム王国の連中に情報を漏らすといっても、言葉が通じないではないか。アクスム側にも、俺たちの言葉をしゃべることができる者がいるかもしれないけど、言葉が不自由でまともに話し合うことができないような相手の言うことを信じるだろうか。この場合、アクスムの言葉を使いこなせる奴が犯人じゃないのか」

 将軍は周囲を見渡した。常に側に控えているはずの通訳兼助言者の唐国人が見当たらない。いつからいなくなっていたのだろうか。

「通訳の杜環は、やはり見当たらないのか。ならば確定だな。あいつが犯人だ。よし、本隊はアクスムの都に残して、引き続き教会の破壊も続けるが、杜環捜索班を出す。小隊単位で、東西南北の全方向、杜環の行きそうな方角を隈無く探す。北へ戻った可能性は少ないだろうが、そちらも念のため。行くとしたら、アクスム王家が逃げたと思われる南へ一緒に向かったか、あるいは東だな。象牙を輸出する港に潜伏するかもしれない。この際だから、俺も東を捜索する小隊に加わって、必ず杜環の奴を引っ捕らえてやるぞ。数日がかりになるやもしれん。早急にラクダや食料などの必要物資を用意しろ」



◎◎◎



 将軍が「教会を破壊する」と言い出した時、杜環は最後の望みをかけて諌めて説得を試みた。だが興奮した猛牛のごとく怒り沸騰した将軍は聞く耳を持たなかった。ここに来てついに、杜環は将軍を完全に見限った。

 将軍が粗暴な男だということは、エルサレムを出発してからここまで従軍してきて十分に杜環には分かっていた。このまま将軍の側に控えていては、いずれ些細なきっかけで逆鱗に触れた時に衝動的に斬殺されてしまうだろう。そうなる前に逃げ出すしかない、とは常々思っていた。

 教会の破壊が実際に始まると、地元住民と兵士たちとの間で、何カ所かで争いが起きた。本来ならばこういう時に、お互いの言葉が通じない者同士の仲裁をするのは通訳者たる杜環の役目のはずだった。もう杜環は決断してしまっている。都が混乱してしまっている今こそが脱走の絶好の機会だ。

 遠征軍から離れて行く杜環に対し、誰も注意を払わなかった。起きている騒動に皆、心が動揺していて、一個人の動向どころではない。あっさりと脱走の第一段階は成功した。

 杜環は実のところ、昨晩のうちに秘密裏ににアクスム王国側と接触していた。

 深夜の訪問の非礼を詫びながら、杜環は主張した。将軍はアクスム王の首と聖櫃 (アーク) を狙っているので、今のうちに王家の人々は脱出して南へ落ち延びた方が良い。恐らく将軍は、聖櫃 (アーク) さえ入手できれば教王 (カリフ) マンスールに対して面目が立つので、それで満足すると思われること。なので聖櫃 (アーク) は持ち出さずにそのままにしておいた方が良いと思われる。

 遠征軍側の情報を提供した見返りとして、杜環はアクスム王国の地理についての情報をもらった。西高東低の地形で、南北に連なる長大な崖があって、国土を東西に分断していること。王国の内陸部で象牙や犀角を手に入れ、それを東の海岸にあるアドゥリスの港へと運び出す。そこでダウ船という縫合船に載せて、東方のインドや東方のカンフーに運ぶ交易をして財貨を得ている、ということを聞いた。ヒッパロスの風と呼ばれる季節風を利用した帆船による航海なのだという。

 地理に関しては、特別な情報などは何も無かった。一般住民に聞き取りしたとしても、時間を費やせば同じような情報を獲得できたであろう。でも今の杜環には時間と労力を費やさずに纏まった情報を獲得できることがなによりもありがたかった。

 そしてカンフーである。

 カンフーとは、唐の南方の港町の広州のことだ。故郷の長安から離れて西へ西へと旅して来た果てに辿り着いたアフリカの地だが、海を通じて唐と繋がっていたのだ。

「もしかしたら。唐へ、帰れるかもしれない」

 今から一〇年前のタラス河畔の戦いでアッバース軍の捕虜となって、成り行きでどんどん故郷から遠ざかる西へと移動してくることになった。一時はもう帰郷を諦めていた時期もあった。だが、ここにきて、大逆転の帰還が現実味を帯びてきた。

 いざ、翌日になってみると、アクスム王家の者たちは逃げ出しただけではなく、聖櫃 (アーク) までも偽物を残して本物を持ち去ってしまっていたのは杜環にとっては誤算だった。だが、それにより将軍が熱く怒り猛って都の混乱が大きくなったので、杜環は脱走の機会を得ることとなった。ある意味偶然の産物だった。

 もしも将軍が話の分かる人だったら、唐へ帰りたいという杜環の願いを最初から素直に話して説得して、軍から正規に離脱させてもらう道を探っても良かったかもしれない。だがその望みも薄いと判断がついた。杜環は穏便な別れではなく、強行突破で故郷を目指そうと決めた。

 都から出た杜環は東へと進んだ。荒涼とした平地がずっと続いている。平地といっても小さな上り下りは当然ある。全体としては東に向かえば下り坂が多くなる。所々に灌木の茂みや、もっと大きな木の林もある。人の集落の近辺は、テフと呼ばれる小粒な稗を育てている畑があった。

 アクスムの都を脱出して何日経っただろうか。まだ追手は来ていない。あるいは別の道を行き違いになった可能性もある。どこかで不意に鉢合わせしてしまう危険性は捨てきれない。

 一人旅なので危険は事前に回避しなければならない。途中でバッファローの大群が休んでいる水場があった。野生動物を刺激したら危険だ。彼らの角は象の牙や犀の角ほどの商品価値は無いかもしれないが、武器としては非常に強力で恐ろしい。大きく南へ迂回し、杜環は更に東を目指した。

 その時、北西の方角に、何やら土煙が上がっているのが視界の隅に入った。土煙は東へ向かって移動しているらしい。

 追っ手がついに迫ってきてしまったのではないか。

 勘が働いた。杜環は素早く近くの灌木の茂みに身を潜めて、そちらを観察した。

 ヒトコブラクダに騎乗している集団が東へ向かって行った。乗っている人間の武装には見覚えがある。自分をつけ狙ってきている追手で間違い無いであろう。彼ら小隊は、バッファローの群れが集う水場を北へ迂回したので、杜環と間近で遭遇することなく追い越して行ってしまったのだ。

 まだ安心はできない。荒涼たる大地は、凹凸や少しの障害物はあっても、隠れる場所は多くない。敵は間近に存在する。このままだと見つかる可能性もある。ただやり過ごす偶然に期待するだけでは駄目だ。追跡を諦めさせる必要がある。どうすればいいか。

 実はもう一つの懸念もある。このまま東へ進めば、いずれは大地の段差たる崖に辿り着いてしまう。この近辺は比較的高低差の小さい場所とは聞いていたが、それでもどうやって切り立った崖を降りれば良いのか。

 内陸地で獲得した交易品の象牙や犀角を東海岸のアドゥリス港から輸出しているというからには、どこかに人間なり荷運びのラクダなりが安全に通行して崖を上り下りできる道があるはずだ。だが、南北に長々と続いている断崖絶壁の帯のどの位置にその道があるというのか。見つけることは容易ではないだろう。分かりやすい目印など無いので、地元の者の案内が無ければ無理ではないか。悠長に崖に沿って南へ北へと徒歩で探していたのでは、こちらが先に捜索隊に捕捉されてしまうだろう。

「この窮地を、どう乗り越えればいいのだ」

 脱出の第一段階は呆気なく突破できたが、第二段階にして絶大な困難の壁に当たってしまった。

 それもある意味予測通りではある。だからこそ諦めたくはない。一〇年前、故郷の唐から遥か遠い西域のタラス河畔の戦いで、味方であったカルルク軍の裏切りによって唐軍は大敗し、多数の犠牲者を出してしまった。杜環は幸い死にはしなかったが、黒い旗を掲げるアッバース軍に包囲されて逃げ場を失い、あえなく降伏した。

 あれから思えば遠くへ来たものである。あまりにも西へ西へと来過ぎてしまった。

 捕虜になった杜環たちは、サマルカンドの街へと連行された。唐に居た頃に読んだことのある書物では、康国と記載されている国だ。

 杜環の所属している小隊の仲間のうちの一人が紙漉き工であった。そのことを知ったアッバース軍は、小隊に対して紙の製造を命じた。アッバース側には製紙法に関する知識と技術が無いのだ。唐国に存在する紙という便利な物の製造方法をどうしても知りたかったのだ。

 紙漉き工を中心に、杜環の所属する小隊の面々は紙の製造の助手として働くこととなった。

 アッバース側に予備知識も技術も何も無い。だから唐軍捕虜たちは最初の最初から紙造りを始めなければならなかった。

 紙造りのための工房そのものを作るところからの出発だ。

 作業は大変だったが、アッバース側にとっては貴重な新技術なので、小隊は捕虜としては高い待遇を与えられたので、衣食住に困ることは無かった。

 あの時、サマルカンドで一緒に紙造りをした仲間たちとも、今は別れ別れになってしまった。彼らは今もどこかで元気に暮らしているだろうか。恐らく唐へ帰還できた物は一人もいないであろう。

 アクスムの都を出てから、かなり歩いた。そろそろ、崖に到着する頃だろうか。

 ふと、杜環に一つの案が閃いた。方向転換して、西へと向かう。

 バッファローたちが水辺で憩っている西側に回り込んだ。猛牛たちは周囲に危険が無いことを知っているのだろう。平穏の中でくつろいでいる。

 杜環は懐から一枚の紙を取り出した。十戒が記されている、偽物の聖櫃 (アーク) に入っていた紙を、そのまま持ってきていたのだ。

 四角の紙を手早く折って、三角形にした。角を手に持ち、大きく振りかぶって、上から下に勢い良く振り降ろす。

 乾いた、大きな破裂音が炸裂した。

 バッファローたちの静寂は破られた。驚いた猛牛たちは我先にと東へ向かって逃げ出し始めた。



◎◎◎


 死への突進は続いた。状況は変化しない。解決策は無い。時間だけが過ぎた。

 猛牛たちの爆走は、途中で人間の集団に出くわした。皆、ラクダに跨がっている上に、それぞれ固い鎧を身に纏っていた。突然出現した獣の集団暴走に驚いている。人間たちは何本か矢を放った。先頭を走っていた三頭ほどが矢を受けてもんどり打って地面に倒れた。だが後続の者たちは仲間の屍を踏みつけて乗り越えて先へ進む。人間たちは慌てて逃げようとラクダを操ろうとするが、もう遅い。バッファローの群れに飲み込まれて、土煙の中に消えた。僅かな悲鳴だけがアフリカの乾いた空気の中で虚しく風に流されて行った。

 脆弱な人間たちなど、バッファローの群れの暴走にとっては何の障害にもならない。

 今の人間の集団は、群れの暴走の原因となった大きな音を出した人間と何か関係があったのだろうか。

 いや、そんなことは重要ではない。崖が迫っている。早く立ち止まらなければ、群れは崖から落ちて全滅必至だ。

 しかし派手に土煙と轟きをあげながら爆走する群れは、冷静さなど水場に置き忘れてきている。取り戻せる兆しは無い。

 もしもこのまま長距離を走り続けていれば、いずれは走り疲れて自ずと速度が落ちてやがては立ち止まることになるであろう。でもしかし現状は、走り疲れる前に切り立った断崖絶壁に到着してしまう。

 いよいよ先頭を疾走する猛牛の目には、大地の終わりが見えてきてしまった。崖の下にはまた別の大地があるのだが、そこに到着する時には全身を強く打って折れた骨が内臓を突き刺して、苦痛に満ちた死が迎えに来てくれるだろう。

 そういえば、崖は東側なのだから、いかに下り坂だからといって馬鹿正直に真っ直ぐに進むのではなく、途中で曲がって進路を北か南いずれかへ変更していれば、走り疲れて立ち止まる流れに持ち込むことができたのではないか。

 と、気づいたバッファローが一頭でも居たのか、居ないのか。

 いずれにしても、もう遅い。

 気がついた時には、蹄の下には地面は無くなっていた。崖の上から勢いよく空中に飛び出してしまったのだ。

 二〇メートルほどの高さを落下し、低地の地面に衝突した。それでもまだ即死はできずに体を痙攣させていたところに、後ろから次々と仲間たちが落ちてきた。

 暴走した者たちの行き着く先は、お互いにお互いを潰し合う破滅だけであった。



◎◎◎



「猛牛の群れ、追手の一団を踏み潰してくれたみたいだ。偶然だけど上手く行きすぎたくらいだ」

 杜環といえども、そこまで都合良く行くとは想像していなかった。せいぜい、バッファローの暴走に驚いたラクダが騎乗者の言うことを聞かなくなって追跡がままならなくなる、くらいのことになってくれればいい、と思っていた。

「サマルカンドで自分たちの力で紙を作っていて、助かった」

 踏み潰された追手には一瞥をくれただけで、杜環は崖の端から下を覗いた。

 夥しい数のバッファローたちが、積み重なって山となっていた。

 最初の頃に落ちたバッファローは高低差で転落死しただろうし、仲間に押しつぶされていて、生き残っている者はいなさそうだ。最後の方に落ちた個体も、先に落ちた個体の角が突き刺さって死んだり、仲間の体と体に挟まれて身動きを取れなくなったりしている。

 うずたかくバッファローの死体が積もったことにより、崖を降りる階段が形成されていた。階段と称するにはあまりにも不安定で急角度ではあるが、湾曲した角や耳や足などを掴むことができるので、苦労はしたものの、低地に降りることができた。

 アドゥリスの港まではまだ遠いかもしれないが、それでも最大の難関は突破した。

 これから先もまだ困難があるかもしれないが、唐の長安からタラス河畔、サマルカンド、アッバースの都、ビザンツ帝国、エルサレム、アフリカのアクスム王国と長い旅をここまで乗り越えてきた杜環だ。どんな道でも進んで行ける。

 そういえば十戒のモーゼは、海に道を作ったという伝説があると聞いた。

 今の杜環にとっては、海こそが唐へと帰還する道となるのだ。

 その海を目指して、杜環は改めて東へと一歩を踏み出した。

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