第19話 プロムナイト

ーーここにいて。


 あの夜、マノンはそう言った。


 高校3年のその夜、私はクラスの男子とプロムに行く予定だった。彼は中学の時から根気強く私にアプローチを続けていた。誰も相手がいなかった私は、仕方なく彼を相方に選んだ。


 プロムの1週間前、バーナテッドが家に遊びにきた。その時たまたまマノンもいて、3人でお菓子をつまみながら他愛のない話をしていた。途中、話題はプロムの方に流れていった。


「レア、あなたは誰と行くか決まった?」


 バーナテッドが、テーブルの皿の上に並べられた、大きなキャンディのような形をした、黄色いボンボンチョコレートの包みを開けながら尋ねた。


「シモンと行くわ」


 別に彼のことが好きなわけではない。ただ、高校生活最後のプロムに一緒に行く相手がいないというのは、何と無く味気ない気がして誘いに応じただけの話だった。


 マノンの方に視線をやると、彼女は俯いたまま、食べ終わったボンボンの包紙の皺をテーブルの上で伸ばして、折り紙のように三角形に折っていた。


「そうなんだ。私はゴードンと行くわ。バリーとロブにも誘われたけど、花占いでゴードンに決めた」


 おしゃべり上手で華やかな顔立ちをしたバーナテッドは、クラスで一番モテた。


「そんな決め方でいいの?」


「うん。だって別に、誰でもいいんだもの」


「まぁ、私も別にシモンのこと好きじゃないし」


「一人で行くよりは、って感じだよね」


「そうそう」


 バーナテッドが帰ったあと、それまで無言でボンボンの包み紙で船を折っていたマノンが、初めて口を開いた。


「好きでもない人と行くのなんて、つまらなくない?」


 金色の船にばかり注がれるマノンの視線が、私に向くことはない。彼女は時々こんなことがある。意識的なのか無意識なのか分からないが、私と目を合わせることを避けるようなことが。


「まぁ、楽しくはないだろうけど‥‥‥」


「好きでもない人と行くくらいなら、私は一人で行くよ」


「何怒ってるのよ」


「別に、怒ってないよ」


 何となく責められているような気がして、居心地が悪かった。マノンは相変わらず目を合わせないし、怒ってないと言いながら、その言い方にはどこか棘がある。


 クラスメイトの中には、女子同士でプロムに行く子たちも一部であるがいた。もしマノンが同い年だったら、一緒に行ったかもしれない。いや、行かなかったかも。彼女と私が従姉妹だということを、学校のほとんどの生徒は知っている。私たちが一緒に腕を組んでプロムに行ったりしたら、白い目を向ける人間がほとんどだろう。仕方ないじゃないか。心の中で独りごちる。


「帰るね」


 一言だけ言って、マノンは立ち上がった。


「うん……」


 私はマノンを見送るために、玄関までついて行った。帰り際、マノンは初めて私を見た。


「レアが幸せなら、私はいいの」


 プロムの当日、マノンが家出をした。その日、マノンの父が朝から機嫌が悪く、マノンと母を散々詰ったあと飲みに出かけたらしい。


 いつか、こんな日が来るであろうことは予想していた。マノンの我慢の限界が訪れることは。ただの家出だったらいいが、悪い想像が胸を掠めるのを止めることができない。


 顔面蒼白のマノンの母を励ましたあと、免許取りたての私は車を走らせた。


 マノンの行きそうな場所ーー。


 メロウの別荘だろうか。


 それともーー。



 モンパルナスタワーの展望台のデッキの上、マノンはぼんやりとパリの街を見下ろしていた。時間は夜の6時。もう、プロムは始まっている。


「パリって、こんなに綺麗なんだね」


 隣に立った私を見ることもなく、マノンはつぶやいた。この頃、彼女は私を避けていた。学校ですれ違っても視線を合わせることがないし、メールを送っても素っ気ない。幸せならいい。そう言いながら、避ける意味が分からなかった。なら勝手にすればいい。そう思って構わずにいた。


 彼女の視線の先には、エッフェル塔が金色の光を放ちながら仁王立ちしている。そのすぐ側にはセーヌ側が流れ、西側にノートルダム大聖堂や凱旋門、南側にはモンパルナス墓地が見渡せる。


「プロム、行かなくていいの?」


 マノンが尋ねる。やはり、前を向いたまま。


「もう間に合わないし」


 シモンには申し訳ないけれど、とてもそんな気分にはなれなかった。平気な振りをしていたけれど、内心はマノンの家出に激しく動揺していた。もし、彼女が二度と帰ってこなかったらーー。それを考えると、頭がどうにかなりそうだった。


「ごめんね」


 マノンがポツリと言う。


「何が?」


「プロム、行けなくさせて」


「別にいいよ。元々乗り気じゃなかったし」


「でも、卒業パーティーは一生に一度でしょ?」


「そうだけど……」


 あなたの方が大事だから。その台詞を飲み込んだのは、何故だったか。照れ臭かったからか、それとも怖かったからか。


「もうね、嫌になるよ」


 マノンが乾いた笑い声とともに言う。私はただ、その声に耳を澄ませる。


「子どもの頃、パパはゴブリンよりも怖かった。今だってそう。何であの人の子どもに生まれたんだろうって、いつも考える。他の友だちは、誰も彼も幸せそうに見えて……。何で私だけ? って」


「うん……」


「寝る前は、ずっと夢から覚めなければ良いって思う。朝起きると、また同じ1日が始まることに絶望する。その繰り返し。心が休まるのはモデルの仕事をしている時と、あなたの側にいるときだけ」


 一体どう答えれば、目の前の憐れな少女を救うことができるのか。どんな言葉が正解なのか。だが何を言ったところで、彼女を取り巻く現実は変わらないのだ。全ての励ましが気休めでしかないことは、きっと彼女が一番分かっている。


「担任の先生に家のことを相談した時、こう言われたの。『今は不幸だと思っていても、あなたもいずれ誰か良い人と出会って、幸せな家庭を築くことができる』って。だけど、今の私にそんなの想像できるかって。馬鹿げてると思わない? そんな未来のことよりも、今をやりすごすので精一杯だよ」


「私じゃできない?」


 マノンの目が私を見る。孤独なうさぎのような目ーー。泣き腫らしたのか、瞼の下には赤い跡が残る。


「私じゃあなたを、幸せにはできない?」


 何故こんな言葉が出てしまったのだろう。これを言うことで、彼女をまた苦しめるかもしれないことを分かっているくせに。


「……無理だよ」


 マノンの震える声が言う。


「無理じゃなかったとしたら?」


「レア……私たちは女の子同士でしょ? それに、血が繋がってるんだよ? 結婚なんてできないよ」


「できるよ」


「物理的にはできたとしても、現実的には無理だよ」


 5歳の時の押し問答と同じだ。できる、できない、できる。バーナテッドがやったみたいに花占いで決められたらいいけれど、そんな簡単な問題じゃない。


 口を開きかけたとき、レモングラスから滴り落ちる朝露のように、マノンの唇から言葉が漏れた。


「やめよう」


「やめるって、何を?」


 マノンの大きなヘーゼルの目から、涙が一筋流れる。


「もうやめよう、こんなことを話すのは」


「分かった」


 いたたまれなくなり短く答えた後で踵を返した私の腕を、マノンは掴んだ。


「待って、レア」


「……待たない」


「レア!!」


 マノンが背後から、私を抱きしめる。立ち尽くした私に、マノンが言った。


「……ここにいて」


 その後私たちは、しばらく展望台のベンチの上で何も話さずに肩を並べていた。あの台詞の後で、ここにいてと言うなんて反則じゃないか。私の気持ちには応えられない、だけど側にいて欲しい。こんな都合のいい話はない。だけど、許してしまうのはきっと、相手が彼女だから。


「あなたのママは、離婚を考えたりしないの?」


 不意に切り出した質問に、マノンが小さく頷く。


「別れたいとは何度も言ってる。でも離婚を切り出すたびに、パパが弁護士の知り合いがいるからってママを脅すの」


「最低」


「パパはそんなところだけ、変に頭がいいの」


「頭は良くても、ホンマもんの馬鹿っているわよ」


「そうだね……」


「一緒に逃げる?」


 マノンの開かれた目が、私を見る。しばし逡巡したのち、首を振る。


「ママを一人にしておけない」


「だけど、あなたの人生はどうなるの? このまんまじゃ、あのオヤジのせいであなたの一生は台無しになる」


「そんなこと言われたって……分かんないよ……」


マノンの瞳から、また涙が溢れ出す。手で顔を覆い、泣きじゃくる従妹を見ているしかない私。悔しいのは、苦しいのは、私よりもマノンのほうだ。そんなことは1+1=2の足し算より簡単に分かる。だけど、やっぱり悔しい。苦しい。彼女が傷ついているのを見ると、まるで身体の一部が持っていかれたような痛みを覚える。代わってあげれるものなら代わってやりたいのだ、私だって。


 マノンの髪を撫でる。少し癖っ毛の、柔らかい髪。マノンは自分の髪の色が嫌いだと言うけれど、私はかっこいいと思う。マノンは私の髪が欲しいと言うけれど、よくあるブロンドよりも、彼女の髪の方が絶対に良い。


 マノンが甘えるように肩に寄りかかってくる。全て受け入れるように、彼女の髪を撫で続ける。こうしているとよく思う。私たちには、お互いしかいないんだと。


「帰ったら、パパにまた怒られるんだろうな」


「私があなたを誘ったことにする」


「そんなことしたら、レアが怒られちゃうよ」


「いいわよ、別に。怖くなんてないし」


 彼女が父親に怒鳴られているのを見るより、ずっといい。私が怒られて済むのなら、身代わりにでも何にでもなろう。


「駄目だよ。レアが怒られるのは見たくない」


「私だって、あなたが怒られるのは見たくない」


 ちょうど同じタイミングで、視線が合う。私たちは考えていることが同じだ。同じことで同じように傷ついて、同じ痛みを共有している。まるで、分身か何かのように。


「帰ろっか」


 マノンがつぶやく。ライトアップされたエッフェル塔が、遠くから私たちを真っ直ぐに見つめている。


 その日、マノンの父は泥酔状態で帰ってきて、幸いにもマノンが怒られることはなかった。



♦︎



 ♦︎


「毛布かけてくれたのって、レア?」


 昼過ぎにようやく起きてきたマノンが、ルネたちが作りすぎたパンケーキを食べている私に向かって尋ねた。


「うん。あなた、下着姿で寝てるんだもん。もうやめなさいよ、風邪引くから」


 またマノンの下着姿が脳裏に蘇り、慌てて振り払う。当のマノンはやっちゃった、テヘペロとでもいうかのような笑みを浮かべている。


「ごめんごめん。昨日イダたちと飲んで酔って帰ってきて、着替えてる途中で寝ちゃったみたい」


 頬を赤らめ恥ずかしそうに笑うマノンを、可愛いと思ってしまう私もどうかしている。


 マノンはキッチンの調理台の上、皿に堆く積み上げられたパンケーキを目を丸くして見つめている。


「アレって...」


「ルネとイダが作ったの」


 パンケーキタワーの作り手であるルネとイダと、巻き込まれた形となったコレットは、写真を撮ったあと隣町にショッピングに出かけた。 


「ふふ、相変わらず面白いことしてるね」


 マノンはタワーを倒してしまうからとパンケーキには手をつけず、食パンを一枚ポップアップトースターに入れた。   


 マノンの表情は、ウィーンに来たばかりの頃より随分と明るくなった。当初は目も虚ろで、表情にも声にも覇気がなく、見ているのも辛くなるほどだった。一日中部屋にこもっていることもあった。それに比べると、随分と状態が良くなった。


 向かい合って食事をしていると、マノンが不意に言った。


「来月には、パリに戻ろうかなって」


「そう‥‥‥」


 彼女の精神状態が回復したことは嬉しいけれど、家からいなくなるのは寂しい。だが、性格上弱音を吐くのが苦手な私は、従妹の前でこのどうしようもない寂しさを素直に表現することができない。

 

「寂しい?」


 マノンが悪戯っぽく笑いながら尋ねるものだから、頷かざるを得なくなる。


「そりゃあね」


 ここにいて。


 あの時の彼女みたいに言えたら、どんなにかいいだろう。だが、彼女には彼女の帰るべき場所がある。やるべきことがある。その邪魔をするわけにはいかない。


「私も嫌だな、あなたと離れるのは」


 マノンの指が、四角いトーストの耳を千切る。


「だけど、良かったじゃない? メンタルのほうが回復して」


「うん‥‥‥」


 マノンの精神状態が回復したことは、素直に嬉しい。だが、約束しなくても彼女と毎日顔を合わせられていた日々がなくなると思うと、無性に侘しい。


「何だか、レアにはいつも助けてもらってばかりだよね」


「そんなことない」


 私の生きるエネルギーは彼女なのだ。昔から、彼女に見られていると思うとダンスも俄然頑張れた。彼女のために強くいようと思える。現に、今だって。マノンが笑っていると、それだけで幸せになる。満ち足りた気持ちになる。救われているのは、むしろ私のほうだ。


「レアってあんまり弱音とか吐かないから、心配になるよ。たまには頼ってよね?」


 こんな彼女の言葉一つ一つに私の心が癒されているだなんて、きっと彼女は知らないだろう。


「心配しなくて良いわ。私はあなたがいるだけで‥‥‥」


ーー幸せなのだから。


「いるだけで、何?」


「その‥‥‥元気になるっていうか。レッドブル的な?」


「何それ」


 マノンが小さく吹き出す。


「昔からあなたに見られてると思うと、ダンスも調子出るのよ」


「じゃあ、私もレアの役に立ってるんだね」


 この愛嬌のある笑顔も、女性らしい高めの透き通った声も、口調も、ちょっとした仕草もーー。全てが私の心を捕らえて、かき乱して、彼女なしではいられなくするのだ。


 今更だが、マノンは可愛さの塊だ。メイクをしてランウェイを歩いている時の彼女は、クールビューティーという言葉がぴったりな、凛とした美しさを携えている。だが、普段の彼女はというと、綺麗というよりかは可愛いと表現した方がいい顔立ちをしている。くりっと丸い二重瞼と、僅かに口角の上がった口元、桃色の薄い唇。顔だけ見たら、まるで小動物のようだ。ちょうど、ウサギやリスのような。可愛いだなんて、本人の前では恥ずかしくて言えないが。

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