第18話 人殺しじゃないけど香水作ってみた

 それは、中学3年の時のことだった。私たちは社会科研修の一環で、グラースにある香水工場の見学に行くことになった。そこでは工場を見学した後、香水づくりが体験できた。


 行く前に、私はマノンから、作った香水をくれるようにとねだられていた。


「良いわよ。最高に良い匂いのを作ってきてあげる」


 私は喜んで答えた。


「グルヌイユよりも?」


 マノンは悪戯っぽく笑いながら尋ねた。


 グルヌイユというのは、パトリック・ジュースキントという作家の『香水』という小説に出てくる殺人鬼だ。生まれつき異常なまでに嗅覚に優れていた彼は、世界一良い匂いの香水を作り出すために、大量の女性を誘拐して殺し、香りの原料として使う。


「グルヌイユも真っ青のやつを作ってあげる」


 相当の数の罪を犯さない限りそんなことは不可能だと知りながら、大口を叩いた私に向かってマノンは、


「楽しみにしてるね」


 とはにかんだような笑顔を見せた。


 当日、工場見学の後、お待ちかねの香水作りの時間がやってきた。


 やるからには真剣にやりたい私は、調香師の人に教わったことをもとに、慎重すぎるくらいに時間をかけて香りを選んで、混ぜ合わせていった。幼い頃から、何かに集中すると周りが見えなくなるとよく言われたが、完全にそのモードに入っていた。頭に常に浮かんでいたのは、マノンのことだった。彼女のイメージに合う香りをーー。それだけを考えていた。


 香水は、満足のいく出来栄えだった。彼女が喜んでくれるだろうか。帰りのバスの中で、そればかり考えた。


 グルヌイユが生まれた当時、パリの街は悪臭に満たされていた。そんな過去がなければ、香水というものはこの世に存在しなかったかもしれない。不便な世の中を何とかしようとして発明が生まれるのと、そっくり同じ原理だ。


 この香水は、グルヌイユが作ったものに比べたら大したものではないかもしれない。グルヌイユに自慢できる部分があるとしたら、誰一人として殺すことなく、ただ一人に向けて作ったということ。


 次の日、私はマノンに出来た香水を届けるために、2年の教室に向かった。だが、そこでショッキングな光景を目にした。教室の前で、クラスメイトのロンドとマノンが話していた。甘いマスクで誰にでも優しく成績優秀のロンドは、校内の女子たちに人気があった。彼は照れた様子で笑いながら、マノンに香水を手渡していた。


 胸が、見えない手に捻り潰されるような苦痛を覚えた。


 愛らしい見た目で誰にでも優しいマノンは、私のクラスの男子たちからも人気があった。マノンの連絡先を教えてくれないかと尋ねてくる者も、1人や2人でなくいた。そのたびに私は『彼女はモデルの仕事が忙しくて、恋愛どころじゃないらしい』と、それらしいことを言って、彼らが彼女への思いを諦めるように仕向けようとした。それでもしつこく連絡先を聞き出そうとする者には、『マノンはしつこい男は嫌いだよ』と言ってあしらった。


 だけど、どれだけガードしようとしたって、マノンを想う男たちの手は伸ばされるのだ。


 結局私はその日、マノンに香水を渡さなかった。



 数日後、家に遊びに来たマノンが、部屋の本棚の上にあった例の香水を嗅いで、「すごく良い匂い」と呟いた。


「ロンドにもらったんでしょ?」


 やや責めるような口調になってしまった。マノンは、傷ついたような表情で私を見た。ただでさえ、彼女は誰かの気持ちの変化に対してもの凄く敏感だ。


「もらってない」


 マノンは言った。悲しそうな顔をしていた。


「嘘。昨日もらってたじゃない、廊下で‥‥‥」


「返したの」


「どうして?」


「どうしても」


 マノンは俯いた。彼女はよくこんな風に、肝心な言葉をぼかす。


「もらえばよかったじゃない」


「……欲しくないもん」


「何でよ。ロンドってイケメンだし、あなたとお似合いじゃない?」


 言葉に反して、口調が拗ねたものになっていることは自認していた。まるで、子どもと同じだ。いや、子どもならもっと素直になれるのかもしれない。幼い頃、あの教会の裏の木の下でキスをした時のように。


「……くれるって言ったのに」


 マノンは言った。その直後に一言、


「嘘つき」


 とも。


 彼女は部屋を出て行った。


 傷ついた顔のまま帰すことが嫌だった。何よりも、くだらない意地を張ったせいで、このまま渡せずに後悔することが嫌だった。


 本棚の上の香水を手に取った。彼女を追いかけた。家の庭先で呼び止めて、名前を呼んだ。


「これ……」


 持っていた香水を差し出した。


 振り向いたマノンは、潤んだ瞳のままで笑った。



♦︎



 ガラスの瓶に入った、香水の香りを吸い込む。あの時のまま、何も変わっていない。私たちの関係だって、過去の思い出だってそうだ。この香水の香りのように、いつまでも色褪せないでいるんだろう。


「……ア……」


 微かな声に、振り返る。もう一度側に寄り添って、マノンの顔を見つめる。眠っているマノンの唇が動く。その表情は、どこか苦しげだ。息を止め、耳を澄ます。その声を聞き漏らさないように。


「……に……て……」


「どうしたの? マノン」


 閉じられた瞼から、一筋の涙がこぼれ落ちる。


 もうやめてほしい。これ以上、心を締め付けないでほしい。


 桃色の唇が、ゆっくりと開く。


「ここに……いて」

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