第16話 あの日

 コレットの話によると、昨日、珍しくバーで酔っ払ったマノンは、こんなことを打ち明けたらしい。


 マノンが11歳、私が12歳の夏、私たちはお互いの家族でメロウにある私の父の別荘に行った。あの時のことは、よく覚えている。今でも夢に見るくらいに強烈な思い出として。


 その日、両親たちには湖で遊ぶなと言われていたにも関わらず、マノンと私は湖で泳いで遊んでいた。途中、私は誤って、赤い薔薇のコサージュのついたピンを湖に落としてしまったことに気づいた。それはマノンが3年前の誕生日にくれ、ずっと大切にしていたものだった。ピンを探そうと深く潜ったときに足を攣ってしまい、溺れてしまった。手脚を動かして、必死にもがいた。口に入り込む、泥臭い水。


「レア!!」


 遠くから、マノンの叫び声が聴こえる。


「誰か助けて!! パパ!! 叔父さん!!」


 マノンの悲鳴にも似た叫びが、辺りにこだまする。意に反して、淡水に沈んでいく身体。深緑色の水中でもがきながら、次第に苦しくなる呼吸。鼻や口に、否応なく侵入してくる水。ああ、私は死ぬのか。意識が薄れていく。


 マノンの話だと、その後シャチもびっくりなくらいのスピードで泳いできた父が、沈んでいた私の身体を救い出し、陸まで連れて行ったらしい。人工呼吸をされ目を覚ましたあと、すごい量の水を吐いたのを覚えている。


 バーで酔ったマノンは、あの時のことをコレットたちに打ち明けたあとで、こんなことを言ったという。


「あの時レアがいなくなるんじゃないかって思って、すごく怖かった。今でも時々思い出して、すごく怖くなるの。時々、こんなことを思ったりする。レアは本当はあの日湖で死んでて、私の目の前にいるのは幽霊のレアなんじゃないかって。だけど、幽霊でも良いの。彼女の側にいられれば、それで」


 「馬鹿ね、幽霊なわけないじゃない」


 もし幽霊だったらコレットたちに私の姿は見えていないはずだし、マノンに触れることなんかできないだろう。心の中でそんなツッコミを入れながら、そんな台詞を言うなんていかにもマノンらしいな、と思ったりもする。

 

 同時に、舞い上がってもいた。私の側にいられればいいなんて、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。普段そんなこと絶対言わないくせに、酔った時だけ素直になるなんて。


 一昨日の夜にあったことを思い出して先ほどまで自責の念に駆られていたのに、コレットから聞いたオフレコ話でこんなにテンションが上がる私は、ゾウリムシも真っ青になるくらいの単細胞生物かもしれない。


「コレットは、アイスの蓋の裏に誰の名前書いたの?」


 あの時、マノンの涙によって私の考案したゲームはやむなく中断となったのだが、友人たちがそれぞれ誰の名前を書いたのか気になっていた。


「あなたの名前よ」


 コレットはいともあっさりと答えた後で、脚立を使って、頭上の木製のキッチンキャビネットに手を伸ばして開け、黄色いコーンフレークの箱を手に取る。


「本当に?」


「うん。別に好きとかじゃないけど、この中で誰が一番タイプかって聞かれたらあなたかなって」


「へー、意外。あなたのタイプが私だなんて」


「あくまでも、この4人の中での話」


 コレットは今、同じ大学のヴァイオリン奏者のアジア系の女の子にアプローチを受けているようだ。同時期に、よくバーで一緒にライブをしているトロンボーン奏者の女の子からもラブレターを貰ったらしい。マスコットのような可愛いらしさを持つ彼女を巡る女たちの戦いの火蓋は、知らないところで下ろされていたりするのかもしれない。


 そうしているうちにルネとイダがやってきて、50段重ねのパンケーキを作ると言い出した。そんなトーテムポールみたいなパンケーキタワーを作って、一体どうするというのか。


 やる気満々の彼女たちを、誰も止めることなどできない。二人は我が家の台所を占領し、昨日予め買ってきておいたらしい材料を持ってきて、パンケーキ作りを始めた。


「そんなに作ってどうするわけ? 食べきれなくない?」


 呆れた表情のコレットが、小麦粉を大きなボウルに入れる二人に向かって尋ねている。彼女はいつも、二人のストッパーの役割を果たしている。


「近所にお裾分けすれば良いわ」


 ルネが言った。珍しくもないパンケーキのお裾分けをされたところで、近隣住民が大喜びするとは思えない。


 もう一度、マノンの様子を見るために二階に向かう。一昨日、ゲームの途中にマノンが突然泣き出したのには驚いた。昔から、彼女に泣かれるのにはめっぽう弱い。あの時の涙の理由が何だったのか、はっきりとは分からない。唯一分かるのは、あのゲームを考案したのが間違いだったということ。


 あのゲームをやろうと言い出したのは、単純な下心からだった。可能性としては五分五分ではあったが、もしマノンが私の名前を書いてくれたら、彼女と念願のデートができるかもしれない。そもそもデートがしたければストレートに伝えればいい話なのだが、従姉妹同士というお互いの立場や、断られるリスクを考えると、どうしても誘う勇気が出なかったのだ。ゲームという嫌らしくなく、かつ強制力を伴う手段を使えば、彼女とデートをし、思いを伝えられるチャンスが訪れるかもしれない。そんな淡い期待があった。


 結局、シャーベットを食べる短い時間の間で閃いた企みは、無残な結末を迎えてしまった。


 マノンを泣かせるつもりなど、全く無かった。できることなら泣いて欲しくないのだ。彼女はSpice Girlsのジェリの脱退を思い出したと言い訳をしていたけれど、あれを本気で信じる人間は絶対にいない。いたとしたら、かなりの大馬鹿者か、ジェリの熱狂的なファンかのどちらかだ。


 少し前、マノンと一緒にSpice Girlsなら誰が好きかという話をしたのを覚えている。ちなみに私は、エマ・バントンが好きだ。ベイビー・スパイスと呼ばれる彼女のプラチナブロンドの長い髪と、親しみやすい笑顔がとてもキュートで、憧れていたのだ。


 自室のドアを開ける。マノンはまだ眠っている。音を立てないように近づいてベッドの前に膝を突き、あどけない顔で眠る従妹の髪をそっと撫でる。一瞬、先ほど目にしたブランケットの下にある肢体を思い浮かべそうになり、慌てて首を振る。これでは、思春期の男子と全く同じではないか。


 マノンがバーで言っていたという言葉に意識を向ける。もし、彼女が私と同じ気持ちでいたとしたらーー。あの時の涙の理由は、何となく理解できる気がした。


 これまで、幾度となく考えた。自分が女じゃなかったら。彼女と従姉妹じゃなかったら。私がレア・パスカルという人間じゃなくて、全く違う星の元に生まれた別人だったとしたらーー。一人の人間として、彼女を幸福にする権利があったのだろうか。


 そんなことを考えていた時、不意に、幼い頃の苦い記憶が蘇った。

 

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