第11話 悪夢
ーー夢を見た。
高校3年のときの夢。この日、私は幼い頃から続けていたモデルの仕事に出かけるため、早起きをしていた。
卵とウィンナーとパンケーキの朝食をとっている私の傍で、父は無表情で新聞を読んでいた。こんな父の隣にいると、体が硬直して、食べているものの味も分からなくなる。
キッチンでは、母が使い終わった鍋を洗っている。
父は新聞を閉じ、乱暴にテーブルの上に置いた。ご飯を食べている私の方をジロリと見る父のその顔は、燃え盛る青い炎に心がさらされているように、ぞっとするほど冷たい怒りに満ちている。
「マノン、お前はその仕事をいつまで続けられると思ってる?」
父が尋ねる。また始まった。の仕事をしていることを、父はよく思っていない。
「歳を取っても続けたいと思ってる」
そう答えた私を、父は鼻で笑った。
「今はまだ若いからいい。だが、そのうち誰もお前に見向きもしなくなる。他の若い美しい女たちが出てくれば、世間の興味はそっちに向く。老いぼれたお前など、もってのほかだ。今のうちから、別の選択肢を考えておくんだな」
「あなた、いい加減にして」
母がやってきて、父を制止する。父はその冷酷な目で母を睨み付ける。
「俺に文句があるのか?」
「ええ」
母は、自分が父に暴言を吐かれても何も言わずに黙っている。だが、父が私にキツく当たるときは、いつもこんな風に庇ってくれた。
「マノンはこの仕事を楽しんでやってるわ。女性の美しさというのは、年齢では決まらない。あなたには、一生分からないでしょうけれど」
「黙れ!!」
父の拳が、テーブルに打ちつけられる。コップと皿が飛び上がる、ガチャンと言う音を立てる。
「俺はマノンのためを思って言っているというのに、お前はいつもそれを台無しにしやがる。一体何様のつもりだ? 家事も掃除も何もできない、ろくでなしのくせに」
もうやめて欲しい。これ以上見たくないし聞きたくない。母が詰られているのも、耐えている姿を見るのも、父の怒鳴り声も。
心が悲鳴をあげている。息が苦しい。誰か助けて。誰も助けてはくれない。
父が乱暴な音を立てて椅子から立ち上がる。母に向かって、大声で何かを捲し立てている。呼吸が浅くなる。まるで、酸素ボンベなしで宇宙に放り込まれたみたいだ。
「やめ……て、パパ……」
胸を抑える。呼吸がどんどん荒くなる。いっそこのまま死んでしまいたい。こんな人生なんていらない。椅子から降りた私の身体は、床に跪く。
「マノン!!」
母が駆け寄ってくる。視界が闇で覆い尽くされる。
「マノン!!」
レアが私を呼ぶ声がする。目を開ける。
呼吸が苦しい。半身を起こして、深呼吸をしようとする。一度、二度、三度。
レアが私を抱きしめる。その手がそっと、髪を撫でる。
「うなされてたわ」
窓の外から、薄明るい光が差し込んでいる。うなされることなんて、しょっちゅうだ。いつもは一人でやり過ごす。だけど、今日は隣にレアがいる。
「今、飲み物持ってくるから待ってて」
私を安心させるように絹のような柔らかい声を出して、ベッドから出ていくレア。本当は行ってほしくない。側にいて欲しい。だけど、そんなこと言えるわけがない。
呼吸を整える。夢のことを思い出すと、息苦しさが再燃しそうになる。幼い頃から、父が母に罵倒される光景ばかり見てきた。父の理不尽な怒りは、娘である私に向けられることもしばしばだった。父は、私と母のやることなすことを尽く貶した。自分が常に絶対的な存在で、正しいことを言っているのは他ならぬ自分なのだということを、常に私たちに知らしめようとしていた。父にとって、私たちはいつも間違ったことをしているしょうもない存在。自分の思い通りに動かして然るべき駒。
父と離れてからも、母は頻繁にセラピーに通っていた。また、『モラハラ被害者の会』というので知り合った仲間たちと、定期的に会って食事をしたり飲んだりしているらしい。段々と母は、自分の人生を取り戻している。母をパリに一人置いてくるのは、心苦しかった。だが、ウィーンに行くことをためらっている私に、母はこう声をかけた。
「あなたは小さな頃から私を心配して、一人にしないようにと気を遣って側にいてくれた。もう無理しなくていいのよ。お父さんはいないし、私たちは二人とも新しい道を歩き出してる。あなたはきっと、頑張り過ぎたの。それが今出てきているだけ。私のことはいいから、自分の心を労わることを優先しなさい」
私は母が大切だった。だが、同じように母も私を大切に思ってくれていた。母に甘えることをこれまでほとんどしてこなかったのは、ただでさえ大変な思いをしている母の手を煩わせたくなかったから。
レアが、湯気の立ち上るマグカップを持ってやってくる。受け取った熱いカップを手に持って、そっと口をつける。ミルクのまろやさかと蜂蜜の甘みが、しこりのように固まった心を溶かしていくようだ。
「美味しい……。ありがとう、レア」
私が笑うと、レアも安心したように笑う。
自分に対してストイックな彼女は、人に対しても同じように厳しくて、イベントで一緒になるスタッフの人たちに対しても、事細かに、時に厳しく指示を出すらしい。これは、レアのダンサー仲間がこの家に夕食に来た時に、冗談めかして言っていたことだ。
そんな彼女が家ではこんなに優しい顔で笑っているなんて、スタッフの人たちはきっと想像できないだろう。
「眠れそう?」
ベッドの元の位置に戻ってきたレアが尋ねる。
「うん、これ飲んだらすぐ眠れそうだよ」
今日はコレットたちとプランクザールにある図書館に行ったあと、歌劇場でオペラを観る予定だ。だから、少しでも寝ておかないと。
肩を並べていたレアの手が、ぽんぽんと私の頭を軽く撫でる。レアは、私が落ち込んだり泣いたりしていると、いつもこうやって慰めてくれる。
躊躇いながらも、レアの肩に身体をもたれさせてみる。レアは何も言わず、私の頭をそっと抱き寄せた。
「レア、男だったら絶対にモテてたよね」
そう言うとレアは、「何それ」と笑う。
レアが男だったら、絶対ハンサムだっただろうな。身長は多分180センチくらいで、ブロンドで青い目は変わらなくて、短髪で、私の前ではやたらと優しいジェントルマンだったりして。だけどもしレアが男だったら、こんな風に一緒に寝たり、打ち明け話をすることなんてできなかっただろうな。そんなことを考えていたとき、ふと、レアが怪訝そうな視線を向けていることに気づく。
「何ニヤニヤしてるの?」
「もしレアが男の人だったら、すごいかっこよかっただろうなって考えてたの」
「男だったら、かぁ...」
レアは遠くを見るような目をする。時々、レアはこんな顔をする。傷つけるようなことを言ってしまったかもしれない。そう思って、すかさずフォローを入れる。
「だけど、あなたがもし男だったら、こんな風に一緒にいることも、色んなこと相談し合うこともできなかったと思う。あなたが女で、私の従姉で本当に良かった」
物憂げだったレアの顔に笑顔が戻る。私の肩に手をかけて、「私たちは世界一仲の良い従姉妹よね」なんて言う。
もう、レアが男だったらなんて考えるのはよそう。女性のレアだからこそ魅力的なんだし、遠慮しないで胸の内を打ち明けられる。私は彼女との今の関係が心地よくて、好きなのだから。
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