第9話 ペンギンとサメ

 レアと私は、叔父さん夫婦と母とともに、自宅から車で2時間ほどのところにある水族館に行った。父はこの日、仕事があるからといって不参加だった。


 私はピンクの、レアはネイビーのペンギンのリュックを背負って、手を繋いで館内を歩いた。途中、大人たちとはぐれてしまって、順路を逆方向に進んでいたら、一人の若い男の人が私たちに声をかけた。


「ジュースを買ってあげるよ」


 青年は、私たちにそう言って微笑みかけた。私はこの人が、凄く怖い人に思えた。それはほとんど直感だった。表面上は優しそうな顔をしているけれど、父と同じように、感情の糸が切れた時に何をするか分からないような、得体の知れない怖さがあるような気がした。 


 レアは、何の疑いもなくその青年について行こうとした。青年は立ち止まっている私には目もくれずに、隣にいたレアの右手をとって歩き出し、自動販売機のある方ではなく、トイレのある方に連れて行こうとした。


 私は駆け出して、青年がレアを連れてトイレに入る直前で、レアのペンギンのリュックを両手で引っ張った。


「行っちゃダメ!!」


 私は生まれてからこれまでで一番大きな声で叫んだ。レアが、目を丸くして私を見た。


「ダメだよ、レア!! 私と一緒に行こう!! ママたちを探さないと!!」


 レアを行かせたらいけない。きっと、取り返しのつかないことになる。そんな気がして、必死に叫んだ。騒ぎを聞きつけた警備員が駆け寄ってきて、青年を事務所に連れて行った。母とクラウド叔父さんとべサニー叔母さんが走ってきて、私とレアのことを抱きしめた。


 その後、レアは叔母さんに、知らない人にはついて行ってはダメだとこっぴどく叱られていた。レアを助けた私を、大人たち3人は口々に褒めた。


 その後、私たちは外のプールでイルカのショーを観た後で、二人並んで記念撮影をしたのだった。



♦︎


「あの時、マノンが助けてくれなかったら、大変なことになってたよね」


 ジンベエザメの泳ぐ水槽の前で手を繋ぐ幼い私たちの写真を見つめながら、神妙な表情を浮かべるレア。あの時、まるで彼女が鏡の裏の影の世界に飲み込まれてしまいそうな得体の知れない恐怖を感じて、どうにかしてこの世界に止まらせようと、必死にレアのリュックを引っ張ったのだった。レアはあの後、私になんて言ったんだっけ。覚えているのは、2人でイルカのショーに大きな歓声を上げたことと、飼育員の人の見ている前で、プールから顔を出すイルカに小魚を食べさせたこと。


「レアってば、いつもはしっかりしてるくせに、変なところで無防備なんだもん。気をつけないとダメだよ」


 子どもだったから仕方ないといえば仕方ないけど、レアは私ほど周りの大人に対して、疑いというものを持っていなかったのかもしれない。だから、あの男の人のジュースを買ってあげるという言葉を、純粋な優しさだと受け取ったんだろう。


「あの時は子どもだったから‥‥‥。でもまぁ、確かに無警戒ではあったよね」


 レアが言う。確か当時、パリでは誘拐事件が相次いでいて、学校の先生たちは口々に「知らない人には絶対についていかないように」と私たち生徒に忠告していた。


「今もたまに思うの。ちゃんと見てなきゃなって。大人になったあなたが、変な人に捕まらないように」


 一つ下の従妹にそんな心配をされていることを知ったレアは、少しだけ不満げな顔をして、手に持ったアルバムを閉じた。


「マノンに心配されなくたって平気よ」


「だけど、分からないよ? 綺麗なあなたを狙ってる、無数のハイエナたちがいるはずだから」


 私が両手の指を鉤爪のように曲げて、「ガオー」と鳴いて見せると、


「それ、ハイエナじゃなくてライオンだから」


 とレアは笑った。

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