第8話 消しゴムのまじない

 ある日、レアと私はダンスの練習が終わったあと、アイスクリームを食べに向かった。私が9歳、レアが10歳の夏の日のことだった。赤い煉瓦造りの店の前には、向日葵が2本植えられていた。私たちは窓際のテーブルで、熊の顔の形をしたボウルに盛り付けられたカラフルなアイスクリームを二人でつつき合って食べた。


 私は、レアの好物であるミントのアイスクリームが苦手だ。


「よくそんな美味しくないの食べれるね」


 と言うと、レアは口を尖らせた。


「私にとっては美味しいの」


「ふーん。ねぇ、レアは好きな人いるの?」


「……いるよ」


 レアは熊の右耳のところに盛り付けられた、チョコチップの埋め込まれたミントのアイスクリームをスプーンで掬って口に運ぶ。


「誰?」


「教えない」


「教えてよ」


「やだよ」


 レアは意地悪な顔をしたあとで、緑色の舌をぺろりと出した。私は口を尖らせた。


 アイスを食べ終わって店から出たあとも、この押し問答は続いた。


「教えてよ」


「やーだよ!」


 レアは私の前を歩きながら、両手を後ろに回して歌うように答える。


「教えてくんなきゃ、レアの好きな人はヨハンだってみんなに言うよ」


 ヨハンというのは、レアのクラスにいる大柄の意地悪なガキ大将のことだ。本気でそんな噂を流すつもりなんかなかった。ただ、レアの反応を見たかっただけで。


「ちょっと!! 絶対にやめてよ!!」


 レアが本気で怒った顔をする。


「嘘だよ」


「マノンの意地悪」


 レアは頬を膨らませ、早足で歩いて行ってしまった。レアの好きな人がどうしても気になる。だけどあの感じだと、絶対に教えてくれないだろう。


 結局、レアの好きな人は分からずじまいだった。レアのクラスの友達に聞いてみたけれど、誰もみんな分からないと首を傾げるばかりだった。レアは時々、やたらと秘密主義なのだ。


 ある日、家に消しゴムを忘れて、レアに貸してもらった。当時、消しゴムに好きな人の名前を書くと両思いになれるというジンクスが友達の間で広まっていた。もしかしたら、レアも誰かの名前を書いていたりして。そう思って授業中、借りた消しゴムのカバーをこっそり外してみた。だが、期待していた成果は得られなかった。そこにはただピンクのラメ入りのペンで、可愛いらしい猫の絵が描いてあるだけだった。


 なんだ、つまらない。心の中でつぶやいて、消しゴムを裏返しにした時だった。


「!」


 私は固まった。その直後、国語のグレガー先生が私の名前を呼んだ。反射的に立ち上がり、話を聞いていなかった旨を打ち明けると、先生はため息をついた。ちらほらと上がる、笑い声。グラウンドからは、体育をしている他のクラスの子どもたちの声が聞こえる。


 ひとしきり先生に説教を受けた後で席に着き、もう一度消しゴムに書いてある名前を見る。


"Manon"


 黒いマジックで、確かに私の名前が書いてあった。


 その日の放課後、私は何事もなかったみたいな顔でレアの教室に行って、消しゴムを返した。だが、その夜、レアから家に電話が来た。母に呼ばれて一階に向かい、リビングにある電話機を受け取る。


「もしもし?」


『マノン……消しゴムのカバーの中、見た?』


 レアの狼狽したような声が耳に流れ込んでくる。おそらく彼女は家に帰ってから、消しゴムに私の名前が書いてあったことを思い出して、慌てて電話をかけてきたのだろう。


「見てない」


 咄嗟に嘘をつく。本当は、バッチリ見た。凄くびっくりしたし、お陰でその後の授業が全然頭に入ってこなかったけど、そんなことを言えるはずがなかった。


『本当に?』


「うん」


『本当にほんと?』


「うん、本当に見てないよ」


『あぁ、良かった』


 レアは大きく安堵したようにため息をついて、じゃあまたね、と一方的に電話を切った。


 レアの好きな人が私だなんて、信じられなかった。だけど、嫌じゃなかった。むしろ嬉しかった。まるで学校の帰りに友達と一緒にアカツメクサの花の蜜を吸った時みたいに、甘い気持ちになった。それがどうしてか、この時の私には分からなかったけれど。



♦︎


 ︎


「あの時さ、消しゴムのカバーの中、見たんだよ」


 冗談めかして打ち明けた私を、レアが目を丸くして見つめる。


「あの時って……」


「レアが5年の時。消しゴムに私の名前が書いてあったの、本当は見ちゃったんだ」


 レアの顔が、少しだけ紅潮する。その後大きな笑い声が響いて、釣られて笑ってしまう。


「やっぱり、見られてたんだ!!」


「ビックリしたよ、まさか私の名前が書いてあるなんて……」


「そりゃあそうだよね……。まさか、従妹のあなたの名前が書いてあるなんて思わないよね」


「だけど、嬉しかったよ」


 レアが驚いたようにこちらを見た。私はレアに笑いかけた。


「何だろうなぁ……。レアってさ、他の人にはそうでもないのに、私には凄く優しかったの。あと、パパに怒られてる時、いつも守ってくれた。あなたは私にとって、ヒーローみたいなものだったんだよ」


 当時フランスでは、『ストロング・ガール』というスーパーマンのオマージュのようなドラマが流行っていた。私にとって、レアはストロング・ガールだった。必要としている時に来てくれて、何があっても私を守ってくれる。


 幼い頃の彼女はやんちゃで、クラスの男子と喧嘩をして泣かせたり、雲梯の上を歩いたり、新聞紙を細く丸めて剣を作って、男子たちと戦いごっこをしたりしていた。気が強くて負けず嫌いの彼女は、クラスのリーダー格の女子や男子にも怯むことなくかかっていって、高学年の時は孤立していたこともあった。


 だが、唯一私にだけは優しかった。悪戯っ子でやんちゃなのに変わりはないけれど、私が泣いていれば泣き止むまで側にいてくれて、誰かにいじめられていれば守ってくれた。こんなこと本人には絶対に言えない。だけど、私は多分当時、そんなレアのことがーー。


「あなたって、何か放っておけないのよ。繊細で、今にも消えちゃいそうで」


 レアがベッドの上に置かれたライオンのぬいぐるみを手に取る。これは、確か私が小学生の時にレアの誕生日にあげたものだ。背中にチャックがついていて、その中にバースデーカードを入れたんだった。


「私、そんなに弱くないよ」


 強がって見せながら、レアに守ってもらえるような存在でありたいと願っている自分もいる。自分の脆さは理解している。レアが、そんな私を心配してくれていることも。強くなりたいと願ってもいる。だけど、もし私が彼女の助けを必要としなくなったら、彼女は私になんか興味がなくなるだろうか。そんなことは絶対にないと分かっていても、考えてしまう。


「知ってるよ。あなたの強いとこも」


 レアが微笑む。彼女は誰よりも私のことを知っている。私も彼女のことを知っている。彼女の感じていることも、考えていることも、手に取るように理解できる。だけど、一つだけ分からない。レアは今、私のことをどう思っているんだろう。ただの従妹だろうか。それともーー。


 そこまで考えたところで、自分を戒める。レアに対して何てことを考えているんだ、彼女とは血が繋がっているのに、と。物心つかない時の感情はさて置き、私たちは成人していて、物事の分別がつく年で、彼女と私が結ばれることなんて絶対ありえないことくらい分かっている。それなのに何故、望んでしまうんだろう。この誰も入り込めないような強い繋がりの、更にその先を。



♦︎



「隣に寝てもいい?」


 シャワーから戻った私は、ベッドの上で半身を起こして、小さな白い表紙のアルバムを捲るレアに向かって尋ねる。


「当たり前でしょ? 何今更かしこまってんのよ」


 レアが怪訝そうに言う。私はレアの隣に彼女と同じ姿勢で座って、先ほどから彼女が捲っているアルバムを覗き込む。


「マノンと私、こうして見ると似てるよね」


 小学2年運動会の時、パスカルおじさんが撮影した写真を指差すレア。写真の中、グラウンドで横並びになる私たちは、髪と目の色こそ違うが、背格好と髪型と顔立ちがよく似ていて、姉妹と言われてもおかしくないほどだ。


「本当だ。よく似てるね」


 その写真の横には、水族館のサメの水槽の前で手を繋ぐ私たちの写真が貼り付けられている。これは、確か私が小学3年生の時だ。

 

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