第5話 恐怖

 夕方、一仕事終えた私とレアは、リビングのソファで2人並んでテレビを観ていた。5時過ぎた頃、父が仕事を終えて帰ってきた。彼は、家から車で10分ほどのところにある車の修理工場で働いていた。


 リビングに入ってきた瞬間から、父の機嫌が悪いことが分かった。彼は台所の床に置かれたレモネードを見て、夕食を作っている母にこれは何だと尋ねた。無表情の母が用途を説明すると、父は馬鹿にするように鼻で笑った。その後で、彼は床に落ちているレモンの種を見つけ、母に後片付けができていない、こんなだから子供もだらしなくなるのだ、全てお前の責任だなどといつもの理不尽な説教を始めた。


 父は冷蔵庫を開け、ウィスキーのボトルを取り出して瓶ごと口をつけて飲んだ後、また過去の様々なことをほじくり返して母を詰り続けた。酒が入ると、父の暴言は余計に激しく残酷なものになる。


 レアは、ソファの上で身がすくんで動けずにいる私の手を取って駆け出した。

 

 逃げ込んだ2階の子供部屋のクローゼットの中、私は耳を塞いで震えていた。レアは何も言わずに隣で、そんな私の髪をずっと撫でていた。


 父の怒鳴り声が、階下から聞こえる。壁を叩く音、何かを投げつける音も。父は母に直接的な暴力は振るわないものの、暴言に加え、このような威嚇行動を取る。


 しばらくして、父が階段を上がってくる音が聞こえ、息が止まりそうなほどに苦しくなる。


「大丈夫よ、マノン」


 レアが耳元で囁いた。今日、レアがいて本当に良かった。この暗闇で1人怯えていたかもしれないことを考えると、泣き出したいような気持ちになった。


 子供部屋のドアが乱暴に開けられる。


「マノン!! どこにいるんだ!! 出てこい!!」


 父の怒りに満ちた大きな声。先ほどよりも激しく身体が震え、動悸が激しくなる。


「お前にも言っておかなけりゃならん、このままだとお前も、母さんみたいなどうしようもない女になってしまうからな」


 もう、父の説教など聞きたくない。母のことを役立たずの馬鹿だのノロマだのと悪く言って、私にも母みたいにならないようにと同じことを1時間も2時間も繰り返す、神経をすり減らすだけの無意味な儀式に付き合うなんてごめんだ。


 ギシギシという、床を踏み締める音が近づいてくる。レアが私の左手をぎゅっと握りしめる。クローゼットの戸が開け放たれる。父の姿が視界に入る前に、レアが立ち上がって私の前に進み出る。両手を広げ、私を庇うように立つ。


「レア‥‥‥やめて」


 レアの着ている赤いワンピースの裾を引っ張る。こんなことしたら、レアまで怒られてしまう。


「どくんだ、レア。マノンと話がしたい」


 父の感情を押し殺した声が、地を這うように聞こえる。


「嫌」


 レアが言い返す。彼女は私を助けてくれようとしている。自分よりもずっと大きな怪物に、一人で立ち向かおうとしている。彼女の脚も、震えているのに。


「いい子だからどいてくれ、レア。これはあの子にとって、必要なことなんだよ」


 身体を屈め、気味が悪いくらいに優しい声で囁く父。


「マノンは何も悪いことをしてないでしょ!! おばさんだって何も悪くないのに、どうしておじさんは二人を怒るの?!」


 レアの声が響く。父の息遣いが荒くなるのを感じる。


「お前には関係ない。いいからさっさとどくんだ、レア!!」


 父の手がレアに伸ばされる。その瞬間、玄関から聞き覚えのある男女の声が聞こえて、全身の力が抜けた。


 クラウドおじさんと、べサニーおばさんの声。レアの両親が、彼女を迎えに来たのだ。


 父は舌打ちをし、部屋を出て一階へ向かった。レアは私を心配げに見る。


「今日、うちに来たら?」


 レアの提案に首を振る。


「いい。私が行ったら、ママが一人になっちゃうから」


 レアと一緒に行きたい気持ちは山々だったが、あの状態の父と母を家に二人きりにしておきたくはなかった。


「マノン……」


 レアが、体育座りをしている私の前に膝をつく。レアの目に見つめられたら、途端に泣き出したい気持ちになった。泣き出した私の頭を、レアが優しく撫でる。


「私はダメな子なの」


 涙を拭いながら、父に以前言われた言葉を思い出していた。父は私が何か失敗すると、「お前はダメな子だ」「何もできない」「馬鹿だ」などと言って責めた。 


「ダメじゃない。マノンは、いいところがたくさんあるでしょ。おじさんが知らないだけよ」


 レアの手のひらが、涙で濡れた頬に触れる。レアの手は温かい。温かくて、優しくて、いつだって私を守ってくれる。この手に触れられていると安心する。


 間もなくレアの両親が部屋にやってきて、私にどうしたのかと尋ねた。何も言わずにただ泣いている私を、べサニーおばさんは何も言わずに抱きしめた。クラウドおじさんも、心配そうに見ている。


「マノン、何かあったらいつでも話して。力になるわ」


 べサニーおばさんはレアと一緒に部屋を出て行く直前、私にそう声をかけた。3人に行って欲しくなかった。


 3人が部屋を出て行く。レアが階段を降りる音が聞こえる。本当はレアにいて欲しかった。だけどレアは帰ってしまう。寂しさのあまり、クローゼットの中で泣き出しそうになる。


 数分後、バタバタと廊下を子供の走る足音が聞こえたかと思うと、先ほど出て行ったばかりのレアが部屋に戻って来た。


「マノン、パパとママに聞いたら、今日泊まっていいって!!」


 レアは満面の笑みで喜ばしい事実を伝えた。ほっとする余り、声も出なかった。今夜、レアが家にいてくれることの心強いこと。


 叔父夫婦が来たあと父の機嫌は直り、私とレアはその後一緒に夕飯を食べ、お風呂に入り、同じベッドで眠った。その日、怖い夢は見なかった。

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