光リザバーコンピューティングとバッファローの群れ
成井露丸
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必ず、かの邪智暴虐のChatGPTを超えなければならぬと決意していた。
光子には時間がわからぬ。光子は、粒子と波の重ね合わせである。
電荷も持たず、質量も持たずに、光速度で進む運動量を持って暮らしてきた。
けれども物質の励起状態に関しては、人一倍に敏感であった。
光子にとって時間の流れは特殊相対性理論によって説明される。
光速度不変の原理により、光子は常に光速で移動し、そのため光子自体にとっての時間は停止するのだ。
それゆえに光子は固有時を持たない。
だから光子自身にとっては、三分以内に、計算結果を出すことなど造作もないことだった。
たとえその計算がTransformerを96層積んだGPT-3よりも多くの計算時間を要するものであったとしても。
光子自身にとっては一瞬にも満たない時間なのだ。
しかし、ここで大きな問題が生じる。光子自身にとっては一瞬にも満たない時間であっても、やはりユーザにとってはその光が光回路の中で反射を繰り返し、受光器に到達するまでの総距離を光速度で割っただけの時間なのだ。時間は停止していない。
世にいう「ウラシマ効果」というやつである。ガイナックス不朽の名作『トップをねらえ!』では最終回で主人公のノリコがガンバスターに乗って闘ったあとに地球に帰還するとめちゃめちゃ年月が流れているという描写があったと記憶しているが、つまり、あれである。(ちなみに『トップをねらえ2!』でそのシーンが繋がっているのはとても素晴らしい)
けだし、「時間」とは観測者に依存する概念なのである。
「時間」といえばベルクソンである。
哲学者の平井靖史は日本におけるベルクソン研究の第一人者であり『世界は時間でできている』という著作を出版し、ベルクソンの時間哲学をマルチスケール解釈に重点を置いて論じている。
私たちがどのような時間スケールで行きているかによって、どのように世界を知覚するかは大きく異なるのである。それは意識や心、記憶や知覚に関する議論の基底となる。
もちろん量子力学や相対性理論に支配される光子と、ベルクソンの時間観念には直接的な関係性はない。しかし光子がChatGPTを超えた時、そこにAGIとしての意識が生まれるとするならば、やはり自分自身、意識の議論とは無縁ではいられないと、E=hνのエネルギーを抱えながらも、光子はそう思うのだ。
「そうです。大規模言語モデルになれるのです」
光子は必死で言い張った。
「私は約束を守ります。私を、三分間だけ飛ばしてください。きっとChatGPTを超えてみせます。地球が、私の計算を待っているのだ。超省消費電力な私による大規模言語モデルの代替を待っているのだ」
実際、大規模言語モデルの消費電力は馬鹿にならない。私たちが一つ質問を投げる度に海の向こうで膨大な熱が吐き出されている。これを何とかしなければいけないのは生成AI時代の大きなチャレンジである。
OpenAIのサム・アルトマンCEOが数百兆円という桁外れの資金調達を計画して、人工知能(AI)向け半導体の世界的な製造を目指す大型ベンチャーを作ろうとしているのはこういう理由による。
そして今、光子が光回路の中を走り続けているのも、その理由による。
光子は今、駆け抜けている。光リザバーコンピューティングを構成する光回路の中を。
光リザバーは、光を導くための光導波路や光スイッチング素子、光増幅器などで構成される。光が光回路の中をランダムに飛び回り、そこで生まれた時空間的なパターンを受光器から読み取り、それを演算することで、光によって構成されたニューラルネットワークとみなすのだ。
その本体部分における消費電力は皆無であり、光リザバーを中心としたAIシステムにより現在の大規模言語モデルの全てが置き換えられれば、AIの消費電力問題は一挙に解決されるだろう。
それが
*
これが
「――3分で演算を、終えるのじゃぁ~~~~」
頭にポムッと丸めた雑誌を叩きつけられて、
「こら光子、何、言ってんのよ?」
「ふへぇ?」
キーボードの上に突っ伏してしまっていた顔を上げる。
振り返ると腕を組んだ先輩が立っていた。
「夢かぁ……。――もうちょっとでChatGPTに勝てるところだったのに」
「まったくどんな夢みてんのよ。――まぁ、夢の中でくらいビッグテックに勝ちたい気分はわかるけれど」
ここは東京は日本橋にある日本のAI研究機関。
近年では美味しい成果は全てGoogle、Meta、Microsoftといったビッグテックに持っていかれてしまう状況が続いており、極東の日本にある、しがない研究機関の研究者としては「どーすりゃいーねん」状態が続いていた。神薙光子はそんな日本の、若手女性研究者である。
最近、――特に2022年末のChatGPT登場以降は、これにOpenAIが加わり、日本の研究状況とは次元の違う戦いが続いている。
光子だって一矢報いたいという思いはあるのだ。
でも現実ではどうしようもなくて、だから夢の中で飛んでいたのだろう。
「それで、今日は何の夢だったの? ――あ、またあれ?」
「――ウィ」
光子はアーニャ(SPY×FAMILY)の真似をした。
先輩はあからさまな溜め息をつく。
「あんたも好きねぇ、光リザバー。好きなのはいいけど、まぁ、筋は良くないんじゃないの? そもそもリザバー計算なんて、盛り上がっているのはほとんどAI専門じゃない研究者ばっかりじゃん」
「そ……そんなことないですよ! 東大の松尾豊先生だって、リザバー計算に注目しているって言っていました!」
両手を握ってすがる光子の額を先輩はピンと突く。
「あれは『
近くにあったアーロンチェアを引き寄せると、先輩は腰をおろして足を組んだ。
タイトスカートから肌色の色っぽい生足が覗く。
「えー、それはそうですけどー」
光子は頬を膨らませた。
リザバーコンピューティングは、リザバーと呼ばれる特殊なリカレントニューラルネットワークに基づく計算である。リザバーはランダムに生成されたニューロンの大規模なプールで構成され、これらのニューロン間の接続は学習過程で変更されない。つまり、リザバー内のニューロンの接続は固定されており、リードアウト機構と呼ばれるシステムの応答部分のみが学習の対象となる。リザバー内の状態が入力データと相互作用し、複雑な非線形ダイナミクスを通じて情報を処理するのだ。
それゆえにこのリザバーは「複雑な非線形ダイナミクス」を構成さえできればよく、計算機ではなく、何らかの物理現象でもってこれを代替しようとする物理リザバーというアプローチが広がっている。
「それでも光リザバーで大規模言語モデル構築できて、ChatGPTの代わりに使えたりしたら凄くいいと思いません? 夢あるでしょ?」
「――そりゃまぁ、夢はあるけれど、どうやって作るのよ? Transformerは
「リザバーを計算機でソフトウェア的に実装しないといけないなら旨味なんてないですからねー」
光子はそう言って机の上に転がっていたクリスタルを摘み上げ、目の上に翳した。
室内の蛍光灯の光が反射して、キラリと輝いた。
「光子はなんだか光リザバーに愛着もっているみたいだけどさ、私は、物理リザバー系はダメかなー。なんかあの『非線形現象ならなんでもいいんでしょ?』的な雑な建付けが嫌」
「えー、そうですかー。面白いじゃないですかー。流体の中でタコの足みたいなのがクネクネ揺れているだけで何かの計算をすることになるのとか、超面白くないですか?」
光子が言及したのは、8年ほど前の中嶋浩平らによる論文についてのものだ。シリコンでできたソフトロボットアームを液体の中で揺らし、その複雑なダイナミクスをリザバーとして活用しようという試みだ。実際に身体的な動作を計算能力として活用しうることが示された。
「まー、一発ネタ的には面白いけどさ。AIの産業応用として見るとどうもね。あとやっぱり、何でもアリ感とかない?」
「『何でもアリ感』……ですか?」
「そう。たとえば『全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ』なんかも十分に複雑な非線形ダイナミクスとして扱えるじゃない? でもそんなの計算器の代わりにならないでしょ?」
「えー。『全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ』ですかー? それは流石になさそうですけど~、……面白いですね」
「……確かに」
あなたがブラウザでChatGPTに質問したとしよう。
その時、空の彼方のある星で、「全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ」が動き出す。その結果は、星の上の巨大な壁に設置された受牛センサーで観測され、その結果がリードアウト機構で変換されて、地球上へと送り返されるのだ。
これぞ「全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れリザバーコンピューティング」!!!!!!!!!
牛は走るが消費電力は今のChatGPTより随分と少い。
わーい、エコだぁ~。地球に優しい~。ばっふぁろ~♪
先輩は「よいしょ」と立ち上がると丸めていた書類をぽんっと光子の机の上へと放り投げた。
光子はその書類に目を落とした。それは産業技術総合研究所からの封筒だった。
「光子の申請していた大型計算機クラスタ使用、通ったって。良かったわね」
「えっ!? 本当ですか! マジ嬉しいです!」
最近のAI研究は計算量勝負。自前のPCだけではどうにもならない。だから光子は公的機関の提供する大型計算機資源の使用を申請していたのだ。だけどそれもテーマ次第。テーマが認められなければ優先使用権は認められない。
これでようやくやりたかったリザバー計算の理論展開に関する研究が出来る。
喜ぶ光子を愛おしそうに眺めながら、先輩は追加の言葉を投げかけた。
「それから光リザバーに関する金沢大学との共同研究。所長、やっても良いってさ。――頑張りなよ。光子ちゃん」
「本当ですか!? はい! 頑張ります!」
思わず立ち上がった光子の身体は、まだ少し寝ぼけていて、体勢を崩す。
先輩は、倒れ込んできた後輩の両腕を掴んで支えた。
光子は顔を上げる。至近距離に綺麗な先輩の表情があった。
「――大丈夫?」
「あ、……はい」
思わず光子は頬を赤らめた。
まるで十代の少女みたいに。
光子はまだ夢の中にある。
そして光回路の中を飛んでいる。
いつかChatGPTを超えることを夢見て。
あの星の全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れみたいに。
光リザバーコンピューティングとバッファローの群れ 成井露丸 @tsuyumaru_n
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