第三十三集 紅於 二

 チョン書杏シューシンの声は自然と低くなった。まだ羞恥は体内でくすぶっているが、リン墨燕モーイェンの誤解は解かねばならない。


「あなたのこと、嫌いなわけではないのよ。今までは、お互いに向かいたい場所が逆方向だっただけ。それに最後には、あなたは自分の理想を犠牲にして、わたくしの生きる道を作ってくれた。もう、対立する理由がないわ」


 チョン書杏シューシンは眉間を緩め、代わりにリン墨燕モーイェンの袖をつかむ指の力を強くした。


「本当は今でも、本来あるべき霜葉紅に未練があるのでしょう。それなのに……ありがとう。わたくしを生かしてくれて」


 しばらく、リン墨燕モーイェンは面食らった顔をしてチョン書杏シューシンを見詰め返した。そろそろと持ち上げられた彼の手が、袖をつかんでいるチョン書杏シューシンの手に重ねられる。そのまま引き剥がされるかと思いきや、袖ごと柔らかく包むように握られた。


「感謝をされるようなことではない」


 リン墨燕モーイェンチョン書杏シューシンを見据えたままで、唇を小さく開いて言う。


「君が本来のチョン書杏シューシンではないと気づいたときから、悪役に向いていないだろうことは分かっていた。それでもわたしは、この世界は自分のものだという矜持と意地で軌道修正を試みようとした。だが、やはり各人の持つ性質と違うことをさせようとするほど、整合性がとれなくなって少しずつ歪みが生まれていく。それにわたしが耐えられなかっただけだ」


 リン墨燕モーイェンは、チョン書杏シューシンの手を袖から放させて胸の高さまで持ち上げた。


「今のわたしたちがいる霜葉紅では、これが正しい形なのだろう――君は生きるべきだ」


 チョン書杏シューシンの手を両手で包み直したリン墨燕モーイェンは、確かに生きていることを感じとろうとするように、白い手首に透ける血管に指を添わせた。


 指先の触れ方が優しくて、チョン書杏シューシンの頬にまたしても熱が集まってきた。握られた手を咄嗟に引く。チョン書杏シューシンの脈が速くなっているのに気づいただろうに、リン墨燕モーイェンは顔色も変えずあっさり手を放した。


 チョン書杏シューシンは熱くなるばかりの顔も隠したかったが、なぜだかリン墨燕モーイェンの眼差しから目を逸らしがたかった。それを誤魔化すように、彼を見詰めたまま笑みを作る。


「わたくしたち、やっと演技でなく、本当の知己ちきになれそうね」

「知己で満足なのか」


 間髪入れず、リン墨燕モーイェンが問うた。理解が及ばず眉をひそめたチョン書杏シューシンを、彼は腕を組んで見下ろす。


「命は長らえたとはいえ、君の立場はいまだ危うい。今のチョン家で君の手助けをできるとしたらチョン章桑チャンサンだけだが、彼は嫡男だ。いざというときには家や妻を一番に優先する。君は家絡みの理不尽からチョン紅杏ホンシンと茶坊を守るつもりでいるようだが、後ろ盾も力もない庶子のままでは思い通りにいくまい」


 リン墨燕モーイェンは、チョン書杏シューシンが置かれている状況を正しく並べ立てた。生母も同腹の大兄も帰ってこられる見込みはなく、嫡母からもうとまれている今、家中でもっとも弱い立場に追いやられているのは事実だ。


 どうにか足もとを固める方法を探さねばとチョン書杏シューシン自身も考えているところではあるが、リン墨燕モーイェンがなぜ今そのことを持ち出したのか分からなかった。


「なにが言いたいの?」

「わたしなら、君の後ろ盾になれる」


 被せ気味に言われ、チョン書杏シューシンは目を見開いた。リン墨燕モーイェンの唇は無表情であるようだが、口角にかすかな強張りが見てとれた。


「わたしは二男だから家を継ぐ必要はないし、親ともほとんど絶縁状態だ。リン家への義理を考える必要はない。皇城司は職務上、高官には嫌われるが皇帝からの庇護は厚く、展封てんほうやしきを持てるくらいには待遇もいい。それほど悪い条件ではないと思うが?」


 チョン書杏シューシンはしばらく言葉が出なかった。リン墨燕モーイェンの言う意味を十分に咀嚼して飲み込もうとするも、動揺する感情に阻まれて胸の辺りでつかえてしまう。


「……まるで、求婚されているような気がするわ」

「嫌か?」

「冗談でしょう?」

生憎あいにくながら、冗談は苦手だ」


 確かに、彼が皮肉を言うことはあっても、冗談を言うのは聞いたことがない。

 チョン書杏シューシンは両手で顔を覆い隠した。リン墨燕モーイェンのせいで、もはや耳や首まで熱い。


紅杏ホンシンが言っていたのは、こういうことだったのね」

「なんと言っていた?」


 顔を覆った指の間から、チョン書杏シューシンはそっとリン墨燕モーイェンの表情を窺った。


「……リン墨燕モーイェンが、わたくしを守るって」


 ふ、と笑いの吐息をリン墨燕モーイェンはこぼした。


「見る目がある。さすがは主人公だな」


 リン墨燕モーイェンの笑い方は静かだが、明らかに愉快げな色があった。それがチョン書杏シューシンの狼狽えるさまを面白がっているようで、徐々に腹立たしさが湧いてくる。


 チョン書杏シューシンは顔を隠す手を思い切って下ろして、リン墨燕モーイェンを睨みつけた。


「いきなり過程を飛ばし過ぎではないの?」

「家によっては、親同士だけで話をまとめて婚礼の日に初対面ということも珍しくない。それよりはましだろう」

「告白のひとつもないまま求婚されても信用できないわ」


 自分ばかりが狼狽えているのが癪で、チョン書杏シューシンは相手を困らせるつもりで挑発する。ほんのついさっきまで反目していたのだ。言葉にできるほどの愛情もなにもあるまい。


 リン墨燕モーイェンから笑みが消えた。狙い通りの反応が返ってきたかとチョン書杏シューシンが思った直後、不意に体が前へ引っ張られた。


「甘いのがお好みか?」


 そう耳元で囁かれたときには、チョン書杏シューシンの体はリン墨燕モーイェンの両腕に包み込まれていた。彼の胸に鼻が当たって、ほのかに焚きめられた香を感じた瞬間、頭の中が真っ白になる。


「この八年、わたしがどれだけ君を見ていたと思う」


 囁きに耳朶じだを撫でられ、チョン書杏シューシンは心臓が爆発してしまうかと思った。それでも彼の手管てくだに屈しまいと、わななく顎を叱咤して言い返す。


「わたくしを見張っていたことくらい、分かっているわ」


 強がるチョン書杏シューシンの耳元を吐息がかすめた。相手の顔が見えないので、その吐息がため息か嘲笑かまでは判別できない。囁きが、先ほどよりもさらに近くで発せられた。


「確かに元々は監視のためだったが……いつからか、目が勝手に君を追うようになっていた。こんなにも自分の行動と感情の抑制がきかないのは、初めてだ」


 チョン書杏シューシンを抱き締める腕の力が増した。さらに強く公子の胸に顔を埋める形になり、鼻腔に感じる香りも濃さを増す。


「わたしを些細なことで一喜一憂させるのも、饒舌じょうぜつにさせるのも、とり乱させるのも――ここにいるチョン書杏シューシンだけだ」


 なんて台詞を吐くのか、と。チョン書杏シューシンは、リン墨燕モーイェンの腕の中で身をすくめた。普段の冷淡な彼からは想像もつかないほど切ない響きで囁かれ、息が苦しくなる。


 うっかりしていた。彼の中には、女性支持の厚い純愛小説を生み出した人物がいるのだ。


 常に冷静沈着な選り抜き武官・リン墨燕モーイェンと、女性の心をつかむ恋愛小説家・鴇遠ときとおリン。その両方の性格と感性を彼が併せ持っているとしたら――これはたいへん心臓に悪い。


 しかしそれを嫌だと思う感情を、チョン書杏シューシンは自身の中に見出せなかった。


 ふと、チョン書杏シューシンは、リン墨燕モーイェンの胸から伝わってくる心音に気づいた。その拍動はチョン書杏シューシンに劣らず早い。仕草には出ずとも、彼も緊張しているのだ。


 そのことに気づくと、チョン書杏シューシンの動揺はほんの少しだけ落ち着いた。


 目の前の胸をそっと両手で押して、リン墨燕モーイェンの顔を見上げる。予想よりもずっと近くに彼の瞳があって驚いたものの、チョン書杏シューシンは目を逸らしはしなかった。


「いいのね、本当に。後悔しても知らないわよ」

「君を救った時点で、それを問う段階は過ぎた」

側妻そばめは嫌」

「妻を何人も置くような面倒はわたしもごめんだ。正妻だけでいい」

「わたくしは庶子だし蓄財もなくなってしまったから、嫁荷よめにに期待はしないで」

「心底どうでもいいな。だが君がどうしても惨めな気持ちになると言うのなら、聘礼ゆいのうひんを多めに用意して届けさせよう。それを嫁荷にしたらいい。問題は、君の意思だけだ」


 チョン書杏シューシンの心はとうに決まっている。さりとて、よろしくお願いします、などと彼に言ってやる気にはどうにもなれず、別の言葉を選んだ。


「それなら――わたくしの命をあなたに預けるわ」


 間近にあるリン墨燕モーイェンの目が緩い弧を描いて細まった。距離が近過ぎて表情の全容まで見えないが、笑ったのだとチョン書杏シューシンには分かった。


「では、わたしの生涯を君に差し出そう」


 リン墨燕モーイェンの囁きと同時に、唇を柔らかなものがかすめていった。チョン書杏シューシンはびっくりしたが、あまりにも一瞬のことだったので気のせいかとも考えてしまう。その矢先、口を覆うように塞がれた。


 口づけられていると理解した瞬間、チョン書杏シューシンは反射的に顎を引いた。その程度の後退では相手の唇にすぐ追いつかれて離れさせることがかなわない。うなじを大きな手で押さえられて、それ以上は逃げ場がなかった。


 下唇を数度まれたところで、やっと唇の離れる隙を見つけて、チョン書杏シューシンは息を吸い込んだ。


「りっ、リン墨燕モーイェン!」

墨燕モーイェン


 怒るつもりで喚いたチョン書杏シューシンの声に、リン墨燕モーイェンがなぜだか重ねて言った。不可解さにチョン書杏シューシンが気をとられた隙に、彼は素早く言葉を継ぐ。


「長いつき合いだ。そろそろ墨燕モーイェンと呼んではどうだ。阿燕アーイェン燕郎イェンランと呼んで貰っても、わたしは構わないが」


 姓をはぶいて呼ぶのは気安さの表れだ。チョン書杏シューシンにとってリン墨燕モーイェンは兄の同窓なので、これまで礼儀として姓をつけて呼んでいたが、それは不満であるらしい。


 しかし阿燕アーイェンはまだしも、燕郎イェンランにいたってはと甘ったるく呼ぶも同然だ。そんな恥ずかしいことをできるわけがない。


 リン墨燕モーイェンがこのような冗談で揶揄からかってくるとは――冗談は苦手という前言の撤回を求める必要がありそうだ。

 いきなり口づけたことを思い切り叱りつけるつもりが、出鼻を挫かれてチョン書杏シューシンは口を尖らせた。


「図に乗らないで……墨燕モーイェン


 リン墨燕モーイェンが満足そうに相好を崩した。無表情が常な彼の笑顔を今日だけで何種類みただろうかと、チョン書杏シューシンは胸を高鳴らせて考える。


 うなじを押さえていたリン墨燕モーイェンの手が、チョン書杏シューシンの顎の線を辿っておとがいへ移動した。その親指の先が、唇のふちに触れる。


「わたしがいる限り、書杏シューシンは死なせない――もう一度、口づけても?」


 チョン書杏シューシンはあっけにとられて目を丸くした。苦言を呈したそばから二度目の口づけの同意を求めるなど、あまりにも調子づいている。


 はたして、彼がらしくなく浮かれているだけなのか、普段は表に出ない本性なのか。

 断られないと確信している眼差しを見詰め返していると、後者であると思えてくる。


 拒絶する気はなくても素直に頷くのは違う気がして考えあぐねる内に、チョン書杏シューシンはまだ彼の口から大事な一言を聞いていないことに思い至った。


「わたくしの目を見て好きだと言えたら、いい――」

「好きだ」


 最後まで言い終わる前に、チョン書杏シューシンの声はリン墨燕モーイェンに飲み込まれた。一度目の口づけがまだ自制していたのだと判明するほどの熱心さで唇を奪い、口腔へ押し入ってくる。


 呼吸まで絡めとられて酩酊したような心地になり、チョン書杏シューシンリン墨燕モーイェンにしがみついた。


 『霜葉紅そうようこう―さやけき恋は花よりくれないなり―』


 この世界を生み出した鴇遠ときとおリンは今、リン墨燕モーイェンとして同じ物語の中に息づいて目の前にいる。ならば彼の導きに身を委ねれば、最良の結末を見ることができるのではないか。


 彼の紡ぎ出す物語ならば、必ずやとりこにされる。寝食を忘れるほど夢中で『霜葉紅』を読みふけったかつての自分を思い返し、チョン書杏シューシンはそう信じることにした。

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