第三十集 聖詔

浩国公こうこくこう世子せいしシャオユーが天子のお言葉を伝えに参った。聖詔みことのりを受けられよ」


 大理官は目玉が飛び出そうな顔をしたあと、慌てふためいて机の前まで進み出て跪いた。死刑執行人も焦った動作で大刀を置いて両膝をつく。


 片腕の自由を得たリン墨燕モーイェンは、血だまりから数歩離れてからチョン書杏シューシンを座らせ、彼女を縛めている縄を切った。


 聖詔みことのりを伝えるべき相手が聞く体勢になったのを認めて、シャオユーは姿勢を正して詔書を広げる。


「罪人、チョン書杏シューシンが無実である可能性が大いに示された。よってチョン書杏シューシンの処刑を中止、解放し、さらなる捜査と審理を命じる。真実を漏らさずつまびらかにせよ」


 堂々として低く、遠くまで響き渡る声だった。普段の穏やかなシャオユーとはまるで違った声音に、チョン書杏シューシンはまだ状況が理解できないながら聞き入る。


 聖詔みことのりの終わりに大理官を始めとした周囲の官吏たちが一斉に叩頭し、チョン書杏シューシンも慌てて地面に額をつけた。ゆっくり三度呼吸する間を置いてそうっと顔を上げると、大理官が浩国公世子の手から詔書を受けとっているところだった。


 詔書を授け終えたシャオユーは即座に身を反転させて、チョン書杏シューシンの方へと歩み寄ってくる。その表情は安堵にほころんでいた。


「もう大丈夫だ。急いでここを離れよう」


 そう言ったシャオユーに、リン墨燕モーイェンが頷きを返す。立ち上がるのを手助けするように腕をつかまれて、チョン書杏シューシンは縋るようにリン墨燕モーイェンの黒衣をつかみ返した。


「待って。少し待って」


 焦って言ったチョン書杏シューシンに、リン墨燕モーイェンがちょっと眉をひそめた。


「どこか痛むか」

「そうではないの。そうではなくて……腰が抜けてしまって」


 さっきまでどうやって立っていたのか忘れてしまったように、うまく足に力が入らなかった。無理に立とうとすると膝が震え、ひどくぎくしゃくとしてしまう。


 情けなくうつむくチョン書杏シューシンを見て、リン墨燕モーイェンシャオユーがちらと目線を交わす。

 目線を戻したリン墨燕モーイェンが、小さく息を吐いた。


「つかまれ」

「え?」


 チョン書杏シューシンが返事をする前に、膝裏に腕が差し入れられた。あっという間に横向きに抱き上げられ、チョン書杏シューシンは泡を食ってリン墨燕モーイェンの首にしがみつく。


リン墨燕モーイェン!」

「暴れたら落とすぞ」


 叱る声色で叫んだチョン書杏シューシンを、リン墨燕モーイェンは脅しで黙らせた。


 チョン書杏シューシンは子供のように抱き上げられていることにも動揺したが、それ以上に衆人環視で情けない姿をさらしているのがいたたまれなかった。よりにもよって汚れた囚服姿であることも、さらに羞恥を煽る。


 リン墨燕モーイェンチョン書杏シューシンの羞恥心などお構いなしに、普段となんら変わらない足どりでさっさと歩いて行く。


 助けを求めるようにチョン書杏シューシンがきょろきょろと視線を巡らせると、隣を歩くシャオユーと視線が合った。チョン書杏シューシンの目での訴えは世子に伝わったように見えたが、彼は軽く眉を上げて笑っただけで、あっさりと目線を進行方向に戻してしまった。


 歩いて行く先に、リン墨燕モーイェンと同じ皇城司の黒衣を着た若者の姿があった。彼は群がる人々に声をかけて、手際よく道を開けさせている。


 世子らが柵の隙間を抜けて皇城司の若者の前を通ると、彼はなぜか得意満面な笑みでリン墨燕モーイェンに向けて親指を立てた。リン墨燕モーイェンに対して世子と二兄の他にも気安く振る舞う人物がいるのが、チョン書杏シューシンにとっては意外だった。


 こっそりとリン墨燕モーイェンの表情を窺い見ると、眉間に一本だけ皺が刻まれていた。


 人垣を割って作られた道を行くのは、チョン書杏シューシンをますます気まずい心地にさせた。この群集の中に、彼女の身元を知っている人物がどれほどいるだろう。


 恥ずかしさが極まり、チョン書杏シューシンは少しでも顔を見られまいと、リン墨燕モーイェンの黒衣の襟に額を押し当てた。


 人垣を抜けたところで、横方向からチョン紅杏ホンシンが全速力で駆け寄ってきた。


「三姉上!」


 チョン紅杏ホンシンリン墨燕モーイェンの存在もお構いなしに、チョン書杏シューシンに飛びついた。


「よかったぁ。間に合って、本当によかったぁ」


 チョン書杏シューシンの肩に顔を埋めて、チョン紅杏ホンシンはわっと声を上げて泣き出した。四妹の思いがけない大泣きにチョン書杏シューシンはわけも分からず狼狽える。


紅杏ホンシン。そんなに泣かないで」


 困惑して四妹をなだめる途中で、チョン書杏シューシンはいまだにリン墨燕モーイェンに抱きかかえられているままなのを思い出した。実質二人分の体重を彼が支えていることにも気づき、慌てて黒衣の胸元を押す。


「もう大丈夫だから降ろして」


 リン墨燕モーイェンは無言のまま、けれども慎重な動作でチョン書杏シューシンを地面に降ろした。


 注意深く支えてくれるリン墨燕モーイェンの手をそっと放して、チョン書杏シューシンはしっかりと石畳に立つ。改めて、チョン紅杏ホンシンが正面から抱きついてきた。


 ちっとも泣き止む気配のない四妹を抱擁して、チョン書杏シューシンはひたすらにその髪と背中を撫でてやる。

 大泣きするチョン紅杏ホンシンを見てシャオユーは眉尻を下げつつ、チョン書杏シューシンへと目線を移した。


「今、章桑チャンサン刑部けいぶへ行って身柄を引き受ける手続きをしてくれている。書杏シューシン紅杏ホンシンはこのままチョン宅まで送ろう。章桑チャンサンもすぐに帰ってくるはずだ」


 いまだ自分が助かった実感がないチョン書杏シューシンは目を見開き、前にいるシャオユーではなく、背後のリン墨燕モーイェンの方を思わず振り仰いでしまった。


「……いいの?」


 つい口をついて出たチョン書杏シューシンの問いに、リン墨燕モーイェンはなぜか顔をしかめた。


「それをわたしに訊くのか」

「だって――」

「駄目だったら、君はここにいない」


 つまり、生きていていいのだと――そう言ったのだ。あのリン墨燕モーイェンが。

 信じられずにチョン書杏シューシンが凝視していると、彼は気まずそうな面持ちで顔をそらした。


 チョン書杏シューシンは顔を正面に戻し、四妹を抱き締める力を強くした。


 ずっと否定されていた生命が、認められた。リン墨燕モーイェンの一言で、そのことを理解する。途端に、堪らない感情が込み上げてきて目からあふれた。


 チョン書杏シューシンまで泣き出したことで、リン墨燕モーイェンシャオユーが、途方に暮れて顔を見合わせた。抱き合ってわあわあと号泣するチョン姉妹を、二人はつかの間だけ見守る。


 やがて人目を気づかう形で、シャオユーチョン紅杏ホンシンの肩に、リン墨燕モーイェンチョン書杏シューシンの肩にそれぞれ手を置いた。


 リン墨燕モーイェンはさらにチョン書杏シューシンの顔を覗き込み、涙で頬に貼りつく乱れ髪を耳にかけてやりながら話しかけた。


「そろそろ行くぞ。生き延びた感動は、やしきでゆっくり噛み締めたらいい」

紅杏ホンシンも行こう。書杏シューシンを、いつまでも囚服姿で立たせておきたくはないだろう」


 シャオユーに言われて初めて気づいたという顔で、チョン紅杏ホンシンは抱きつく両手を勢いよく引っ込めた。


「ごめんなさい、三姉上! わたしったら気づかなくて。向こうに馬車を用意してあるから、早く乗って」


 チョン紅杏ホンシンは焦りで涙さえ止まったようすで、チョン書杏シューシンの手を引っ張った。抱き合っていたところから一転して同じ方向へ歩き出す形になり、チョン書杏シューシンはなぜだか少し笑ってしまう。


 一歩前を行くチョン紅杏ホンシンの隣に、シャオユーがごくさりげなく並ぶ。


 『霜葉紅そうようこう』を象徴する二人の寄り添う背中を、わずかの陰りもない愛しさで見るのは初めのような気がして、チョン書杏シューシンは目を細める。


 四妹と繋いでいない方の手を、チョン書杏シューシンは横へと伸ばした。そこに、リン墨燕モーイェンがいることは分かっている。


 彼の固い手の平をチョン書杏シューシンが握ると、少しの間があってから握り返される。その力は武官らしい強さがあったが、これ以上傷つけまいという労りも感じられるものだった。


 チョン書杏シューシンかたわらに目をやると、リン墨燕モーイェンもこちらを見ていた。笑いかければ、ちょっと面食らった表情をしたあとに苦笑まじりな淡い微笑が返ってくる。


 ついに死の運命から抜け出した高揚感の中で、チョン書杏シューシンリン墨燕モーイェンと繋いだ手に自然と力を込めた。

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