第二十七集 前世
「わたくしが生き延びて、霜葉紅の物語も続いて欲しかったの。でも、もうどちらかしか選べないのなら……わたくしが死ぬしかないじゃない」
陰鬱な気持ちを表に出すまいと、
「結局わたくしは、霜葉紅の結末を見られないままね。こんなに好きなのに、まるで縁がないみたい」
言ってみてから、逆だなと
一つの物語を読者としてだけでなく、登場人物としても見ることになっているのだから。それが楽しいことだと言い切ることはできないが、特別な縁は感じられる。
「
視界の端で、
「
不機嫌そうに唇を曲げて
「大したことはしていない。茶坊に乗り込んで脅しをかけるにも人手がいるものだが、
「そんなことになったら、霜葉紅が台なしだものね。あなたはわたくしに対して、同じように思っていたのでしょうけど」
「君の名前を訊いてもいいだろうか」
唐突に、
「霜葉紅を読んでいた頃の、君の名前だ」
答えるのに、ひと呼吸だけ時間が必要だった。
「
懐かしさよりも、まったくの他人の名前を発しているような心地がした。考えてみれば、
「ももしべ……どういう字を書く?」
「果物の桃に、
「そういう読者がいたと、作者として記憶しておく」
声をたてて
「光栄ね。こんな読者、きっと二度と現れないわよ」
「君のように物語を掻き乱す読者が何人もいてはたまらない」
「それもそうね。わたくしも、作者に会うならもっと違う形がよかったわ」
「それについては心から同意する」
もう一度笑ってから、
「ねえ、
いつも硬質な
「保証する」
断言した声も、常より温かみあるように聞こえた。
「それならいいわ……もう行って」
もう心残りはないと言う代わりに、
すっかり人の気配がなくなった頃、
少し下がるだけで
知らぬ間に、目の端から涙が落ちる。
「……死にたくない」
❖❖❖
牢獄の通路の途中で、
「
つい先ほど聞いたばかりの名前を呟いてみて、立ち尽くす。
手紙だ。
『霜葉紅』の読者から、
特に
脳を腫瘍に蝕まれてみるみる言葉が出なくなっていく恐怖の中で、出版社経由で病床に届けられる手紙が心の支えだった。待っている人たちの存在を感じられるのはもちろん、自ら言葉を紡ぐ力が弱まっていても、読んで理解する力が残っていることが、あえかな光明に思えたのだ。読むことができるなら、きっとまた、すぐに書く力もとり戻せる。
だが時間が経つごとに、当然ながら届けられる手紙の束も少しずつ厚みを減らしていく。
そうした手紙の束の中に必ずある差出人名が――
必ず一通ないし二通、ときにはさらに多く、手紙の束がどんなに薄くなろうと
『霜葉紅』への思いと、
内容そのものは毎回さほど変わり映えはしないし、言葉選びもありきたり。それでも丁寧に手書きされた文面は、間違いなく『霜葉紅』という作品を愛してくれていることが伝わってくるものだった。
その手紙に、病床から何度も返事を書こうとした。しかし、たった便箋一枚の文章を紡ぎ出すことさえ難しくなっていた。
結局、
暗い牢獄の通路で、
『霜葉紅』の読者は何十万といる。その中に同姓同名が存在する可能性はあるが、極めて低いと思われた。
そして
『霜葉紅』の
牢の石床に座り込む
「……名前なんか訊くんではなかった」
後悔を呟き、首を振って動揺を抑え込もうとした。
心臓を締め上げられるような胸苦しさを覚えながらも、
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