第二十七集 前世

 リン墨燕モーイェンの目がわずかに大きくなった。彼が驚いた顔をすると、チョン書杏シューシンはなぜか嬉しい気持ちになる。


「わたくしが生き延びて、霜葉紅の物語も続いて欲しかったの。でも、もうどちらかしか選べないのなら……わたくしが死ぬしかないじゃない」


 陰鬱な気持ちを表に出すまいと、チョン書杏シューシンは天井を見てわざと大仰にため息をついた。


「結局わたくしは、霜葉紅の結末を見られないままね。こんなに好きなのに、まるで縁がないみたい」


 言ってみてから、逆だなとチョン書杏シューシンは内心で自身の発言を否定した。


 一つの物語を読者としてだけでなく、登場人物としても見ることになっているのだから。それが楽しいことだと言い切ることはできないが、特別な縁は感じられる。


リン墨燕モーイェン。わたくしも聞きたいことがあるの。霜葉茶坊そうようさぼうを守ってくれていたのは、あなた?」


 視界の端で、リン墨燕モーイェンがちょっと眉を跳ねさせた。それきり彼がなにも言わないので、チョン書杏シューシンはさらに続けた。


チョン章蒿チャンハオが偽の証文を用意してすぐに行動を起こしていたら、茶坊はとっくに彼の手に渡っていたはずよ。それなのに、七夕しちせきから中秋節も近づく数月間もその素振りがなかった。あなたが邪魔をしていたのではないの? 間諜に長けた皇城司なら、それくらいの工作はお手のものでしょう」


 不機嫌そうに唇を曲げてリン墨燕モーイェンは答えあぐねるようすを見せたが、結局は認めた。


「大したことはしていない。茶坊に乗り込んで脅しをかけるにも人手がいるものだが、チョン章蒿チャンハオごときで従えられる破落戸ごろつきはしれている。そこに手を回しただけだ。あの茶坊が悪党の拠点にされるのは見過ごせない」

「そんなことになったら、霜葉紅が台なしだものね。あなたはわたくしに対して、同じように思っていたのでしょうけど」


 リン墨燕モーイェンは本当にただ、盲目なほど必死に『霜葉紅』という物語を守っている。物語を生み出す側になれば、冷酷ささえはらむ彼の深い情熱が理解できるようになるだろうかと、チョン書杏シューシンは思い巡らす。


「君の名前を訊いてもいいだろうか」


 唐突に、リン墨燕モーイェンが言った。質問の意図が分からずチョン書杏シューシンが訝しんで顔を向けると、彼は言葉が足りなかったと理解したようすで言い足した。


「霜葉紅を読んでいた頃の、君の名前だ」


 答えるのに、ひと呼吸だけ時間が必要だった。


桃蕊ももしべ明日実あすみ


 懐かしさよりも、まったくの他人の名前を発しているような心地がした。考えてみれば、チョン書杏シューシンとなってから初めて、この名前を口にしたのだ。


 チョン書杏シューシンが奇妙な感慨を覚えていると、こちらを見下ろしているリン墨燕モーイェンの眉間が怪訝そうにひそまった。


「ももしべ……どういう字を書く?」

「果物の桃に、雄蕊おしべ雌蕊めしべの蕊、明日あしたみのる。で、桃蕊ももしべ明日実あすみ


 チョン書杏シューシンの名乗りを反芻するように、リン墨燕モーイェンの唇が無音で小さく動いた。なにごとか思案する表情でやや目を伏せたあと再度、正面からチョン書杏シューシンを見下ろした。


「そういう読者がいたと、作者として記憶しておく」


 声をたててチョン書杏シューシンは笑った。


「光栄ね。こんな読者、きっと二度と現れないわよ」

「君のように物語を掻き乱す読者が何人もいてはたまらない」

「それもそうね。わたくしも、作者に会うならもっと違う形がよかったわ」

「それについては心から同意する」


 もう一度笑ってから、チョン書杏シューシンは膝を立てて頬杖をついた。


「ねえ、鴇遠ときとお先生。紅杏ホンシンシャオユーは、最後にはちゃんと幸せになる?」


 いつも硬質なリン墨燕モーイェンの表情が、不意に緩んだ。


「保証する」


 断言した声も、常より温かみあるように聞こえた。


「それならいいわ……もう行って」


 もう心残りはないと言う代わりに、チョン書杏シューシンは目を伏せる。しばらくの沈黙があってから、リン墨燕モーイェンが離れていく足音と、牢の扉が施錠される音が響いた。


 すっかり人の気配がなくなった頃、チョン書杏シューシンは座った体勢から横向きに倒れた。そうすると、牢獄に漂うえた臭気が濃くなるようだった。


 少し下がるだけでむしろがあるが、チョン書杏シューシンは構わず、石床へ直に頬を当てた。この冷たさが、今のみじめな自分には相応しい気がした。


 知らぬ間に、目の端から涙が落ちる。


「……死にたくない」



 ❖❖❖



 牢獄の通路の途中で、リン墨燕モーイェンはふと足を止めた。


桃蕊ももしべ明日実……?」


 つい先ほど聞いたばかりの名前を呟いてみて、立ち尽くす。

 チョン書杏シューシンの口から発せられた瞬間から、聞き覚えのある名前だと感じていた。その心当たりを、たった今、思い出した。


 手紙だ。


 『霜葉紅』の読者から、鴇遠ときとおリンに宛てられた無数の手紙。

 特に鴇遠ときとおリンの病状がおおやけになってすぐは、お見舞いや励ましの言葉の連ねられた手紙が山ほど届いたものだ。


 脳を腫瘍に蝕まれてみるみる言葉が出なくなっていく恐怖の中で、出版社経由で病床に届けられる手紙が心の支えだった。待っている人たちの存在を感じられるのはもちろん、自ら言葉を紡ぐ力が弱まっていても、読んで理解する力が残っていることが、あえかな光明に思えたのだ。読むことができるなら、きっとまた、すぐに書く力もとり戻せる。


 だが時間が経つごとに、当然ながら届けられる手紙の束も少しずつ厚みを減らしていく。

 そうした手紙の束の中に必ずある差出人名が――桃蕊ももしべ明日実だった。


 必ず一通ないし二通、ときにはさらに多く、手紙の束がどんなに薄くなろうと桃蕊ももしべ明日実の名はあった。だからこそ、記憶からどんどん流れ出てしまう無数の差出人の中で唯一、覚えていた。いつしか手紙が届くたびに真っ先に探すようになり、その名を見るだけで安堵した。


 『霜葉紅』への思いと、鴇遠ときとおリン快癒への祈りと、物語の続きへの切望。


 内容そのものは毎回さほど変わり映えはしないし、言葉選びもありきたり。それでも丁寧に手書きされた文面は、間違いなく『霜葉紅』という作品を愛してくれていることが伝わってくるものだった。


 その手紙に、病床から何度も返事を書こうとした。しかし、たった便箋一枚の文章を紡ぎ出すことさえ難しくなっていた。

 結局、鴇遠ときとおリンは一通も返事を書き上げることができなかった。


 暗い牢獄の通路で、リン墨燕モーイェンは顔を覆った。


 チョン書杏シューシンの中にいるのは、本当に手紙の桃蕊ももしべ明日実なのだろうか。

 『霜葉紅』の読者は何十万といる。その中に同姓同名が存在する可能性はあるが、極めて低いと思われた。桃蕊ももしべという姓は、他で聞いたことがない。


 鴇遠ときとおリンがリン墨燕モーイェンになったのと同じことが彼女の身に起きたのだとしたら、桃蕊ももしべ明日実という女性はすでになんらかの理由で亡くなっているのだろう。

 そしてチョン書杏シューシンとして、二度目の死を迎えようとしている。


 『霜葉紅』のチョン書杏シューシンは死ぬ運命だ。その筋書きを変えさせまいと、リン墨燕モーイェンは手を尽くしてきた。それが今になって、死なせたくないという感情が膨らみ始める。


 牢の石床に座り込むチョン書杏シューシンの姿を思い返し、リン墨燕モーイェンの胸中に苦みが広がった。


「……名前なんか訊くんではなかった」


 後悔を呟き、首を振って動揺を抑え込もうとした。

 心臓を締め上げられるような胸苦しさを覚えながらも、リン墨燕モーイェンは意識的に感情を無視して歩き始める。自身の心境の変化から逃げ出すように足を速めて、牢獄を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る