第二十二集 侍女

 チョン書杏シューシンはろくに眠れないまま朝を迎えた。二兄の侍女にされるがままに、ようよう身なりを整えて一人きりの朝食の席につく。

 食欲はなかった。一応は箸を伸ばしてみても、口に運ぶ気になれない。とり皿の上で、青菜を食べるでなく無為につつき回す。


 やがて飽いて、もう片づけさせようとチョン書杏シューシンが考えたときだった。雪柳閣せつりゅうかくの入口付近で、こそこそと小声で話す二人の下女の姿が目に留まった。


 傍にいる二兄の侍女も気づいて、すぐに二人へ歩み寄っていった。軽く咎める声のあと、二言三言だけやりとりをして下女二名はさがっていく。

 チョン書杏シューシンもてあそんでいた箸を置き、傍へ戻ってきた侍女に問いかけの目を向けた。


「なにかあったの?」


 言葉でも尋ねると、侍女は軽く首を横に振った。


「大したことではございませんので、お気になさらず」

「気にして欲しくないのなら、わたくしから見えないところで話すように言っておいて。それで、なにがあったの?」


 チョン書杏シューシンが語調を強めて繰り返す。二兄の侍女はやや目をみはってみせてから、渋る表情を経て躊躇いがちに告げた。


「……東廂房とうしょうぼうで、離離リーリーの尋問が始まったようです」


 侍女が言い終わる前にチョン書杏シューシンは勢いよく立ち上がり、駆け出した。


三娘子さんじょうし!」


 雪柳閣を飛び出したところで後ろから焦って呼び止める声がしたが、チョン書杏シューシンは歯牙にもかけず、院子にわ小径こみちを疾走した。


 離離リーリーのもとへ行って自分がどうすべきか、チョン書杏シューシンは分かっていなかった。ただ、とにかく彼女の口からすべてを聞かねばという義務感があった。


 チョン書杏シューシン抜きで尋問を始めるとは、なんて勝手なのかと、チョン章桑チャンサンを恨む気持ちが湧き上がる――やはり、二兄にとって自分は信用できない相手なのだ。


 衣の裾を持ち上げて游廊わたりろうかを駆けながら、悔しさと焦燥感で早くも涙が滲んでくる。


 内院なかにわに出て、東廂房が見えた。チョン章桑チャンサンは入口前の軒下に椅子を出して座っている。彼の正面、数段のきざはしの下の石畳に長台が置かれ、その上に離離リーリーがうつ伏せている。


 息をのむチョン書杏シューシンの見ている前で、長台の横に立つ家僕が懲罰用の板を振り上げる。うつ伏せた離離リーリーの臀部が打たれ、悲鳴があがった。


 チョン書杏シューシンは夢中で駆け、板を振るう家僕に身を当てて押しのけた。


「やめて!」


 叫びながら、全身で庇うように離離リーリーの背中へ上体を伏せた。


「三娘子っ」


 体の下で、離離リーリーがかすれ声で呼んだ。だがチョン書杏シューシンは構わず顔だけを持ち上げ、正面で座っているチョン章桑チャンサンを睨みつけた。


「二兄上。離離リーリーはわたくしの侍女よ。勝手に罰するなんて許さない」


 三妹の乱入にチョン章桑チャンサンはやや前のめりの体勢で目をみはっていたが、チョン書杏シューシンが言い終わると同時に困惑げに眉根を寄せた。


書杏シューシンわきまえなさい。この件はお前だけの問題でなく、チョン家全体に関わるのだ」

「分かっているわ、そんなこと」


 奴婢ぬひが家に害をなせば主人から厳しく処罰され、たとえ打ち殺されたとしても文句は言えない。程度の差はあれど、奴婢を抱えている家ならばどこでもおこなわれていることだ。


 嫡男であるチョン章桑チャンサンは、家主のチョンユエンの次に地位が高いので当然、離離リーリーを罰する権利がある。


 けれど、いくら長幼の序、嫡庶の序があると言えども、二兄がチョン書杏シューシンを除け者にして離離リーリーを尋問しただけでなく、あまつさえ処罰までおこなったことに、たいそう腹が立った。


「侍女の問題は主人の問題でしょう? 侍女の監督ができていないということなら、罰をうけるべきはわたくしだわ」

「三娘子!」


 いきり立つチョン書杏シューシンを、離離リーリーがまた、今度は声を張り上げて呼んだ。


「駄目です、三娘子。すべて、わたしが勝手にしたことで、罰をうけるのは当然の――」

「それはわたくしが判断することよ。あなたがなにをしたか、わたくしはまだ聞いていないわ」


 主人を庇おうとする離離リーリーの言葉をぴしゃりとねのける。離離リーリーの背に伏せていた体を起こして、チョン書杏シューシンは改めてチョン章桑チャンサンの方へ向き直、きざはしの下で両膝をついた。


「二兄上、わたくしだって離離リーリーの話を聞く権利があるでしょう? 罰を与えるのなら、そのあとに」


 チョン章桑チャンサンの顔が懊悩に歪んだ。軽く唇を噛み、しばし考え込むようすを見せる。二兄が思考に時間をかける間、チョン書杏シューシンは少しも視線を逸らさずに待ち続けた。


 三妹にまったく引く気がないのだと分かると、チョン章桑チャンサンは眉間を揉んでため息をついた。


「分かった。ただし、今この場ですべて済ませなさい。離離リーリーは、先ほどわたしに証言した通りに話すことだ。内容はすべて書き留めてあるから、偽りがあればすぐに分かる」

「感謝します、二兄上」


 チョン章桑チャンサンの温情に拝礼して、チョン書杏シューシン離離リーリーの方へ振り返った。長台に伏せたまま顔だけを上げた侍女は、チョン書杏シューシンと目が合うと、途端にぼろぼろと涙を流し始めた。


「……申しわけありません」


 涙と一緒に吐き出すように、離離リーリーは謝罪を呟いた。


「申しわけありません、三娘子……わたしは、ずっと嘘をついていました」


 チョン書杏シューシンはしゃがみ込んで離離リーリーと目の高さを合わせ、頬に貼りつく後れ毛を払ってやる。


「分かっているから、泣かないで。あなたがなにをしたか、わたくしに聞かせて」


 ぐずぐずとはなをすすりながら、離離リーリーは返事として何度も頷く。深呼吸を繰り返してやっと嗚咽を飲み込み、途切れ途切れに話し始める。


「大公子は見つかっていないと、言っていましたが……本当は捜し始めて、一年ほどで見つけていました。でもそのときには、大公子は茶賊ちゃぞくをおこなっていて……三娘子を絶対に関わらせてはいけないと、思ったんです」


 政府専売品を私販する茶賊や塩賊と関係を持つことは重罪だ。離離リーリーはさぞ危機感を抱いたに違いない。


 ならば正直にそれを伝えればよかったものを、情報を遮断して遠ざける選択を彼女はした。チョン書杏シューシンを守る意図があったとしても、褒められる行動ではない。


 強い批難の感情が湧き、泣きたいのはこちらだとチョン書杏シューシンは思った。それが表情に出たのか、チョン書杏シューシンの顔を見た離離リーリーに焦りの色が浮かんだ。


「三娘子を裏切りたかったわけではないんです。ただ、大公子に会わせたくなくて」


 急に早口になって離離リーリーが弁解するのを聞きながら、チョン書杏シューシンはこめかみに手を当てて、すぐにでも怒鳴りつけたい衝動を抑え込んだ。


「関わるべきでないと思ったのに、どうして大兄上と行き来を続けていたの?」


 離離リーリーの眼差しが揺らいだ。いくらか迷いを見せたあと、顔を下げてぎこちない口調で答える。


「……三娘子を絶対に巻き込まない約束で、大公子に従っていました。逆らったら、約束はなしだと言われて。だから全部、言われた通りにしていたのに……なのに、なにも知らせずに展封てんほうへ帰ってくるなんて」


 勢いよく、離離リーリーが顔をあげた。その瞳には、これまでとは打って変わって強い怒りが宿っていた。


「三娘子は、大公子と――あの男と関わっては駄目なんです。あんな男と、関わるべきじゃなかったのに……あんな悪党が約束を守るなんて信じた、わたしが馬鹿だったんです」


 また離離リーリーの目に涙が盛り上がった。


「申しわけありません、三娘子……申しわけありません」


 泣きながら許しを請う離離リーリーを見ている内に、チョン書杏シューシンは感情が動かなくなっていくのを自覚した。何日――あるいは何年――もかけて摩耗した心が、今になって限界に近づいている。


 衝動のままにすべてを投げ出せたら、どんなに楽か。『霜葉紅そうようこう』の物語に身を任せていたならば、こんなに苦しむこともなかったかもしれない。


 不意によぎったその考えを、チョン書杏シューシンは軽く頭を振って追い出した。深い吐息と共に、離離リーリーへの問いかけを続ける。


「分かった。もう分かったわ。でも、それなら紅杏ホンシンを巻き込む必要はなかったのではないの? 証文を偽造するなんて手の込んだことまでして」


 嗚咽していた離離リーリーが、ふと口を閉じた。潤んだ目でチョン書杏シューシンを見詰めたあとで、細く声をこぼす。


「それは……知りません」


 今度こそ完全に感情が動きを止めたのを、チョン書杏シューシンは感じた。

 歳下の侍女は、淀みなく繰り返す。


「四娘子のことは、わたしは知りません」


 この侍女は、このに及んでまだ嘘をつくのか、と。

 静止した感情が、急速に温度を下げていく。体温まで、みるみる低くなっていくようだった。


「……そう」


 ごく短く返事をして、チョン書杏シューシンは立ち上がった。長台にうつ伏せている離離リーリーから目を逸らし、正面の宙を見る。


「打って」


 チョン書杏シューシンの一言で、離離リーリーが息をのむのが聞こえた。横で板を持って立っている家僕へと、チョン書杏シューシンは目線を向ける。


「処罰の途中だったでしょう。続けて。最後まで」


 家僕は戸惑いげに、黙っているチョン章桑チャンサンの方へと顔を向けた。背を向けているのでチョン書杏シューシンからは見えないが、二兄が頷いたのを気配で感じた。


 長台に近づいた家僕が、板を振り上げる。肉を打つ音と、侍女の悲鳴が同時にあがった。


 目の前の光景に心動かされることなく、チョン書杏シューシンチョン章桑チャンサンの方へと向き直った。渋い表情できざはしの上に座っている二兄を見上げてから膝をつき、拝礼する。

 チョン章桑チャンサンのため息が聞こえた。


「満足したか」

「はい……失礼します」


 チョン書杏シューシンは立ち上がってもう一礼して、その場から立ち去った。


 内院なかにわを歩く間、侍女の打たれる音と悲鳴が背後から聞こえ続けた。情を誘う憐れな声だが、胸はまったく痛まなかった。ひどく胸焼けがしているのは、空腹のせいだ。


 もっとも信頼していた者に、裏切られた。容赦をするつもりはなかった。


 この世界がどうあってもチョン書杏シューシンを悪女に仕立て上げたいというのなら、受けて立つ。

 たとえ汚名を着ようと、生き延びれば勝ちだ。

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