第二十一集 尋問

「大兄上は、今どこにいる」

「……え?」


 予想していなかった質問を二兄から投げかけられ、チョン書杏シューシンはぽかんとした。


「どこにって……どうして、それを今、わたくしに訊くの?」


 逃亡した大兄・チョン章蒿チャンハオの消息が分かっていたら、これほどまで危機的な状況には陥っていない。わけが分からずチョン書杏シューシンが聞き返すと、チョン章桑チャンサンの眉根がかすかに寄った。


「大兄上が帰ってくる以前からやりとりがあっただろう。少なくとも数ヶ月以上は。なぜ隠していた?」


 チョン書杏シューシンは耳を疑った。チョン章桑チャンサンの眼差しが、兄妹として向けられたことのない猜疑の色を孕んでいて、言葉を失う。


 雪柳閣せつりゅうかくで共に暮らした幼少期の数年以外で、チョン書杏シューシンチョン章蒿チャンハオと積極的に交流を持ったことなどない。そもそも十年ぶりに大兄が帰ってきたその日まで、いくら捜してもまったく居場所がつかめなかったのだ。連絡をしようもない。


 助けを求めるように、チョン書杏シューシンシャオユーの方を見た。目が合った彼はチョン章桑チャンサンよりも厳しい顔つきで、こちらを見据えていた。


 二人からの疑いの眼差しに、チョン書杏シューシンは狼狽を抑えきれずに立ち上がった。


「隠してなんていないわ! だって、帰ってくるまで大兄上がどこにいるかも分からなかったのよ。一体どこからそんな話が――」

書杏シューシン


 感情のまままくし立てようとしたチョン書杏シューシンを、チョン章桑チャンサンは鋭く呼んで止めた。チョン書杏シューシンひるんで口を閉じると、二兄は少しだけ眉間を緩めた。


「連絡をとっていたことを責めたいわけではない。大兄上とお前は同腹だ。兄妹としての情も深いだろう。しかしなぜ、交流はなかったと偽ってまで、わたしたちにそれを隠した」


 チョン紅杏ホンシンの無実を証明するために動くにあたって、当然のごとく最初にチョン書杏シューシンは大兄の行方の心当たりについて聴取をされていた。それに対し、ただの事実として、知らないし交流もなかったと答えただけだ。


 チョン書杏シューシンは素早くその場に両膝をつき、誓いを表す三指を顔の横に掲げた。


「天地に誓って、わたくしはなにも偽っていないし、大兄上ともなにもないわ。嘘だったら雷に打たれます。信じて、二兄上、ユー世子せいし。わたくしと大兄上が連絡をとっていたなんて、誰がそんなことを」


 頑としたチョン書杏シューシンの態度に、チョン章桑チャンサンは渋い表情のまま当惑げにシャオユーと顔を見合わせた。


 二人揃って顔の向きをチョン書杏シューシンの方へ戻すと、今度はシャオユーが口を開いた。


「実は、チョン家の奴婢ぬひチョン章蒿チャンハオと接触していたことは、皇城司の調査でかなり以前から分かっていてね。その奴婢がどうやら雪柳閣の侍女であるらしいことを、章桑チャンサンがすぐに調べ出してくれた」


 シャオユーの表情は変わらず厳しかったが、声色は意外にも落ち着きがあった。チョン章桑チャンサンが鷹揚に首肯したのを一瞥してから、世子はさらに続けた。


チョン章蒿チャンハオは長らく家に帰っていなかったが、生家と連絡をとり合うのはなんら不自然なことではないし、むしろそうすべきなくらいだ。家出の気まずさから家主にはばかったと考えれば、生母や実妹のいる雪柳閣とばかり往来があったことも十分に説明がつく。にもかかわらず、今の状況で事実をあえて隠されたとなると、わたしたちとしてはその意味を考えざるをえない」


 自分の知らないことが起きていると分かり、チョン書杏シューシンは目眩がするようだった。混乱する思考を必死に巡らせて、もたらされた情報の穴を探し回る。


「きっと母さんの侍女よ。わたくしは本当に、なにも知らなくて」


 バイ氏お付きの侍女は、雪柳閣で抱えている奴婢の筆頭だ。バイ氏とチョン書杏シューシン以外で、雪柳閣の奴婢たちに指示を出せるのは彼女だ――バイ氏の供として別宅へ送られてしまったので、今やすっかり力を失ったが。


 チョン書杏シューシンが切実に言い募るのを聞いて、チョン章桑チャンサンが書卓に肘を置いて前のめりの姿勢になった。


「それでは訊くが、書杏シューシン。数年前から、大兄上の行方を密かに捜し回っていたのはどういう理由だ」


 血の気が引くのをチョン書杏シューシンは感じた。なにも知らない彼らに『霜葉紅そうようこう』の話などできるはずがない。生き延びるためにおこなったはずのことが自身の首を絞めるなど、浅はかにも考え及んでいなかった。


「妹が兄の行方を捜すのは、そんなにおかしなこと?」


 チョン書杏シューシンが苦し紛れの言いわけをすると、チョン章桑チャンサンはため息のような音をたてて首を振った。


「つまり、なんらかの理由で大兄上を捜し出し、誰にも報せることなく連絡をとり合っていた、ということで間違いないな」

「それは……」


 反論する言葉が咄嗟に出なかった。チョン章蒿チャンハオの捜索をしていたのは事実なだけに、いくら否定の言葉を並べたところで信憑性がなく、二兄と世子からの心証が悪くなるばかりだ。


 黙り込むチョン書杏シューシンを見て、チョン章桑チャンサンは眼差しに悲痛な色を滲ませた。


「わたしたちは、ただ正直に話して欲しいだけなのだ。大兄上とどういうやりとりがあったかを教えてくれれば、これから先の手がかりにもなるだろうし、わたしたちも安心ができる」

「そう言われても……」


 ないものをどう教えろと言うのか。いよいよ窮地に立たされ、チョン書杏シューシンは膝をついた体勢からぺたりと座り込んだ。今はいくら頑張っても、二兄たちの疑いを晴らせる言葉が思いつけなかった。


 三妹がなにも言わないと見ると、チョン章桑チャンサンは上体を軽く反らして椅子の背もたれに身を預けた。


「あまり荒立てずに進めたかったが、お前に協力する気がないのなら離離リーリーを尋問するしかない」

離離リーリーを?」


 つい、チョン書杏シューシンは反応した。チョン章桑チャンサンは腕を組んで、ゆっくりと頷く。


「大兄上と接触していた奴婢は、どうやら離離リーリーの指示で動いていた。おそらく、直接会っていたこともあるはずだ」


 離離リーリーが動いていたとなれば、その主人であるチョン書杏シューシンに疑いの目は向く。


 二兄と世子に試されたのだと、チョン書杏シューシンは気づいた。嘘でなかったとしても、言葉を尽くして否定するほど二兄と世子からの信頼を損なっていくだけだったのだ。


 チョン章桑チャンサンがやおら立ち上がり、自失しているチョン書杏シューシンに歩み寄ってきた。身を屈めてチョン書杏シューシンの手をとり、慎重に引き上げるように立ち上がらせる。


「明日、離離リーリーから話を聞く。お前はもう、雪柳閣に戻ってゆっくり休みなさい。今日は疲れただろう」


 ようよう立ち上がったチョン書杏シューシンは、腕を支えてくれているチョン章桑チャンサンを上目に窺い見た。二兄の表情にはまだ厳しさがあるが、眼差しには異母妹に対する気づかいも見えて、チョン書杏シューシンは泣き出したい心地になった。


 けれど今、泣くわけにもいかず、チョン書杏シューシンチョン章桑チャンサンからそっと離れて、退出の礼をした。


「……二兄上、世子。失礼します」


 美人榻ねいすに座っているシャオユーに対しても一礼して、チョン書杏シューシンは逃げ出すように東廂房とうしょうぼうをあとにした。


 すっかり打ちのめされて、チョン書杏シューシンは夜の游廊わたりろうかをとぼとぼと歩いた。どうやら本当に離離リーリーがすべての元凶らしいとも判明したことが、疲弊した心情にさらに追い打ちをかける。


 離離リーリーがずっと以前からチョン章蒿チャンハオと繋がっていたのだとしたら、その情報を意図的にチョン書杏シューシンに伝えていなかったということになる――リン墨燕モーイェンの妨害ではなかったのだ。


 チョン書杏シューシンを裏切り、チョン紅杏ホンシンを陥れることで、離離リーリーに一体どんな利益があるのか。


 令嬢と侍女という関係ながら、幼少期から並んで字を学び、書を読み、共に育ってきた。ときには実妹以上に妹のように思いやってきたつもりだ。主人という立場から厳しく当たってしまったこともあったが、恨みを買うほどの心当たりは思いつかなかった。


 チョン書杏シューシンが雪柳閣に着くと、出迎えたのは離離リーリーでない侍女だった。自分より歳上と思しきその侍女に見覚えがあり、チョン書杏シューシンはちょっと首をひねった。


「東廂房の侍女が、どうしてここに?」


 侍従や侍女は、同じやしき内でも居所ごとに抱えられていて、他の居所のことにはおおよそ干渉しないものだ。

 チョン書杏シューシンの疑問に、チョン章桑チャンサンに仕える侍女は礼儀正しく答えた。


「二公子より、三娘子のお世話を仰せつかりました」

離離リーリーはどうしたの?」

「今夜は別の場所で過ごされます。必要なことは、わたくしにお申しつけください」

「そう……」


 聴取の前に口裏合わせをさせないための処置だろう。やはりチョン章桑チャンサンは、チョン書杏シューシンに猜疑の念を抱いている。家族の中では二兄が一番の味方と思っていただけに、ひどく落胆した。


 二兄の侍女に、一人にして欲しいとだけ伝えて、チョン書杏シューシンは着替えもせず寝房しんしつにこもった。親しんできた生母も侍女もいない雪柳閣は、まるで知らない場所であるような心許こころもとなさがある。


 今のチョン宅はどこにいても満ちる空気すべてが張り詰めて感じられ、少しも安らげる場所がない。


 チョン書杏シューシン床榻しんだいに座り込み、折り畳んで懐に仕舞っていた紙片をとり出した。開いてみた紙面に捺された霜葉茶坊そうようさぼうの印を、わずかなあかりにかざして眺める。


 牢獄で四妹から聞いた印を確認するためにスン女将から借りてきた、茶坊と茶商とで交わされる取引証文だ。本来なら部外者であるチョン書杏シューシンの手に渡るべきものではないが、チョン紅杏ホンシンを助けるために必要だと無理を言って貸して貰ったのだ。


 この印を見せてチョン紅杏ホンシンが捕らえられる原因となった証文の不自然さを説き、離離リーリーから話を聞くつもりでいた。

 しかしどうやらその機会がないまま、二兄と世子に悪事を暴かれることになりそうだ。


 大事な証文をなくさないよう敷き布団の下に押し込んで、衣が皺になるのも構わず床榻しんだいへと倒れ込む。

 誰一人として味方のいない心細さに、チョン書杏シューシンはじっと身を縮めた。

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