第十八集 牢獄

 石壁に囲われた牢獄の通路は、外よりもいくぶん気温が低かった。左右にならぶ頑丈な木格子の牢には、高い位置に採光と通気用の小さな窓が開けられているが十分でなく、えた悪臭が淀んでいる。


 二の腕がかすかに粟立つのを感じ、チョン書杏シューシンは竹の食盒おかもちを持つ両手を軽く重ねてさする。前を歩くリン墨燕モーイェンの黒衣の背中だけを見据え、極力、周囲に目をやらぬように冷たい通路を進んだ。


 チョン書杏シューシンチョン紅杏ホンシンと面会するために、リン墨燕モーイェンの案内で皇城司の牢獄にきていた。浩国公こうこくこう世子せいしシャオユーと二兄・チョン章桑チャンサンの働きかけ、およびリン墨燕モーイェンの協力で、一人だけならばという条件でどうにか面会の許しがえられたのだ。


 チョン紅杏ホンシンが捕らえられたのは、やはり大兄・チョン章蒿チャンハオが原因だった。


 徒党を組んで茶の私販を生業なりわいとする者たちを差して、茶賊ちゃぞくと言う。チョン章蒿チャンハオ展封てんほうに帰ってくる以前には、茶賊に身を置いて販路を開拓する役割を担っていた。


 本来なら掃討すべき茶賊を、茶の産地の雲州では州の長官たる知州ちしゅうが率先して身内にとり込み、収入源としていたのだ。


 京城・展封てんほうチョン章蒿チャンハオが逃亡した一方で、雲州では知州だけでなく、地方官が合わせて十数名が捕らえられた。


 なお、皇城司による追及はまだ終わってはおらず、この件はこれからさらに鵬臨ほうりん国の中枢にまで波及していくことになる。


 チョン章蒿チャンハオはよほど焦って逃げたらしく、茶葉のおろし先である顧客一覧と、取引証文を残していった。茶の育たない北方地域との取引が主として見られたが、その中にチョン紅杏ホンシンの名が含まれていた。証文には、署名の上にしっかりと朱の拇印が捺されていたという。


 証文に書かれていた取引内容の目録と、霜葉茶坊そうようさぼうに置いてあった銘茶が一致したのも決め手になった。


 空の牢をいくつか通り過ぎたところで、先を行くリン墨燕モーイェンが足を止めた。彼の視線の先へ、チョン書杏シューシンも顔を向ける。他より人が少なく静かな一帯である以外は、他となんら仕様の変わらない牢だ。


 近づいてみると、粗いむしろと低い卓があるだけの薄暗い牢の隅に、うずくまっている白い人影があった。


紅杏ホンシン!」


 チョン書杏シューシンが呼ばわると、チョン紅杏ホンシンはぱっと顔を上げた。姉の姿を認めて軽く目をみはり、よろめきながら立ち上がって駆け寄ってくる。


 ほんの数日の間ですっかり憔悴したチョン紅杏ホンシンの姿に、チョン書杏シューシンは胸を痛めた。髪は艶を失って垂れ落ち、瞳に陰気な影を作っている。白い囚服を着せられていて、そこから覗く肌はさらに白く血の気を失って見えた。


 格子越しにチョン書杏シューシンの伸ばした手をつかむなり、チョン紅杏ホンシンは今にも泣き出しそうに顔を歪めた。


「三姉上」

紅杏ホンシン。無事でよかった。怪我はない? 乱暴なことはされていない?」


 チョン紅杏ホンシンは縋るように手を握りながら、チョン書杏シューシンの問いに何度も頷く。


 姉妹がそうしている間に、リン墨燕モーイェンが牢の扉を解錠した。チョン書杏シューシンはいったん手を引いて牢の中へと駆け込み、改めて四妹と抱擁を交わす。


「三姉上。わたし、なにもしていないの。信じて」

「分かっているわ。紅杏ホンシンが悪いことをするはずがないのは、ちゃんとみんな分かっているから」


 元気づけるように、チョン書杏シューシンチョン紅杏ホンシンの肩を撫でてやる。麻の囚服は固くてひどく肌触りが悪かった。それだけで、牢の生活の過酷さが思いやられた。


 気をとり直すように腕を放し、チョン書杏シューシンは提げていた食盒おかもちを軽く持ち上げて見せた。


スンさんから差し入れを預かってきたの。紅杏ホンシンの好きな桂花けいか緑豆糕りょくとうこうよ」


 牢の中央にある粗末な卓に食盒おかもちを置いて蓋を開く。蒸してつぶした緑豆を花型に押し固めた菓子は、陰気な牢の中では異質なほど華やいだ淡黄色をしていた。


 卓についたチョン紅杏ホンシンの前に、チョン書杏シューシン食盒おかもちから出した皿を置いてやる。


 チョン紅杏ホンシンは渡された手巾で指を拭ってから、緑豆糕りょくとうこうをそっと摘まんだ。小さくひと口かじり、わずかな甘みを惜しむかのようにゆっくりと噛み締める。


 そんな四妹のために、チョン書杏シューシンは菓子と一緒に食盒おかもちに入れてきた磁器の茶器をとり出して茶を淹れてやった。


「口が渇くからお茶も飲んで。紅杏ホンシンほど上手には淹れられないけれど」

「十分よ。ありがとう、三姉上」


 甘いものを食べたことで人心地ひとごこちついたようで、チョン紅杏ホンシンの表情にも声にも少しばかり生気が戻ったようだった。空腹を思い出したように、緑豆糕りょくとうこうを食べ進める口も次第に大きくなっていく。


 チョン書杏シューシンは茶のお代わりをいでやりながら、慎重に口を開いた。


「ねえ、紅杏ホンシン。大兄上から茶を買っていたというのは本当?」


 問われたチョン紅杏ホンシンは口の中の菓子を茶で一気に喉へ流してから、顔をしかめてチョン書杏シューシンを見た。


「大兄上からは買っていないし、そういう契約もしていないわ。茶坊の帳簿を見たらすぐに分かることよ。お金の出入りはスンさんがしっかり管理してくれているし、証文は必ず二部書いて双方で持つものよ。わたしも目を通しているから間違いないわ。それに、大兄上と関わるなって言ったのは三姉上でしょう」


 散々、同じ内容を尋問されたのだろう。苛立った声の響きと傷ついた眼差しを四妹から感じとり、チョン書杏シューシンは慌ててとり繕った。


「ごめんなさい。わたくしは一度だって紅杏ホンシンを疑ってはいないわ。ただ、だとしたら大兄上が持っていた証文に、なぜ紅杏ホンシンの名前があったのか分からなくて。拇印も一致したと聞いているけれど、紅杏ホンシンは実物を見た?」


 チョン紅杏ホンシンは不服げだった表情を思案顔に変えて、緩くかぶりを振る。


「見たことには見たけれど、内容を読み込めるほどは見せて貰えなくて。でも、署名はわたしの字ではないわ。しかもその証文の話、聞けば聞くほどおかしくて」

「どうおかしいの?」

「証文を交わすほどたくさんの茶葉、それも高級な雲州産のものをわたしが買うなら、まず茶坊で出すためでしょう? だとしたら証文の署名をわたしがしたとしても、印は拇印でなく茶坊の印を使うはずなの。スンさんが保管してくれている他の茶商との証文はそうなっているはずよ」


 少しだけ考える間を置いてから、チョン書杏シューシンは問いを続けた。


「茶坊の印はどこに置いている?」

「茶坊の戸棚に仕舞ってあるわ。戸の鍵は鶯栖閣おうせいかくに。必要なときだけ持っていくようにしているの」


 チョン紅杏ホンシンが寝起きしているチョン宅の鶯栖閣を、チョン書杏シューシンは思い浮かべた。その質素な室内のどこに鍵が隠せるだろうかと考える。


 しかし鍵を手に入れたところで、茶坊が閉鎖されてしまっているのでは印を確かめようがない。皇城司による捜査で、すでに押収されている可能性もある。


 けれども、今回の一件に印は使われていない。となれば、よくよく検証するべきは印の代わりとなっている拇印の方だろう。


「ありがとう、紅杏ホンシン。参考になったわ。今、二兄上と世子ができる限りのことを調べ直しながら、あちこち働きかけてくれているの。今の話を二人に伝えたら、きっともっと色々なことがはっきりするはずよ。だからもう少しだけ辛抱して。絶対に助けるから」


 チョン紅杏ホンシンの手をとり、チョン書杏シューシンはまっすぐに目を見て言った。表情は晴れないながらも、四妹は手を握り返して強く頷いた。


 時間はあまりない。チョン紅杏ホンシンがまだ無事でいるのは、同時に捕らえられた主犯の官吏の尋問――とは名ばかりの拷問による自白強要が先におこなわれているからだ。末端かつ女子おなごであるチョン紅杏ホンシンは、あとに回されているに過ぎない。


 チョン紅杏ホンシンは力をとり戻そうとするように、差し入れの菓子をすべて食べ切った。空になった皿を食盒おかもちに仕舞ったチョン書杏シューシンは、もう一度だけ四妹と抱擁を交わして、名残惜しく牢をあとにした。


 牢獄を出て皇城の外へ向かう道すがら、チョン紅杏ホンシンの言っていたことを反芻する。皇城内を歩くのは初めてだったが、ゆっくり見物する気分にはとてもなれない。


 いかにして、チョン紅杏ホンシンの署名と拇印の入った証文が偽造されたか。『霜葉紅そうようこう』の内容を思い出せば見当はつく。あとは、チョン書杏シューシンの代わりにそれを実行している者が誰であるのか。


 考えるほど、あまり望ましくない答えに辿り着きそうで、臆したチョン書杏シューシンは思考をいったん横に置いた。


 結論を出す前に、話を聞くべき相手はもう一人いるのだ。


 息を吸い込んだチョン書杏シューシンは、前を歩くリン墨燕モーイェンの黒衣の背中を見据えた。

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