第八集 簪児

 一人乗りの輿こしがゆっくりと石畳に下ろされ、正面のすだれが持ち上げられた。腰かけから体を浮かせたチョン書杏シューシンの顔の前に、外から素早く手が差し伸べられる。少し驚いて手の主の方へと視線を上げると、欧陽オウヤンイーのやや緊張の窺える微笑があった。


 チョン書杏シューシンは一瞬だけ躊躇いながらも、彼の手を借りて輿を降りた。


 二人がやってきた清雲観せいうんかんは、ほのかに初夏の気配が漂い始めていた。墓参りの時季である清明節を過ぎてなお大勢の参詣者が石段に列をなし、遅咲きの碧桃へきとうが淡雪のごとき花をつけているのを楽しげに眺めている。


 のんびりとした歩みで流れていく参詣の列に、チョン書杏シューシン欧陽オウヤンイーに手を引かれるまま加わった。


 この日、清雲観への参詣を提案してきたのは、欧陽オウヤンイーだった。奥院おくのいんの牡丹が咲き始めているので見に行こう、というのが誘いの趣旨だ。


 出かけ先として目新しさはないが、とり立てて断る理由もない。展封てんほう郊外の清雲観であれば午前中に出れば正午過ぎには帰ってこられる距離なので、そのまま霜葉茶坊そうようさぼうへ足を運ぶこともできる。


 茶坊ではバイ氏の計略通りひと騒ぎ起こすのが本来の筋書きではあるが、チョン書杏シューシンはあまり事を大きくせず収めるつもりでいた。


 参詣者の列は長く見えたものの、予想よりも早く順番は回ってきた。線香の香りで満たされた荘厳な本堂での参拝を済ませ、チョン書杏シューシン欧陽オウヤンイーはすぐに、山門へ戻る列から抜けて奥院へと向かう。


 本堂横の細い石段を黒衣の道士らとすれ違いながらあがり、白壁を円に穿った月亮門げつりょうもんを抜けた先が奥院の前庭だ。


 多少は評判になっているとあって、本堂ほどの賑わいではないにせよ奥院にも見物客の姿がいくらかみられた。先客らの優雅な歩みを真似るように、チョン書杏シューシンたちも石畳の庭に並べられた鉢植えの牡丹を眺めて回る。


「本堂は人が多かったですが、疲れてはいませんか」


 緩やかな歩調を維持したまま、これまで言葉少なだった欧陽オウヤンイーが口を開いた。当たり障りない気づかいの言葉に、チョン書杏シューシンは安心感と退屈さを同時に覚えつつ笑みを返す。


「平気です。わたくしよりも、欧陽オウヤン公子の方がお疲れなのではありませんか。わたくしは山門まで輿に乗っていましたけれど、欧陽オウヤン公子はずっと徒歩でいらっしゃったでしょう」


 展封てんほうを出てから清雲観の山門に着くまで、欧陽オウヤンイーは輿の隣を徒歩でついてきていた。清雲観に着いたあとも休みもとらずに石段をのぼり、こうして散策を続けている。


 チョン書杏シューシンが答えたことにやや安堵したようすで、欧陽オウヤンイーの表情から少しだけ強張りが抜けた。


「心配にはおよびません。書生をしていると体力がないように思われがちですが、これでも体を動かすのは結構好きで」

「なにか、競技などなさっていらっしゃるんですか」


 欧陽オウヤンイーは少しだけ考える仕草をした。


蹴鞠しゅうきくは得意だと言えると思います。先日も仲間内でのことですが、三点を入れました」


 蹴鞠は二組対抗で足のみを使ってまりをとり合い、毬門きゅうもんと呼ばれる輪に蹴り入れた回数を競う競技である。チョン書杏シューシンも観戦したことがあるが、大人数でまりを争奪し、背丈より高い位置にある毬門へ正確に蹴り込むには、それなりの身体能力が必要だ。得意と言うからには、かなり体力がある方なのだろう。


「わたくしはそういった競技はあまり得意でないので、得意な方は尊敬してしまいます」

「興味があるのでしたら、競技会があるときには招待をしますが、いかがでしょうか。観戦だけでも」


 つけ足すように言った終わりの一言で、欧陽オウヤンイーの声がかすかに震えた。また口元が強張っている。

 いつまでたっても不慣れさが抜けない公子に、チョン書杏シューシンはお手本を示すように極上の笑顔を向けてやった。


「楽しみにしていますね」


 その後もぽつぽつと互いのことを語りながら、奥院の前庭をそぞろ歩いた。紅、白、紫に咲き誇る牡丹の大輪の間を通り抜けるたび、淡く甘い香りが鼻腔を通って気持ちを冴えさせる。


 やがて話題も尽き、そろそろ下山しようかという頃合い。わずかな沈黙の隙を突くように欧陽オウヤンイーが庭の真ん中で足を止めた。


チョン三娘子さんじょうし


 呼ばれて、チョン書杏シューシンは一歩だけ前に出た位置から振り返った。


「実は、今日はこれを渡したくて」


 そう言いながら、欧陽オウヤンイーは懐へと手を差し入れる。慎重な手つきでとり出されたのは――紅珊瑚の飾られた金の簪。


 見覚えのある品に、チョン書杏シューシンは凍りついた。

 立ち尽くす彼女のようすには気づかないまま、欧陽オウヤンイーは簪を差し出す。


「これを見たとき、チョン三娘子にとても似合うと思ったんです。それで、その、よかったら」


 息をのむ間を置いてから、チョン書杏シューシンおののきを堪えつつ簪を受けとった。


 金軸の先に飾られた紅珊瑚は自然の形のまま、ごく小さな枝を伸ばしている。真紅の枝には、小粒の真珠が実っている――シャオユーからチョン紅杏ホンシンに贈られたのと同じ簪だ。


「これは、一体どこで?」

「え?」


 欧陽オウヤンイーが戸惑いを見せたことで、チョン書杏シューシンはお礼より先に疑問が口をついてしまったことに気づいた。慌てて簪から公子へと目線を移し、とり繕う言葉を続ける。


「あ、いえ。とても素敵な簪ですから、どちらで手に入れられたのか気になって。可能なら、扱っている店にもおもむいてみたいと思ったのです」


 得心がいったようすで、欧陽オウヤンイーは表情を緩めた。


州橋しゅうきょうのたもとに出ていた露店で見つけたんです。南洋の細工物を多く置いていましたが、流しの店だったようで今はもういません。またその内にやってくることは、あるとは思いますが」

「そうですか……」


 落ち込んだ風を装って、チョン書杏シューシンは改めて簪へ視線を落とした。


 見れば見るほど、先日にチョン紅杏ホンシンが持っていた簪に相違なかった。茶坊の厨房で実際にこの手にとっているのだ。見間違うわけがない。

 チョン紅杏ホンシンへ確かに返したはずの簪が、なぜ欧陽オウヤンイーの手に渡っているのか――心当たりが、あるにはある。


 深呼吸して強引に動揺を押さえ込み、チョン書杏シューシンは笑顔を作り直して顔を上げた。


「ありがとうございます」


 お礼を言えば、欧陽オウヤンイーは安堵の表情で頬を染めた。その表情だけで、今日一番の目的がこの簪を渡すことだったのだと分かる。

 あまりにも正直な公子に対して申しわけない心地を味わいつつ、チョン書杏シューシンはこのあとの予定変更を決めた。


欧陽オウヤン公子。わたくしはそろそろ帰宅しようと思います。久しぶりにたくさん歩いたので、疲れてしまって」

「気がつかず申しわけありません。それなのに、ここまでつき合ってくださり、感謝します。お宅までお送りします」


 欧陽オウヤンイーがそっと手を差し伸べる。疲れたと言った手前、気づかいを拒否するのも不自然なので、チョン書杏シューシンは彼の手をとった。


 帰路に就きながら、チョン書杏シューシンはもう一度、簪に目をやった。


 『霜葉紅そうようこう』の物語に逆らって手放したはずの簪が、結局はチョン書杏シューシンの手の中へとやってきた。こんなことをしてのける人物は、一人しかありえない。


 とにかく早急に、リン墨燕モーイェンに会わねばならない。

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