第二集 転生

 『霜葉紅そうようこう―さやけき恋は花よりくれないなり―』は、鴇遠ときとおリンによる長編小説だ。複数巻に渡るシリーズを通して、チョン家の庶子・チョン紅杏ホンシンと、浩国公こうこくこう世子せいしシャオユーとの、困難きわめる恋模様を描いている。


 その作中において、チョン書杏シューシンチョン紅杏ホンシンの腹違いの姉として、リン墨燕モーイェンシャオユーを支える友人として、共に登場する。今ここにいる彼ら、そのままに。


 チョン書杏シューシンの中で、チョン家で育ってきた今日までの自分と、『霜葉紅』の読者として思い描いてきたチョン書杏シューシンの姿とが拮抗した。所々で溶け合い混沌とする記憶の中で、読者としての自分が最後に見た文字列が、鴇遠ときとおリンの訃報であったことを思い出す。


「……鴇遠ときとお、先生?」


 チョン書杏シューシンが慎重に問うと、リン墨燕モーイェンの口元が歪んだ。冷笑のようだった。


「やはり知っていたな」


 得心がいったとばかりに、リン墨燕モーイェンは呟く。だがチョン書杏シューシンとしては、そうたやすく呑み込めるはずがない。自然と語調が問い詰めるものになる。


鴇遠ときとお先生? あなたが? 本当に? でも、あなた男性――」

「男が恋愛小説を書いてはいけないとでも?」


 問いかけの形で叱られたのが分かり、チョン書杏シューシンは口をつぐんだ。


 確かに、作家・鴇遠ときとおリンの性別が明示されたことはなかった。しかし甘やかで叙情的な恋愛描写から、女性だと勝手に思い込んでいた――少なくとも、読者にあえて女性だと思わせていたふしはあるはずだ。


 本当にリン墨燕モーイェン鴇遠ときとおリンだとする。それでもまだ、せないところがある。


「でも……鴇遠ときとお先生は亡くなったって」


 チョン書杏シューシンが言った直後、リン墨燕モーイェンの瞳に影が差した。嘲るような表情はそのまま、眼差しだけが温度を下げる。


「そう。それで今、ここにいる」


 低く答えた声まで冷え冷えとしていた。

 彼の言葉は本当かもしれない。そうチョン書杏シューシンが考えを改めるほど、その声音は痛みを伴って聞こえた。


 鴇遠ときとおリンが亡くなり、『霜葉紅』のリン墨燕モーイェンに生まれ変わった、ということだろうか。理解はまるで追いつかない。さりとて、死んだと思った人が姿を変えて生きていると思えば、喜ぶべきかもしれない。


 では、自分は――と、チョン書杏シューシンは思案して、顔を伏せる。喪衣の頭巾へ手を差し入れ、後頭部に触れた。


 鴇遠ときとおリンの訃報を見た直後に階段を踏み外して、頭を打った。そこまでは覚えている。その先はもう、今のチョン書杏シューシンとしての記憶しか存在していない。

 同じだとリン墨燕モーイェンが言った通り、自分も一度死んで生まれ変わったと考えるべきだろうか。


 記憶と共に痛みまで蘇った気がして、チョン書杏シューシンは強く後頭部を押さえる。手の平に触れたうなじは、九歳の子供らしい頼りない細さだった。


「君は、霜葉紅をどこまで読んでいる?」


 考え込んでいたところへ問いが降ってきて、チョン書杏シューシンは慌てて顔を上げる。こちらを見るリン墨燕モーイェンの表情から、嘲りの色は薄まっていた。


 ほとんど反射的に、チョン書杏シューシンは勢い込んで答えた。


「全部読んでいます! もう台詞も暗唱できるくらい、何度も」


 どれだけ読んだか、把握できる回数はとうに越えていた。時が許すならば一晩でも二晩でも語り通せる自信がある。これほどまでにのめり込み、夢中になった物語は、『霜葉紅』の他にない。すぐにでも語り出したい心情を、体の前で両手を握り合わせることでやっと堪える。


 勢いに気圧されるように、リン墨燕モーイェンがやや身を仰け反らせた。彼が分かりやすく驚く姿は珍しい。チョン書杏シューシンは前のめりまま、その表情につい見入った。


 切れ長い目元が冷ややかな以外は、印象の薄い顔の公子だと思っていた。ところが情感ある表情をすると、一切の無駄を削いだような顎や鼻梁の造作に爽やかさがあった。固く結ばれていたその口角が、ふと緩む。


「それなら話は早い」


 過去に聞いた彼の声でもっとも明るい響きで、リン墨燕モーイェンが呟いた。彼は一歩さがって背中を伸ばし、チョン書杏シューシンの目を見返す。


「君が霜葉紅のチョン書杏シューシンをそのままのなら、なにも問題はない」


 続けて言った声音もほがらかだった。けれどリン墨燕モーイェンのその明るさは、逆にチョン書杏シューシンの興奮を急速にしぼませた。

 しぼんだ興奮は不穏さへと姿を変えて、チョン書杏シューシンの産毛をさする。


「なぞる、というのは、どういうことですか」


 チョン書杏シューシンは問わずにいられなかった。

 彼の言う意味が分からないわけではない。自分たちが本当に『霜葉紅』の登場人物であるならば、物語に身を任せるのが正しく、自然なのだろう。


 しかし、である。

 『霜葉紅』におけるチョン書杏シューシンは長らくシャオユーに恋慕し、恋敵であるチョン紅杏ホンシンへの嫉妬と憎しみを育て、やがて妹の排除を画策する――すなわち、悪役なのだ。


 リン墨燕モーイェンの表情がまた冷めたものになった。奇妙なものでも見るように、彼の片眉が上がる。


「この先の物語は、もう分かっているだろう。それに従えばいい」

「それはもちろんです。ただその、わたくしは……チョン書杏シューシンは確か、最後……」

「死ぬことになる。そういう物語だ」


 言いよどんだ言葉を、リン墨燕モーイェンがあっさりと引きとった。

 チョン書杏シューシンの喉が、悲鳴じみた音をたてた。


「そんな!」


 たまらず叫び、震え出す己の肩を強く抱いた。


 妹をおとしいれたチョン書杏シューシンが、罪を暴かれ、失意の中で命を落とす――読者の間で必ず話題に上がる、『霜葉紅』でも屈指の劇的場面の一つだ。

 その悲劇が、この身に降りかかる。考えただけで、背筋が凍る。


 恐れをなすチョン書杏シューシンを見下ろし、なお分からないという顔でリン墨燕モーイェンは首を振った。


「なにを驚くことがある? 霜葉紅は台詞まで記憶しているのだろう。そして君は、チョン書杏シューシンだ」


 当たり前だという口調で、なんの感情も込めずにリン墨燕モーイェンは言う。それが、チョン書杏シューシンの神経を逆撫でた。


「……わたくしに、死ねと言うの」


 震えを脾胃ひいに押し込めて、チョン書杏シューシンは目の前の公子を睨み据える。


 リン墨燕モーイェンがわずかに目をみはった。が、直後にはひどく不快げに眉宇びうを歪めた。ため息のような音をたてて、彼は繰り返す。


「もう一度言う。そういう物語だ。それを知っている君が、なぜ怒るのか分からない」


 相手から言われたことで、チョン書杏シューシンは自身の中に灯った感情が怒りだと自覚した。そうなれば、もう我慢は効かなかった。


「分かっています。霜葉紅がどんな物語かも、チョン書杏シューシンがどんな人物かも、ちゃんとすべて分かっています! でも、だからって、死ぬと分かっていることを自分からするなんて。そんな自殺じみたこと――」

「これは、わたしの作品だ!」


 リン墨燕モーイェンが叫んだ。初めて聞いた彼の大声に驚き、チョン書杏シューシンは黙り込む。少女を見下ろす切れ長な眼差しが、さらに鋭利に細まる。


「君に、作品を書き替える権利はない」


 そう言ったリン墨燕モーイェンの声と瞳にあるのは、殺意にも近い拒絶と嫌悪だった。


 チョン書杏シューシンは唇を噛み締めた。こんなに理不尽なことは、絶対に許容できない。そう思うのに、怒りで頭の中が沸騰したようで、言い返す言葉がうまく見つけられない。

 彼女の思考を見抜いたように、リン墨燕モーイェンは吐き捨てるような笑い声をたてた。


「気に入らないなら二次創作でもしたらいい。同人誌を作るくらいなら許可しよう」

「二次創作って……」


 誇りを傷つけられたと感じ、チョン書杏シューシンはますます怒りに震えた。そんな彼女を、リン墨燕モーイェンは明らかなさげすみを込めて睥睨へいげいした。


「霜葉紅の作者はわたしだ。君が勝手な行動を起こして、物語を崩壊させることがあれば――」


 言葉を句切り、公子は背中を曲げて少女に顔を寄せ、囁く。


「――よりむごい死に方を用意してやる」


 チョン書杏シューシンが息をのむ間に、リン墨燕モーイェンは離れていった。


「待ちなさい、リン墨燕モーイェン!」


 慌てて呼び止めたが、彼はもう聞く耳を持たず、顔を背けて歩み去る。小径こみちに散った花弁を踏んで遠ざかる背中を、チョン書杏シューシンは唖然として見送るしかできなかった。


 世子らに続き、リン墨燕モーイェンの姿も葬礼中の正房おもやへと消える。途端に膝の力が抜け、チョン書杏シューシンはその場にへたり込んだ。


 誰もいなくなった内院なかにわを、ただ放心して眺めた。踏まれた海棠の花弁が、風で舞い上がる。泥で汚れたそのあかい欠片を、無意識に目で追った。


 自分は、一体なにをあやまったのか。死を望まれるほどの、なにをしたというのか――否、これから罪を犯すことを望まれているのだ。

 『霜葉紅』が、そういう物語であるから。


 あらがったところで、結局はリン墨燕モーイェンに惨殺されるだけかもしれない。ここが物語の中であるならば、そもそも自身の存在自体がまやかしだとも言える。

 だとしても、明らかな死の運命に自ら飛び込む選択など、彼女にはできなかった。


「……生き延びてやる」


 目の前に落ちてきた花弁を鷲づかんだ。


 この花弁のように命を踏みにじられるなど、許せるはずがない。九歳の少女の胸の内で、さらなる怒りが燃え上がる――この感情の苛烈かれつさこそ、『霜葉紅』のチョン書杏シューシンを悪女たらしめる所以ゆえんである。別人の記憶が入り込もうと、根底の性質が消えはしないのだ。


 チョン書杏シューシンは立ち上がり、宿敵となる相手の名を叫ぶ。


鴇遠ときとおリン……リン墨燕モーイェン! 殺せるものなら殺してみなさい。わたくしは――」


 これは、自身への誓いであり、運命への宣戦布告だ。


「絶対に死なない」

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