最後の一錠 女学生たちは終わりを服用する。
あたしたちはもうすぐ卒業だ。女学生が女学生でなくなるのだ。
あたしは母に相談することもなく卒業後の進路を決めた。学校の先生は親も交えたいようだったけど、電話口の対応で無理らしいと悟り、あたしの意志を尊重してくれた。
教室のみんなも、それぞれ落ち着くべきところに落ち着いたようだ。そうでなくてもいずれにせよ学校からは追い出される。
そうでなくてもいずれにせよ女学生たちには終わりが来てしまう。
女学生かどうかなんて、世の中に規定されたものに過ぎない。あたしが生まれて死という終りを迎えるのとはわけが違う。
近現代は、人間の死は管理されている。他人に見てもらわなければ、少なくとも社会的には死と認めてもらえない。
なんか愉快だ。
認めてもらえようがもらえなかろうが、あたしの死はあたしだけのものだ。あたしの終わりはあたしだけのものだ。
もちっと昔はどうだったんだろうか。漠然とだが、埋葬が始まった頃とかは制度的なものだったのだろうか。
気にはなるが調べない。どうせ本当のことなんかわかりはしない。むしろあたしが得ていた知識が間違っていたとか、よく出来た作り話をみんなが信じてただけだったとか、考古学上の発見が捏造だったとか、そんなものが並べられたりする。
余計な混乱をもたらすだけだから調べない。あたしは自分で考える。
古代において埋葬は、ま、邪魔なものを仕舞う感覚に近いんじゃないか。邪魔ったってごみや壊れた品物のようには扱えない。ある意味壊れた品物だけど、古代人だって社会性が生じているなら、そこらへんは抵抗があるはずだ。
邪魔とはひでえ言い方だ。言い方はひでえかも知らんが、そういう考え方をしても良いはずだ。宗教的な感覚とか穢れだとかなんだとか理屈をこねる前に、邪魔ではあるがそんなにぞんざいには扱えないから、埋葬という体裁を取り繕った。
そのほかは、あたしには余計な話のように感じる。身近なひとの死に接する場面は、現代よりずっと多かったはずだ。
いや、ほんとのことは知らんよ。短命だっただろうからなんとなくそう規定したんだけど、みんなが短命なら死者の見送りに立ち会う回数は減るとも考えられる。
お話の精度を気にしても、今更どうにもなるまい。死にやすい環境ではあっただろうから良しとしよう。
何の話だっけ。
年に一回くらい身近で誰か死ぬと仮定しよう。そこに悲しみがないとまでは言わない。悔しい思いもあって当然だろう。いくら古代人だってそれが当然だから平気平気とはならない。
平気じゃないから医学が発達したのだ。更に言うなら平気じゃないから不老不死みたいな概念が生じる。
一年に一回身近でひとが死ぬ。この御遺体を放置したら、どれだけの時間で跡形もなく自然に還ることが出来るだろうか。野生動物がいっただっきまあすしないのであれば、毎日顔を突き合わせていたあのひと、自分を生んでくれたお父さんお母さん、喧嘩もしたけど楽しい思い出のほうがたくさんあった友達、愛するという気持ちを教えてくれた大切なひと、の残骸を相当の期間目撃せざるを得ないはずだ。
そんなん耐えられるか。
火葬にしろ土葬にしろ水葬にしろ、生者の目の届かないところに片付ける必要がある。邪魔だから片付けると言ったのは即物的な意味ばかりではない。
大切なひとを失っても生きていかなければならない者にとっては、衰弱の挙げ句死に死んで、死んで尚朽ちていくさまを見せつけられるというのは、狂気の沙汰だ。生きていくのに邪魔になるのだ。
だから葬る。という、生者の世界とは隔たった言葉を使って片付けちゃう。嘘だと思うなら日常なにかの片付けをするときに、この散乱している衣類を葬ってやろう、と洗濯機に投げ込んでみな。違和感はないはずだ。
逆に、敵対関係にある人物を葬ってやろうと企む場合、あいつを片付けてしまおう、と言う。
葬る、と、片付ける、は本質的には同じ意味を内包しているのだ。
更に重ねてみよう。アイスクリームだってハンバーガーだっておせち料理だって、豪華なものは幾重にも重なっているではないか。
あたしだってたまには多少贅沢をしてもいいじゃんか。
葬ると片付けると終。豪華三段重ね。全て結末を意味する言葉である。
物事には終わりがある。
女学生という時期も終わる。人生の一時期、そんな感じにラベリングされる。今となってはそんな感慨しかない。
女学生をはじめるのも外部的な都合。終わりになるのもそう。自立心とか自分を大切になんて言っているが、もうこの時点でそれ嘘なんじゃないのと思う。
なんか子供っぽいことを言うようだけど、君たちのためにと言われたことの殆どは、社会のために機能したまえ機能できるように鍛錬したまえ、と言われていたのだろう。
新し目なことを言うひとたちがいる。ぼやぼやしている奴らはおいてけぼりだぜ、別な視点から見なければいけないぜ、頭を使ってしっかり稼がなければいけないぜ。
こういうひとたちは良いご家庭に生まれて良い学校を出て良い御学友に恵まれ、つまり始めっから社会に適合されていらっしゃる方々だ。この方々が、いかに世の中はちょろい奴らが多いんだからうまくやれといったところで、そりゃそんだけ適合してりゃちょろくもなるでしょうよ言いたくなる。挙句の果てに学校の勉強なんてできて当たり前みたいな話になる。
実はこのひとたちはあたしとは関係のない世界の話をしているのだ。沢山のひとから支持されているからあたしも参考にしなければならないかと思いがちだが、それは彼らと同じところにいるひとたちに向けられているのだ。
あたしには関係ない。
女学生をやらさせていただいたが、あたしには関係ない話であったと思わざるを得ない。テレビを着けてもスマホを起動しても、世の中はあれやこれやと問題が山積していると言う。だからこそ学びだからこそ鍛えよと言う。
なんでそんなことせにゃならんのだ。
理想を押し続けてきたあなたがたは、あたしたち女学生の悩みをいくらかでも解決しようとしてくれたのか。あたしたちの問題はいつも後回しで、自分たちの損得を優先してきたんじゃないのか。
こんな事を言い始めたら女学生も終わりである。そうだ、あたしは自分で終わらせようともしているのだ。勝手に終わらせられてたまるものかと頑張ったって終わるものは終わる。
ならばあたしが終わらせようではないか。
卒業式というものがある。あれだって、今日でおしまいといえば済むものを仰々しく卒業なんて言ったりする。
なんなんだよ卒業って。
他者に対して優位に立ちたいとき、むやみに難しい言葉を用いる。なんのことはないあたしだってよく使う手だ。典は難しい言葉知ってんだなあ、私よりもいろいろ解ってんかなあ。意味がよく分かんないけど、なんだかすごそうな言葉だ、聞き返したりしたら笑われちゃうかも知んない。
そんな風に思わせたら良いのだ。一度受けた印象というものはなかなか覆らない。学問が出来なくても構わないのだ。頭の良さとテストの点数は関係ないのかも知れない。勝手にそう思ってくれる。
莫迦にした話だ。
あたし自身がそんな有り様だからよく分かる。卒業式なんて言って大げさにして、いままで体験させられてきた無茶苦茶を手打ちにしようって魂胆だ。これだけ盛大な儀式を君たちのために執り行うのだ。面白くないこともあっただろうが水に流し給え。
そう言いたいのだろう。
先生という肩書の、こっちのことなど何一つ解らんくせに解ったような顔をしてああだこうだ好き勝手言いやがった大人ども。
教室だの担任だのと全く無意味な括りの中にいるだけなのに、仲良くしようよお話しようよとやたら関わりたがる同級生ども。
あたしはあんたたちに頭を下げる義理も、親しくしてやんなくちゃならない道理もないのだ。
用意された出会いなどいらない。強制される付き合いなどまっぴらごめん。
あたしはそんなものなくったって、みんなとたくさん話しがしたかった。みんなのためになにかしたかった。
女学生なんて枠の中じゃなく、人間として、典と典の大切なひとたちとして出会いたかった。
あたしは壇上から、誰もいない空間に向かって話し続けている。
女学生というものを作り出した制度全てを否定したのだから、ひとりになるのは当たり前だ。
あたしには解っていたんだ。理想を突き詰めれば孤独にならざるを得ないことを。全ての制度を拒否するなら、言葉すら奪われてしまうことを。
伝える相手を失えば、言葉は力を失うのも同然だ。
でもあたしは無人の空間に言い続ける。あたしはあたしのために、みんなのために、あたしの幸福のために、かけがえないみんなの幸福のために、ここにいたんだ。
傲慢かい。
あたしは結局何も変えられず、たったひとつのよりどころであったものも失おうとしている。
むしろ、最初から何も持っていなかったのだと再確認している。
傲慢だろうか。
せいぜいが、から威張りというところだろう。
あたしはみんなを助けたかった。でも、出来たのは偽薬じみた言葉で目先の交々をどうにかこうにかやり過ごしてもらう程度だ。可能性と確率を考えたら、何かをした、なんて言えたものではないのだろう。
取り立てて感謝することがなかったとしても、救いになった一言がある。あたしが気づいていないところで、あたしが生きていくための力になってくれている言葉を、誰かにもらっているかも知れない。
取り立てて特別な言葉じゃない。いつもの挨拶だって、軽い冗談だって、罵りや侮蔑を含んでいてすら、あたしが見て考えるための材料になっているかも知れない。
あたしの行為に特別なところはなにもない。でも、なろうことならこんなお仕着せの枠の中ではなく、必然の中でみんなと出会ってみんなと話がしたかった。
女学生としてみんなとであった。そして、女学生として克服しなければならない困難の大半は、女学生だからこそ背負ってしまったものばかりだ。
あたしは壇上にいる。他者よりも高いところで喋っている。なにか秀でているからそんなところにいるのだろう。そうあるべきだ。何かを大向うに語ろうというのならば、何かを持っていなければならない。
が、いまあたしの前に広がっているのは無人の空間だ。生者の気配すらない。しわぶきひとつ、衣擦れのおとひとつしない。
何も持っていないのだから。
世間一般にはびこる強い言葉と同じように、あたしの言葉だって枠の中でしか通用しない。どれだけ枠を否定しても出られない。それどころか枠に甘え依存し利用し安心している。
あたしは女学生という枠を失い、また別の社会人という未知の枠を与えられる。期待も不安もない、どうせ延長された枠の中の世界でしかない。
なのに、別れなければならないのだ。卒業するという名目で。
「みんなと一緒にいたかった」
会いたければいつでも会える。そんなわけないだろう。制度によって違う枠に入れ替えられる度に離れ離れになってきたのだ。
寂しくなったら電話ちょうだい。その電話の先にいるのは女学生の誰かじゃない。社会人という枠の中の誰かだ。
「みんなと一緒にいたかった」
制度によって設えられた枠に抗うことも出来ず、あたしは、敗北感に苛まれつつ受け入れる。
あたしにとって卒業は負けだ。
あたしは延々と敗北宣言をしているのだ。
「みんなと一緒にいたかった」
「なら、みんなで一緒にいようよ」
薄暗い空間に光が溢れ、放課後の教室に変わる。あたしの席の前に、少し疲れたような顔で話し出す女学生たちの顔が並ぶ。
「わたしたちはずっと女学生でいるよ」
この部屋を明るくしているのは、彼女たちの笑顔かも知れない。
あたしは泣いてた。
嬉しくて。
でもあたしの枠が抵抗する。
「そんなのは妄想だよ」
「それでもいいよ。わたしたちも典と一緒にいたいんだもん」
「そんな我儘は通用しないんだよ。社会制度は強くて、恐ろしくて、融通が効かない」
「ならわたしたちは今ここで、炭酸飲料の泡みたいに弾けて消えていくしかないのよ、典。助けてよ。卒業式はまだ先だよ」
そうか。そうだね。あたしたちはお互い困り果てて相談していたんだ、いつも。
「それは、それは大変ですね」
「大変なのよ、典」
「わかりました。では偽薬を処方しましょう。ニセモノの薬だからあてにはなりませんけども」
「わかったよ」
この期に及んでも、全くあてにしていない自分に呆れる。大勢の女学生に期待されても困る。彼女たちは救ったのは、彼女たち自身なのだ。
でも、効果の有り無しは置いといて、彼女たちとあたしのあるべき姿はそこにあるのだ。
敗北を覚悟していても、理想を抱くのは悪くはないはず。
明日の放課後も、誰かがあたしの前の席で、こっちを向いて座って、ためらいながら話しを始めてくれたらいいなあ。
あてにならないながらも、何かしらの手段を、必死で考えるつもりだ。
偽薬でお役に立てますか。 須永 葉 @yoshikon_neo
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