十八錠目 女学生たちは読書を服用する。
「読書、したほうが良いんかねえ」
寿々子は文庫本を構えながら言う。
「良いみたいなことを言うねえ世間じゃ」
特に読むものを持っていなかった典は教科書を開く。
放課後の教室には、向かい合って座るふたりの他には、数人としか言いようがない、漠然とした雰囲気の女学生。室内にいる者たちがみな同窓なのかどうかも判然としない。
今時分の、春先の夕暮れ時を持ち込んだような、掴みどころのない雰囲気だ。
「わらわは読書があんま好きじゃない。めんどくさい。テレビと動画のほうが楽でおもろい」
「同感です」
寿々子の指先は、活字を吸収し尽くしたページを淀みなく捲る。当然だが常に一定の間隔ではない。気になるところがあるのだろうか、しばらく視線がページの上を行ったり来たりしているときもある。
対して典は、乱暴に数ページ飛ばしたかと思えば、同じところを開いたまま、窓の外に目を向けていたりする。
「でもね、典。わらわは読書しないと困ったことが起きるの」
「ほほう」
「だから、嫌いなままだといつか放り出してしまうでしょ」
「そうなるのが自然だねえ」
「せめて、好きにならなくても、嫌いである状態はなんとかなんないかと思うの」
「好き嫌いという点では、そうでしょうね。で、困ったことってなんなの」
寿々子は、本を開いた姿勢のまま一旦典をまっすぐに見たあと、また視線を落とし、栞を挟んで本を閉じ、ぱたんと寝かせる。
会話に集中しよう、というところだろうか。
対して典は、中途半端に教科書を開いたまま、これまた中途半端に開いた瞼の奥から寿々子を見ている。
「わらわが読書をしなくなると、書かれたものと現実の境目が非常に曖昧になってしまう」
「微積並みに難解だねえ。説明よろしく」
「むむむ。書物に描き出されている世界が、さも現実の世界の何処かに存在しているかのように感じられたりしない」
「リアルに書き込まれた世界観、とか言ったりするねえ」
「うんそれそれ」
寿々子は意を得たとばかりに右手の指先を立てて仔犬の尻尾のように振る。
「それはでも、現実にはならないじゃん。例えばさ、魔法が登場するお話を、リアルだ、なんて言うでしょ」
「はい」
「だけど、魔法が使えるような世界が現実にあるわけ無いじゃん」
「身も蓋も夢も希望もないですが、仰るとおり」
典も教科書を閉じる。興味がなくなったと言うより、開いている不自然さに気がついたような仕草だ。
「魔法のような出来事はあっても、魔法はないんだよ、典」
典は、軽い痛みを感じて胸を抑える。
もちろん、魔法があると思っていたのではないのだろう。ただ、魔法が存在する世界を描いた作品の中には、お気に入りのものもあるのだ。いま交わされている会話とは直接関係はないにせよ、そんな世界に酔っていた自分を否定されたようにも感じられ、それが痛みになったようだ。
「とどめを刺さんでも」
「そゆつもりじゃあないんよ」
「わかるけどね」
「いくら人間が、思いつく限りの現実を再構築したとしても、それは現実じゃあない。そこんとこをきっちり分別しているのがわらわなの」
「ははあ。あえて言葉にすると、常識とか、それこそ夢と現とか、そんな感じでしょうかね」
寿々子はもどかしさを顎の関節の辺りに感じて、右手の人差し指で軽く揉んでみる。
「そうか。わらわもうまく言えないねえ」
寿々子は手を伸ばし、机の上に置かれた典の手に触れ、拒絶されないのを認めると、ゆっくりと擦る。彼我の境目、肉体の内外の現象を見極めるかのように。
典はそれを心地よく感じているようだ。
「わらわはその境目そのものなの。人間が想像するものよりも少し大きいから、言葉では捕捉しきれないのよ」
「ははあ。人間は昆虫を見つけるけど、昆虫は人間について考察したりしないってことかな」
「うまいこと言うわね。けど、自分たちを虫になぞらえていいの」
「あたしは一向構いません。なにはともあれ、寿々子は境目なのね」
寿々子は指先に力を込め、典の動きを封じる。もちろん若干強さを感じる程度にだが。
そしてゆっくりと顔を近づけて、耳元にささやきはじめる。
「そうね。そういう感じでいいかな」
「くすぐったいよ」
でも、典は避けない。避けられなかった。
「わらわは本を読んで、これは本の中の出来事、これは現実、ときっちり分けてるの。これを蔑ろにすると、もしかしたら魔法が使える現実が成立するかもよ」
仮定の話をしているに過ぎないのだが、声色と同様に甘くとろけそうな感触に、典の脳は震える。それはそうだろう。魔法が存在する世界の物語を読んで、胸踊らせた日々があるのだから。
「それが現実になったらさあ」
脳の震えが体の芯に到達する。
「なに、典は天国で暮らしたいの」
甘さの中に冷たさと鋭さ。理想郷を描いた画面にひびが入る。
典はなぜ寿々子が存在するのかをひび割れの中に見出す。解放された手の下には、彼女にとって無味乾燥した世界への扉である数学の教科書がある。
教科書の中にだって物語はある。意図してなのか必要がないからなのか、巧妙に隠されてしまっていると典は思う。数学や数学者にまつわるエピソードなら面白く読んだ覚えがあるからだ。
それで覚えた方程式があるとか、いわゆるうまい話は一切彼女にはないにしても。
「あたしは、夢や空想は、夢や空想として隔絶しているから素晴らしいんだと思う」
「ふんふん」
寿々子は鼻をつんと上に向けて合いの手を入れる。
「読書が良いとか悪いとかもいらない。面白ければ良い。楽しめれば結構。興味がなければそれまで。読書は読書、現実は現実。もうこの際今まで以上にきっちり分けて頂きたいと寿々子にはお願いしたい」
「ははあ。意外と激情型なんだなあ」
「だから、読書が嫌いな寿々子が読むのを放棄しないように、処方をする必要がありますね。と言って効果あるかないのがわからんから我ながら歯がゆいが」
「あら、典の悩みになったの」
「それでもいいけど、役割を失えば寿々子は消失するでしょう」
「そうね。さすがのわらわもそれは寂しいか」
「まあでも、寿々子次第です。如何」
典の変化の速さに呆れる寿々子。ページを捲るようだ。いや、ページを捲ったってそんなに世界は変わらない。物語なら読者はついていけないし、教科書なら諄々と説くべきだろう。いや、絵本があるな。あれは劇的に変わったりする。未文化な子供の世界では、わらわの分別はどのように作用しているのやら。
寿々子は自分の存在に改めて興味を抱き始めていた。
「さて。もし読むことを放り出しそうになったらスマホを弄りましょうか」
「スマホ。読書の天敵じゃないの」
「敵の敵は味方とか、毒を喰らわばサラダで解毒とか言うでしょう」
「典はほんとはポンコツなのかしら」
寿々子は早速、地球上で発生する全ての書物を読んで仕分けをする。
といっても、現実との対応が緊密である、例えば学校の教科書とか、各種の説明書、論文、宣伝にまつわるものなどは一瞥して除外してしまう。
論文と謳っておきながら、おとぎ話と変わらないような文章の羅列が相当数彼女のもとに届けられ、苛立ちとともに微笑ましさも感じ閉口している。
が、これも一瞥で済ませる。論文とは現実との整合性が求められるのが当然だ。寿々子はここでも正しく分ける。うつつを抜かした論文は要するに間違ったことが書かれた出鱈目な文章だ。そんなものは読む必要すらない。そんな駄文なら人間にだって判別できる。ただまあ審査とか追試とかの面倒が必要であるらしいが、そこら辺が彼らの限界だろう。わらわには瞭然だが。と、そんなものには彼女は揺らがない。
彼女が注意深く査読しなければならないのは、物語や小説と言いながら、人間の脳に大きな影響を与える種類の文章。現実を一皮めくれば現出する、かのように描き出された世界だ。
あの典だってわくわくしながら読んだらしいではないか。相談してもらっておいて何だが、あの同級生はいささか粗忽なところが見受けられる。
寿々子は物語に目を通しながら典の批評をする。
うかうかと他人の相談に乗ったりするのが、何よりの証明だ。寿々子の口元には知らずに笑みが浮かぶ。
面白い物語は、確かに、もう何もかも忘れて没頭したくなるほど面白い。だからこそ寿々子は溜息をつく。人間が面白いと思うものにはろくなものがない。戦争や薬物、宗教諸々。
寿々子が読書を放棄したくなるのはこんなときだ。魅力的に構築された世界からは抜け出せなくなって当たり前だ。浸っていたいと思うのに、読まなければならない物語が追いかけてくる。
役割とは言えうんざり。いっそ放り出してやっかなあもう。
で、スマホか。出来る女であるわらわは世間の動向を気にせんとな。世間と言ったって人間のすることなすことに過ぎんけども。
彼女は自分の行動を薄っすらと分析しながらニュースのブラウザを開く。
諍い、憎しみ、嘆き。物語ではない人間の営みには救いがない。バッドエンドなんて括りがあるが、救いのない結末を読んだ人間自身にはまだ続きがある。辛いお話を読んじまった。そう思える自分がいるのは幸福だろうと寿々子は感じる。
悪を為す者が制裁されるわけでもなく、善を行いこころざし半ばで命を奪われた者に救いがあるわけでもない。
現実はなんとも酷い。醜い。
こんな酷い醜いものと物語を一緒にされてはかなわない。
わらわは物語を隔離し続けねばならない。これを人間ならば覚悟というのか。なんか重いものを背負わされた、と寿々子は苦笑する。
典がいけないのだ。ちゅ、の感触を、こればかりは現実のものとして受け止めなければ気がすまぬ。
そか。現実も悪いことばかりではないのか。寿々子の足取りはいつもより軽やかだった。
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