八錠目 女学生たちは音痴を服用する。

 年頃の娘だから友達とカラオケに行ったりするのだが、自分でも感じている通り周囲の意見もわたしの歌唱は芳しいものではないそうだ。

 顔立ちだってそこそこなので歌さえ上手ければアイドルとかアイドル声優とかアイドルユニットとかを夢見ることも出来たのだが、下手なのだから歌どころか話にもならない。

 顔がそこそこなのに歌が下手なんて、なんだか負け成分が倍増するような感じがしないか。

 かわいくなくても歌が上手ければ幸せな気がする。鳥が囀るのは囀るのが好きで囀る自分の声を聞くのが好きだからだ、と言う説を聞いたことがある。気持ちよく歌えたら毎日は楽しく明るいものだろう。

 それに、きれいな歌声は周囲を幸せにする。わたしが歌うと周囲がなんだか憂鬱そうな顔になるのだが、上手に歌う生の声は強烈にひとの耳を捉える。いかに完成された楽曲だろうと、マイクもスピーカーも通さず鼓膜を揺さぶる声はとても刺激的なのだ。

 そんな風に思うのはわたしだけだろうか。

 歌が下手に聞こえる理由は、前の音と次の音のバランスがおかしいからだ、と私は思っている。音楽は通常、ひとつの音で成り立つものではなく、音と音の並びによって出来上がっている。心地よい音楽とは、音の並びが心地よいのだ、と言ってもいい。

 だから楽器が変わったり、歌うひとが変わったりすると、いまいちと思っていた曲が良くなったように感じられたりする場合がある。

 とはいえ、関係なくなってしまうが、個人的には、音楽を受け取る時の感覚というのは割といい加減なようで、あんときはちっともいいと思わなかったけど今はすごくいい、なんてことが頻発する。

 私だけかも知れないと一応断りを入れよう。

 で、生声で歌う場合は、声の良し悪しというものがある。個性的だが素敵な声、万人受けする声、男声女声。声という字がだんだん崩壊してきた。私の場合は、声もいいのにもったいないという評価を頂く。声も、と言われるのは、顔もいいからだ。見た目が良ければ何かをするときに、好意的に受け止められる場合が多いはずだ。

 こんな言い方をしていると嫌われるが、分析するのに遠慮は無意味だ。自分のことだし。

 だから私の問題は、出した音の次の音がうまく言っていないという点に尽きる。

 心地よい音の並びはある程度決まっている。聞き慣れない、どこのどなたか知れないひとたちの民族音楽などは、はじめは違和感がある。でも一旦受け止めてしまえば、民族固有の音階であっても快適に聞こえる。

 ここで音階という専門用語を使ってしまったが、妥当な用法か自信はまったくない。私の言葉で言おうとすれば、音の並べ方に民族的な特徴が現れる、となるが、なんでそんな違いが生じるのかはわからない。

 言語が同じではないように、心地よいと感じる音の並びも同じではないと、理屈の上では理解できそうだ。が、音を聞くという行為は、言語を操るよりももっと原初的なものじゃないか。人間の脳味噌なんてだいたいおんなじような形と機能なんだから、おんなじようなものばっかりでもいいんじゃないか、とか考え始めるときりがない。

 そう言えば、鳥も歌うじゃないか。鳥の囀りがどうこうって話をしたっけ。彼らもさまざまな声と歌い方を持っている。さえずりで種を特定できるんじゃないか。あれは言語なんだろうか。彼らにとってはどっちでもいい問題だろうし、どっちも兼ねているのだろう。

 心地よい音の並びを聞いてそれを再現出来ない場合、理由があるはずだ。おはよう、と言われれば、おはよう、と同じ音の並びで答えることが出来る。

 言語であれば出来るのに音楽になると出来ないというのもよくわからない現象だが、言語、言語というと範囲が広いか。歌、歌唱と区別して発話、とでもしておこうか。

 普段の発話というのは音の並びが単語ごとに千切れたものを連結している。音の並びが短めだからさほど気にする必要がない。抑揚は決まっているとしても音階と言うほど厳密なものではない。普段使っているのだから慣れている。と並べてみたがどれもあてにはならない。

 他人が歌う歌というのは、他人が歌いやすいように作られたもの、他人が歌いやすいから歌っているものだ。声の質とか出しやすい音の幅、音域というものがある。才能だったり訓練の結果だったりするが、その出せる音の幅が広いひとと狭いひとがいる。広いひとが使える音域を目一杯使ったら、狭いひとは追いつけない。

 顔貌が異なるように、声も出せる音の範囲も違うのだ。改めて個性というのは単なる前提に過ぎないのだ、などと思ったりする。

 もう、話が散らかりすぎた。ちょっと整理しよう。

 狙った音が出せない。周囲の期待とは違う音が出ているという場合には原因があるわけだ。今までの話と重複する部分があり、えっそんなの初耳という部分もあるが、構わず続ける。

 まず耳の問題。音を正しく聞けていないのかも知れない。でも通常の会話で差し障りを感じることはないから、私の場合はそれほどの障害にはなっていないと考えよう。

 それで、声。違う音が出てしまっているのだから、喉、声帯がおかしいのではないか。でもこれも変だと言われたことはないし、自分でも違和感はない。あるのは歌うときだけ。

 私は一応、音が外れているなあと感じてはいるのだ。下手だなあと思いながら歌ってしまっている。

 迷惑行為と呼ばないで。

 歌が上手なひとと私とは、歌以外のところで違いはないものとしよう。他のひととやり取りをする中で、声を使う場面でおかしなところはとりあえずないから。

 ひとの歌を歌う時、音を聞いて、その音と同じ音を決めて発声しなくてはならない。

 音が聞こえたと認識するのは耳ではなくて脳の作業だ。言葉だなあとか歌だなあとか判断するのは当たり前だけど鼓膜じゃない。

 聞こえたのと同じ音を出すための、声帯の運動を決定するのも脳だ。言葉にも抑揚があってそれなりに適切な音の幅がある。言葉は脳の作業にほかならない。

 つまり、歌が下手なのは私の頭が悪いから、という結果になる。

 私は謙虚なので、事実を並べて出た結論であれば、納得して受け入れることが出来る。

 悪い頭を治す方法があるのだろうか。

 音痴を治す方法はあるようで、そのための講師がいたり音楽教室があったりする。学校にも音楽の授業はあるが、あれは音楽が嫌いになる一方だ。

 私は、歌が上手ければアイドル云々とは言ったが、そこを目指してレッスンを受けることまでは今のところ考えていない。カラオケで気持ちよく歌えないという程度の問題を、レッスンを受けてまでして改善しようとするだろうか。

 趣味でコーラスグループというものもあるみたいだけど、それはそもそも上手いひとたちの活動だ。活動自体が歌唱力の向上に繋がているとしても。

 でもそう言う業種があるのだから需要はあるのだろう。差し支えるから私の場合限定の解釈にするが、頭の悪いところをレッスンで修正しようという話になるのか。

 とまあそんな感じの話を充希としたわけだった。

 どっちが何を言ったかなんて覚えていない。とっ散らかってしまっているが、困りごとの内容は、歌が上手くなりたい、らしい。

 でも。

 もうちょっとなんとかなんないかなあという事柄なら、生きてりゃ無数に発生する。かわいい顔に生まれてきて、アイドルが射程に入る環境にあって、さらに歌が上手くなりたいなんて、ちょっと余裕がありすぎやしないか。

「お話は面白かったんだけどね充希さん、あたしは、より幸せになりたいとか夢を叶えるみたいな話にはどうにも乗れないんだけども」

「あら」

「歌が上手くならないと死ぬとかいう話ならありがたい、いややりがいがあるんだけど」

「ああそれなら安心して。月琴ノ瀧ってあるでしょう」

「ああ、ここらへんの山の中にあるとか」

「そこで世界中の山にいる神様が集まるお祀りがあんのよ」

「だいぶ嫌な予感がしてきたが続きをどうぞ」

「私は血脈で巫女になっちゃったんだけど、そのお祀りで上手に歌えないと神様が不機嫌になって災害が増えるんだと」

「アイドルはどこに行ったのよ、もう」

神様を慰めるための歌が上手い必要があるのか。まあ、行儀作法にはうるさい気がする。でも下手だからって機嫌を損なわれあそばされる神様ってどうなのと思うが、どうにかせねばなるまい。

 神事で歌を歌うというのは、年中行事として、洋の東西時間の前後を問わずに行われるイベントだろう。お正月を寿ぐ時に流れるあの何とかいう曲は、なんとなく神秘的なものを感じるがあれはちがうんか。神社というのであれば、お神楽というのがある。ゴスペルはあれは神様の言葉を音楽にしたものか。お寺でお坊さんが集まってお教を読み上げている。歌じゃないんだろうけど、受け取る側の気分としては迫力のある歌声だ。

 あたしたちは宗教に縁がないと言うか、実はそこら辺に普通に散らばってると言うか、よくわからん日常を送っている。が、充希が関わることになってしまった神々はどうもちょっと違うような気がする。

 山に神様を感じるというのはも少し土着的な、汎神的なものじゃないか。

 不思議なものに神様を感じる、説明がつかないことを神様のせいにしておくのが人間であるなら、あたしにとってこの世に存在する全ては不思議だ。従って何もかも、転がっている石だって神様だ。といって、神頼みとか困り事なら神社に行くんだから、そういう神様とこういう神様とがいるんだろうねきっと、と考えないことにする。

 火を炊いて囲み、歌い踊る。

 これを神様に捧げる歌の原初としよう。なんとなく間違ってはいないような気がする。断っておくが、正しいとも思っていない。

 でも、こうして火を起こしましょうこんな風に歌って踊りますはい右、右、左、というところから人類の歌や踊りが始まるようにはとても思えない。なんか衝動とか情動とか、説明がつかないもの、不思議なものでもなければ、人前で歌ったり踊ったり出来ないでしょう。

 不思議なものは神様に委ねてよい。

 そもそもが不思議なのだから、充希の歌が気に喰わなくて人類を滅ぼすと言うなら、それはそれで仕方ないではないか。充希はあたしが想像もつかない選考基準で巫女になっているのだ。その時点で全ては決定事項だ。

 では何が出来るか。充希の不安を取り除く、は無理としても、軽減くらいなんとかならんか。

「なんにしても偽薬なもんで、あてにはなんないす」

「いいよ。相手は神様だしね」

「抗いようがない。では処方を」

「はい」

「新しい鋏をひとつ買ってみてください。なに、あたしたちはどうせ天災の合間にかろうじて生きてるんです。充希が気にする必要は何も無い」

「ありがとう」

数ヶ月のあと、何事もなく人類は営みを続けていた。どこかで災害に見舞われた気の毒な方々はあるかも知れないが、滅亡しなかったから良しとして欲しい。

 で、充希はやはり、ちゅ、して欲しいと言ってあたしの前に座る。

「鋏って紙とか髪を切るものじゃん。ここらへんが神に繋がってんのかなと思ったんだけど」

もちろんあたしの言葉にはなにか先を見たものがあるわけではないから、充希だけの思いだ。

「まあ髪の毛を着るわけにもいかなかったから、やたらと白い紙を切って。はじめのうちは動物の形とか切ってたんだけど、途中から面倒になってひたすら細かく細かく切るようになって。で、思いついたのよ。音が外れちゃうところでごまかして、これを振りまいたらどうかって。山には雪がつきものでしょう。神祇官のひとたちとも一応相談して、やってみたんよ。これが山の神様たちになかなか好評だったようで。みんなほっとしてたよ。いや、私は複雑な気分だったよ。うまくいってよかったてのと、ほっとするってことはそんだけ私の歌は下手なんだって愕然としてね。傷ついた分は典に、ちゅ、ってしてもらって慰めてもらいたいわけ」

 充希は大役を果たしたのだ。労わなくてはなるまい。


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