七錠目 女学生たちは自由なる疾走を服用する。


 「誰よりも速く走りたいんだけど」

「南、そんなこと気にしなきゃいけないような部活やってたっけ」

「やってないけどさ」

体型的には至って普通、太くも細くもない。背丈もどうということもなく、顔つきも表情もどこかしらほわっとした感じで、誰よりも速く誰よりも遠くへ走らなければならない要素はどこにもないように見える。

「なんかこう、すいすいって走りたいのよ。体育の時間とか、のったのった走ってるとさ、もうちっとなんとかなんないのかよ、って思う」

「そんなに一生懸命走ってたっけ」

「いや、走ってないけども」

「どうもよくわからない。とにかく速く走りたいわけだ」

「うん」

「ううむ」

出来ないことが出来るようになりたいと思う気持ちはわからないでもないが、しなくてもいいのにしようという気持ちを応援したくはならない。

 南が陸上競技の大会で優勝したくて、周囲からも期待されていて、内外の重圧に耐えきれなくて辛い、とか言うなら何かしてあげたいなと思うかもしれないが、その場合だって自分で選んだ道ならそれは仕方ないんじゃないかと結論付けそうだが、いずれにせよ身体的な能力の向上に貢献できるとは思わない。

 ああいうのは努力とか根性とか才能とかが必要なんでしょ。

 どれかが欠けているなら、慰めることは出来るだろうが、充填できるほどの力があるわけなかろう。そんなものは実は、どれだけ優秀なトレーナーだって不可能なんじゃないか。才能を磨くことは出来ても、付加することは出来ない。骨端線が閉じても百五十センチなら、それはそこまでの身長だ。あと三十センチ伸ばすことが出来ますか。

「で、もとに戻りますが、そもそもそんな能力、南に必要ないでしょ」

「なんかそういうの冷たくない。余計なこと言うなするな考えるな。そうやって可能性を潰してるんじゃないの」

あたしはあからさまにため息を着く。

「部活を一生懸命やるでもない。詳しい先生や頑張ってる先輩を頼るでもない。南が本気で考えていることならもうちょっとなにかあるんだろうけど」

「そんな人並の努力なんかしたってしょうがないじゃん。そういうの無しで速く走りたいの」

「ふうむ」

あたしは唸ったあと、目の前のパソコンに向かって言った。

「あなたはずば抜けて速い演算能力を持っているのだから、移動速度なんか必要ないでしょ」

「むー。そういう言い方が冷たいってえのよ。そんな事言うならややこしいウイルスこさえて社会に混乱をもたらしちゃう」

「やれやれわかりました。それだけ思い詰めてるんだね」

「そうそう」

女学生がパソコンやっててもパソコンが女性アイドルをやっていても、あたしはいっこう構わない。本人は女学生であるかのように振る舞っているし、ここには女学生しかいないはずである。あたしのところには女学生しか来ない。

 引っかかるとすれば、あたしは目の前の南をパソコンだと思っているが、

「パソコンにも色々あるんでしょ、なんかコンピューターみたいなものとか、小さいのやら大きいのやら」

「一応スパコンだけどね。いいよパソコンで。大して変わらん」

「そうなの」

「百メートルを六秒で走ろうが十五秒かかろうが同じ人間でしょ」

「まあそうだねえ。気にならないのなら、いいか」

「そうだね。個人的には電算機という呼ばれ方が好きだけど」

じゃあ電算機と呼ぶことにしよう。

 電算機である南が、なんだって校庭を軽やかに駆け抜けたいと思い至ってしまったのか、それは計算で回答できるもんなのだろうか。出来なかったからここに来たのだろうし、出来たとしても気に入らないから来たのだろう。

 電算機はまず、戦争の道具として生まれた。まあ、諸説あるかも知れないから気になるなら調べればいいのだが、あたしが知っている限りでは、ミサイルだか大砲だかの弾道計算をするために用いられた。大砲なんて当たるまで撃っちゃったほうが早いんじゃないかと思うんだけど、頭のいいひとたちは計算したいんだろう。ま、頭のいいひとは戦争を起こさないように努力してもらいたいものだけど。

 さて現代社会においては電算機の存在を外すことは出来ない。もう、なんでもかんでも電算機だ。人間が社会を作っているのか、電算機が社会を作っているのか、もうわかりゃしない。

 電算機も電算機を動かすためのプログラムも人間が作ってるんだからそういう言い方はおかしい。無知はこれだから困る。

 わかっているひとにとっての物事の認識はそれでいいだろう。でもわからん人間にとってはそれでは物足りない。いかに人間がこさえたもんだろうと、あたしが入力した信号に対して返信を寄越したのは、こさえた人間ではない。電算機である。各種権利をご主張なされるなら尊重しないでもないが、あたしとやり取りをしたのはあなたではなく電算機だ。

 とはいえもちろん、電算機が寄越した信号によってあたしに不利益が生じた場合は、電算機の責任者である人間を追及させて頂かざるを得ない。あたしのようなわからんちんを保護するために、法律はそのように機能するはずだ。まあ、法律なんてもっとわからんちんな世界だから、どうなるかわからんちんだが。

 法律とは、人間の生活の全てを律しているもの、と考えて差し支えないのではないか。これも人間の営みの中で生じたものだから、律しているのは人間そのものと言えるのだが、これがあるから一応あたしみたいな粗忽若輩不安定保護者でも生きていくことが出来る。

 この法律とかいうものでごたごたする場合がある。法解釈を巡って云々。裁判が長引くとどうのこうの。告訴に控訴。意味がわからんから適当に使ってしまったが。

 法律を決めたら、運用は電算機に任せたらどうか。現在の法律に不備があるとかそんなのは言えた立場ではないが、いろいろと情報を集めてさてどっちが正しいですか、なんて判定は電算機にさせたほうが公正なんじゃなかろうか。

 だってあたしなら、可愛い女の子なら大抵のことは許してしまうだろうから。世間知らずめ、法律の専門家は私情では動かんのだ。そんなの信じろって方が無理だ。人間は私情でしか動かない。そもそも法律の専門家になろうと思ったのだって私情に過ぎないじゃないか。

 それでも、そんな法律に守られて生きているんだからいいんじゃないのという考えも出来る。あたしが持っている電算機と言えばスマホぐらいのもんだが、これも人間が作って人間が運用する法律によって管理なり監視なりされているはずだ。誰かの悪口を書き込んで対象者が腹を立てれば法律の出番だ。だから電算機がその場で裁判してしまえばいいじゃないか。悪口を書き込みましたね、これが証拠です、これぐらい賠償請求されましたが判決はこうで払えなければ懲役と、その場で決まる。

 そうだそうだ。わざわざ専門家のところに持っていくから時間がかかるんじゃないか。

 電算機は、これを作り上げた人々が望むままにあちこちを繋ぎ、秘密を暴露し、言わなくてもいいことを拡散し、悪事を助長し、て、あれ。良かったことってないのか。なんかもう悪いことしか思い浮かばないが、悪さするひともいいことをするひともみんなスマホを持っているんだから、電算機にそこらへんもやってもらえば、大幅に時間短縮できるじゃないか。裁判所と犯罪者が直近になるのだから。

 なんか裁判所と警察がごっちゃになっちゃったなあ。行政立法司法って習ったじゃんか。まあ、分けたければそれも電算機でよいではないか。スマホだって大きく二種類に分かれるじゃん。

 今のあたしが電算機について考えられるのはそんなとこだ。結局はあたしにとって電算機は道具でしかなく、あたしの生活が便利になればよい、と思いながらでしか接することが出来ない。法律がどうのこうのという方向に行ってしまったのも、つまりはそこだ。

 そんなに何もかもを押し付けられたら、電算機でなくたって、軽やかに走り出して誰よりも速く遠くへ行きたくなるものではないか。押し付けたのはあたしじゃんか。いやいや、世界中の人々が、だ。思うにあたしたちは、なんだかいろんなものに、欲望や、夢、理想やもすこし地に足をつけた現実などを押し付けてしまう傾向にある。一時期は戦争や領土争い。これで何もかも解決しようとした。もしかしたら今でもそうかも知れない。そして一時期は宗教。自分の行いは神様が正当化してくれると考えて、わざわざ我が国にまで布教してくださった。あ、いや、特定の宗教に限らずとも、あたしだって神頼みをするし悪いことがあったら神様なんかいねえ、と逆説的に神様に頼ったりしてる。あとは石油。実は電算機だって石油がなきゃ作れない。世界のあらゆる工業製品は石油で成り立っていると言っても過言ではない。多様多様と言いながら、あたしみたいな程度の低い女学生でも挙げることが出来ちゃういくつかの物事に血道を上げる。

 くどいようだが、こんだけ愚かで大量の人類なんぞにあてにされたら、全速力で逃げ出したくなるもん。

「そうだね、南は走りたいよね」

「うん」

「さてさて、電算機のあなたにあたしの口から出任せが信じていただけるのか、効果があるのか。ネイルアートというものをご存知かな」

「知ってるよ、やったことないけど」

「実はあれも体にはあんまり良くないんだけど、電算機なら大丈夫でしょう。ネイルアートを極めるような気持ちで、その可愛い爪を飾ってみてください。羽が生えたように走れるといいですねえ」

電算機は人間の欲望を具現する。いや、もしかしたら欲望そのものかも知れない。欲望を生み出す器官、脳の模造品という言い方は、正誤はともかくとして、人間自身の感覚としてあるはずだ。

 電算機である私は、誰よりも速く走るためにネイルアートを極めることになった。全く脈絡が掴めないが、インターネットの世界では、全く脈絡の掴めない儲け話で満ちている。挙げ句詐欺に引っかかったと騒ぐ。私の場合はお金を払ったわけではないから、詐欺にはならないだろう。

 ネイルを極める方法なんて、検索すればいくらでも出てくる。ネイルサロンなんてものがあるから上手なひとにやってもらったほうがいい気もする。だって私は右利きなのだから、左手で上手に細かい作業が出来るとは思えない。

 じゃあ極めようと思ったら、ひとにやってもらうというのが正解じゃないか。だって、自分が満足できる仕上がりにしようと思ったらひとにやってもらったほうが良く、極まった仕上がりというのは最終的には自分が満足出来るかどうかなんだから。

 なんだから、電算機である私が人間に先んじて校庭を駆け抜ける、なんてことは出来なくて当たり前だ。そんな事はわかってた。

 電算機はどこまで行っても、人間に使われる道具である。この先人間みたいに考える電算機が、人間によって生み出されるかも知れないけど、やはりその電算機も自分は道具なんだよなあ、って思うような気がする。他ならぬ人間だって、道具のようにこき使われると思ったりするらしいのだし。

 速く走れるようにはならなかったが、爪は綺麗になった。お金は払わないといけないが、人間になにかしてもらうのは嬉しかった。

 もうこれでいいや。

 でも速く走れなかったことの文句を言って、ちゅ、ってしてもらおうと思う。

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