五錠目 女学生たちは夜を服用する。

 

 また夜が来てしまう。

 ぼくは夜が怖い。沢山の人がいる教室を出て、学校を出て、家族しかいない家に帰り、ひとりの部屋に入る。思えば急激な変化だ。

 ひとりになるのが寂しいだけかと、はじめのうちは思っていた。

 賑やかさも騒がしさもあまり魅力的な要素ではないけど、放課後数人のともだちと過ごしたあと、そんじゃまた明日学校でね、なんて言ってしまったあとは、ほのほのと寂しい感触を味わうことがある。

 楽しい時間を過ごしたあとはそういうものだろう。でもそれは寂しいとしか言いようのないものだ。怖さじゃない。

 それに、一人になったからと言って寂しいばかりではない。自室に戻ればほっとする。やっと素の自分を放り出すことが出来る、という感覚はある。あまり意識しないけど、外にいるときはそれなりには緊張しているらしい。

 いずれ、環境が変化して、自分の気持も変化する。そんなのは意識することもない当たり前の事だ。

 だけど、ここ数年、夜は怖いのだ。

 数年でなにかあったかと言うと、進級したくらいであって、自分自身にも家族にも生活にも、これがというような変化はなかったように思う。

 日が傾いて、落ちていく。きれいな夕焼けだなあなんて眺めているくせに、落ちきってしまうと急に怖くなるのだから、我ながら滑稽なところもある。

 怖くて当たり前という見方も出来る。夜が怖いから、人間は明かりを灯すのだ。火によって外敵を遠ざけていた時代から。

 ここらへんの路地は暗いから、町内会長さんに言って、街灯増やしてもらったのよ、最近物騒だしね、と数日前に母親が言っていた。

 物騒の原因は幽霊やもののけの類ということはもちろんないので、現代では人間が悪さをするから防犯のために明かりを灯す。

 夜に悪さをするのも、なんとなく当たり前な気がする。

 悪さをするときにもっとも忌避しなければならないのは、悪事が露見すること。人目があっては具合が悪い。夜はたいがいの人間が家に入って眠りに就く。悪さをしやすい状態にはなるのだ。

 暗くなる。闇が増える。夜が怖いのは当たり前だ。

 でもそれは屋外のことだろう。家の中はスイッチを入れれば昼間のように明るくなる。暗くて怖いなんておかしい。

 夜が怖い。

 夜ってなんだろ。

 日が沈んだあとの世界。月が復活する世界、と言いたかったけど、昼間でも月は見える。

 太陽に遮られていたかのような星たちが見えるようになるから、宇宙と近くなったような気がする。これが宇宙ですよと図版などで見せられるのは、黒い背景にいくつもの輝点。これは夜だ。夜にしか見えない。青空を見て宇宙を想像しにくいのは、そう教えられてきてしまったからだ、となってしまうか。

 球体の一方向からしか光が当たらないから起きる現象。反対側には影が生じる。それが夜だ。それだけのことだ。昼との違いなどどこにもない。人間が静かになるかならないか程度の違いじゃないか。

 でも夜が怖い。ぼくは夜が怖い。

 夜になってからの数時間は、怖い怖いと思いながら食事をし入浴し勉強をする。

 怖くて何も手につかないと言うならまだどこかに訴える気にもなるのだろうけど、怖いばかりでやらなくちゃならないことはやれているのだから、却って困る。

 眠らなくてはならない時間になる。やはり怖い。夜の恐ろしさに苛まれながらベッドに潜り込み、いつの間にか眠ってしまう。

 生活に差し障りがないし、耐えきれないものでもない。我慢しているという感覚はあるけど、受け入れているような部分もある。けど、怖いものは怖いんだよと叫ばなくてはならないようなときもある。

 なんとなくもやもやっとするのだ。

 鼻詰まりとか軽い頭痛とか、たまに出来る、親指の爪のささくれとかそんな感じ。どうってことないけど、ないほうがいいなあ、と。

 典はふんふんと、興味があるんだかないんだか、真面目なんだか不真面目なんだかよくわからない態度で聞いている。そんな態度を咎めるだけの何かがあるわけでもない。こっちだってよくわからないことで相談しているのだし、退屈だと感じているなら申し訳ないところもある。

 いや、静香、なかなか面白い、と典は言う。なんとなくほっとする。

 夜はわくわくするというひとも多いんですが、そんな気持ちはわかりますか。

 そう尋ねられて、歌謡曲とか物語の中でのシチュエーションとしてそういうのがあることは知っているけど、それが快楽として作用する状態については理解は出来ない、と答えた。

 愚問でしたかね、夜が怖いとおっしゃっているのだから。お化け屋敷が面白い、アミューズメントったって、あれが怖いひとにはたまらん空間ですね。いや失敬。典は独り合点で頷いている。

 なんだか無性に、それとこれとは違うと反駁したくなった。怖いという共通点だけでお化けと夜を一緒にして欲しくなかった。

 尖らせた口を開きかけたが、続かなかった。典の目がそこにあって、ぼくを見ている。典の目は言葉を待ち受けているようだった。必死になってそれとこれとは違うんだと言い募るのを期待しているようだった。

 でも、そんなものはどこにもなかった。言葉に出来ないのならならないで、そんなのとは違うよ、怖いのにも色々あるんだよ、と言えたはずだ。恐怖の根源なんて誰にもわかりはしない。高いところが平気なひと、手摺があるのに、階段から下を見下ろしただけで竦むひと、その違いがどこにあるかなんて説明は無理だしそこまでする必要がない。だから理屈じゃない、わかってもらえなくたってそれは違うもので、怖いんだ。

 なんで、そう言えなかったんだろうか。

 数秒、静寂。

 恐怖というものは、人間に備わっている感情の中では最も古く、もっとも根源的、本能的なものなんじゃないかとあたしは考える。と、典はぼそぼそと独り言のように言い始める。そもそも感情ってのが古いものによって出来上がっていましてねえ、言葉よりも古いものだから言葉で理解するのがなかなか難しい。感情は厄介ごとの種になりがちですが、これがないと生き物として破綻してしまう。人間の古い部分、本能と直結していますからねえ。悟りを開いたとか解脱したとか、それは立派なもんだねえとあたしも思いますけどね、感情を完璧に抑制できる人間なんてものがあるとしたら、それは最も人間らしくあるのかも知れないけれど、最も生き物らしくない。

 人間はどこまで行ったって生き物なんだから、ひでえ矛盾ですねえ。典は自分の言い方に笑っている。

 感情の中で恐怖がより古いというのは理解できる。自分が死ぬ恐怖、近しいものが死ぬ恐怖、種族が死に絶える恐怖。

 恐怖。いや、待て。

 いろいろと言葉で考えてしまうから、本当は言葉ではなく現象でしかないものも言葉にしてしまう。生き物は、人間は、恐怖という言葉にあてはめられた現象で行動する。

 ああ、ああ。言葉で表現する際に生じる問題を言葉でどうにかしようというのは無駄に骨が折れる。一旦全部保留して、典に委ねることにする。

 で、どうしたらいいの。

 また典の目がぼくに向けられる。虚ろな、闇のような、夜のような目。

 怖い。

 静香ねえ。夜が怖いと感じる現象をなんとかしたいのなら、包んだものを開いてみるとよいかも知れませんねえ。まあ、怖いものを怖いものとして抱えられるのであれば現状維持でいいわけで。あ、抱えるという文字には、包むという字が入ってるんですねえ。

 夜の帳、なんて言い方がある。視界を奪う夜の訪れを、重く厚い布で覆われるように感じたひとがいるのだろう。

 ぼくが包んだものは、生物の根源だ。本来ならば成立するはずのないふたつの種族の連帯を、膜で包むことによって成立させた。仲良くしさえすればうまくいくとは限らない。包むとは、保護する性質もあるが、遮断する、隔ててしまうことでもある。それで成立する事象もあるのだ。

 典はそれがわかっているのだろうか。包みを開いてしまえば一切は無に帰す。膜を取り払うことで生じるのは統一ではない。消滅なのだ。それでも、ぼくの不快感が解消するならいいんじゃないのと典は言ったのだろう。優しいのか無責任なのかよくわからなくて笑っちゃう。

 夜は怖い。

 昼間にあれほど明瞭に隔てられていたものがいともたやすく曖昧になる。だから人間どもは魅力的に夜を語る。善と悪、苦痛と快楽、生と死。そうだ、生という昼間を通り過ぎれば死という夜がやってくる。怖いのは死ではない。何もかもを消滅させてしまう均一だ。夜の中に溶け込んでしまって失われる、ひとつの細胞だ。そんなのはとてもではないけど受け入れられない。

 だけど、だ。

 開いてしまおうか。

 誘惑は常にあるのだ、典に言われるまでもなく。ただ昼間はそれに抗えるだけの分別がある。何もかもが明瞭なのだから踏み外すことはあるまい。だけど夜になってしまえば。この膜を取り払ってしまえば、包みを開いてしまえばどうなるのか。

 もしかしたら均一の中ですべての生物が幸せな環境が発生するかも知れないではないか。隔てたことはひとまずの成功を得た。更にそれを開封したら、もうひとつ上のなにかが。

 膜の表面を撫でて刺激してみる。開かれることを望んでいるかのように震える核。

 いまのところぼくはそれを愛らしく思えるので、まだ包みを解くことはしないだろう。でも、誘惑は強く喰い込んだままだ。

 夜がもたらす曖昧さの中で、なんのことはない、いけない遊びを見つけてしまったのだ。

 だからもちろん夜が怖いのは相変わらずだ。怖さが遊びの、甘い甘い添加物になったが。

 典は共犯である。裏切ることがないよう、ちゅ、ってさせて誓約しなければならない。

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