四錠目 女学生たちは料理を服用する。


 ご飯の作り方なんて、スマホを見ればいくらでも出てくる。

 動画になっているものは、作る過程も含めて、おし、やってみっかと思うくらいには魅力的だが、実際に料理をする際には参照しにくい。慣れてくればたいがいの作業は順々と流れのなかで行っていくもので、動画は作業者の現実には即している。でもこちらのように、はじめの一歩転びそうなだるまさんは、ここでこれ、そこでこう、と区切ってもらわないとなかなかとっつきにくい。出来るひとはいるのかも知れんけど、あたしにゃ無理だな。何事にしてもそうなんだけど、ひとつひとつ確認しながらでないと出来る気がしない。

 あたしの作る飯が美味いかどうか。母親はごちそうさま、としか言わないし、他のひとには食べさせたことはないから客観的にはよくわからないが、あたしは、外食よりも美味しいと感じる。満足出来る、と言ったほうがいいのかも知れない。と言って味付けを自分の好みに工夫するような真似はしていない。レシピを改変するスキルはないのだ。

 そもそも外食は、あまりお腹いっぱいになるような気がしない。ただ入らなくなるという感じで。もしかしたら知らないひとばかりいるところなので、へんなところで緊張しているのかも知れない。家で食べればくつろいでいるから腹の皮が緩むとか。

 あとまあ、当たり前だけど経済的である。ファミレスでカレーライスを頼むと一皿で八百円くらいか。自炊すれば千二百円で八皿くらいいける。白飯なんか二千円で五キロの米買ってきて一ヶ月くらい保つからどんだけのもんだか計算するのが面倒。ともあれ典特製カレーライスは一食二百円くらい。これを三日くらい掛けて食べる。冷凍とかが面倒なので悪くならないうちに食べちゃうように心がけている。

 カレーは美味しくて安くて簡単で、これがなくては生きていけない。そんなひとは多いだろう。日本人はもっとカレーに感謝するべきだし、上昇志向のひとはカレーに甘んじてはいけないと自らを叱咤するべきだろう。

 でもまあ、外食と自炊を比べるのはどんなもんかという気もする。別に不味いわけでもない。たくさんの料理が並べられたメニューを見ればワクワクするし、ま、到着した料理を見てがっかりすることもままあるけど。なんとなくお出掛け気分にもなるし。

 料理が楽しいかどうか。これは大きな問題か。なんだって楽しければ上手になる。苦手なものをいやいややるほど不毛な時間はない。

 あたしはどうか。必要があってやっている、というのはもちろんあるのだが、苦痛ではないし、たまには何か違ったものを作ってみたいとレシピを検索することもある。面倒だなあと思うこともあるが、他に何かしなきゃなんないことがあるでなし、たまにはこの牛すじをことことと煮込んでぷるぷるを味わってみるとするか、程度のポジティブさはある。折角だから美味しく頂きたい。それを当たり前の感覚だとするなら、当たり前程度にはやる気なのだ。

 一例を挙げよう。あたしは麻婆豆腐が好きなのだが、外で食べる麻婆豆腐はあまり好きではない。豆腐が大きくて、片栗粉が多くて、葱と挽肉がちょびっとしか入っていないからである。大雑把なあたしがなんでそんなつっまらんとこに拘るのか。

 これは実は学校給食の影響なんじゃないかと思う。小学校の給食で出てきた麻婆豆腐が好物だったのだが、あれは豆腐がほぼ潰れてしまっていて、片栗粉っぽさがあんまりなくて、その分密度が濃く感じられた逸品であった。あれが食べたくて麻婆豆腐を注文するのだが、いつもあてが外れてがっかりしたものである。

 自分で料理するようになって、麻婆豆腐も作ってみたが、中華の調味料を一から揃えるのは大変だ。麻婆豆腐の素といったような、すでに調合されているものに素材をぶっこんで加熱したら完成する商品を買ってきて造り始めるのだが、やはりいまいちだ。

 思えば、料理で自分で考えて工夫したのはこれが始めてだったのではないか。執着はひとを成長させることもある。あたしは麻婆豆腐の素に記載されている調理法に加えて、挽肉と葱を多めに加えて炒めてひと煮立ちしてやった。

 とても美味かった。中華の味付けの片栗粉を食べさせられる鬱憤がようやく晴れた。肉と葱と豆腐に中華の出汁と甜麺醤やら豆板醤、そこに若干のとろみが加わるから麻婆豆腐は最強なのだ。

 片栗の海に浮かぶ各種素材という状況は、難破した船の残骸のようなもの悲しさを見るものに与える。麻婆豆腐とは、豆腐と葱と挽肉のための祝祭なのだ。各種調味料は、外すことは出来なくともあくまで彩りであるべきだ。

 そう思いませんかあなた。

 ともあれ、なにかに付け消極的なあたしが、料理に関しては熱く語る部分があるのは、そういうことが重なった結果じゃないだろうか。自己流でやっていたものも、調べて改めてみたら美味しくなった、とか。

 そこから先は大変なのだろうが、あたしの暮らしの中で幸福感を得る程度なら、ここまでで十分じゃないかなあ。

「んだよ、料理自慢かよ」

「真希、違うんだよ。相談内容をこうして自分のものとして考えてみないとうまく答えがでないんだ」

「あそ」

「そもそも料理自慢に聞こえるような内容でもなかろ。で、料理が下手なんだっけ」

「はい。どうしたら上手になれますか」

「真希を溺愛している御父上ですら食べ残すとか」

「体調がとか言ってたけど、毎回なんだよね」

「御母上からの評価もあまり芳しくないと」

「一口、味見して首を傾げて、それっきりだねえ」

「御姉妹からも怒りと嘆きの声が聞かれると」

「そこまで言ってないだろ。食べないだけだよ。喧嘩にはなるけど」

客観的には、たかが食い物のことだ、要するに喜劇だが、当事者面々に於かれては地獄絵図と言えようか。

「そこまで言うか」

「まあまあ、気になさらず」

「でも辛い。わけわかんないもん。好きなひとが出来たら美味しいもの作ってあげたいと思うじゃん。好きなひとにご飯作ってまずいから別れようなんて言われたら、料理に使っていた包丁でぶすりと」

「はやまるな」

しかし、そこまでの災厄を巻き散らかしてまで

「あのさあ」

「まあまあ」

そこまでして料理を食べさせたいと思うものだろうか。当番制だったとしても、食べられないようなものを作ってしまうようなら、あたしだったらお洗濯当番と変わってもらう。それだけのハンディを背負ってしまった、宿命の星の下に生まれてしまった真希がそれでもなお料理をしなければならない状況とはいかなるもんなのか。

「教えてやろうか」

「いや、及ばない。そこを解消すれば御家族の負担は減るかも知れないが」

「おい」

「でもそれは真希の悩みとは関係ないからね。家族の悩みだから」

「悩みか」

「まあそのへん気にしない気にしない」

どうしたら料理が上手になるか。相談を持ちかけるくらいなのだから、おそらくはちゃんとレシピを見るとか秤を活用するとかの努力はしているのだろう。それでもうまくいかないのだとすれば、もっとややこしい力が作用しているに違いない。

 何を食べるにしても、腹減った時に喰うのが一番美味い。カップラーメンの美味さというのは、実はそういうとこが大きいんじゃないか。空腹に耐えきれず、最短距離で食べられるものを摂取してしまう。ちょっとの手間できちんとしたものを食べられるのにと言う背徳感も相まって、美味さ以上の美味さが出てしまうのではないか。ここで言う美味さとか空腹とかは、真希の背負っている悩みとは全く関係ないだろうが。

「ところで真希はカップラーメンなどは」

「うちがお湯いれると家族が嫌がる」

「ほう」

それも調理に含まれるか。いよいよ超常現象である。

「まさに超常現象、真希の料理下手は天変地異であると言える。絶体絶命と言える」

「泣くぞ」

「ところで、自分で作ったご飯はご自身ではどのようなご感想を」

「毎回、こんな美味しいもの食べたことないって思う」

「よろしい。完璧です。毎朝必ず、おにぎりを二個握って、それを持って登校するようにしてください」

「おにぎり二個。具は」

「何でもよいでしょう。いや、梅と鮭と昆布をシャッフルするのがいいかな。まあともあれおにぎり二個、その後何事もなければお昼に食べちゃってもいいし、悪くならなければ家に持って帰って食べてもいいでしょう。ともあれおにぎり二個なるべく毎日。お願いしますよ」

「わかったよ。ありがとね」

長年続いた飢饉それが起因しての戦乱と、世界は荒みきっていた。喰えそうなものは何でも喰った。同族喰いさえあった。乾いた荒野には乾いた風が吹くだけだった。ひとりまたひとりと倒れていく一族の者たちを見送る余裕も悲しむ感情もなかった。次は自分なのだ。もう空腹感すらどこかに消えてしまっていた。倦怠があった。絶望があった。怒りと嘆きがあった。やがてそんなものも何処かへ消え去ってしまった。飢えて死ぬときというのは、何もかもを失って死ぬ自分というものを自覚しつつ死ぬものなのだ。が、どこからともなくおにぎりが転がってきたので、我が一族は飢えずに済んだ。おにぎりはそんな空腹を抱えた我々が食しても美味しくはなかった。はっきり言ってまずかった。いや、我らのような高貴な一族がそのような雑な言葉を使ってはいけない。そのおにぎりの味を我ららしく言い表すならば、食すのがもったいないでチュウ、とでもしておこうか。

 しかしこの不味いおにぎり、これほど製法も材料も単純で優劣が生じにくいと思われるおにぎりでよくぞここまでと思われるほどだが、それが我らの状態においては幸いした。後で知ったことだが、極度の飢餓状態からいきなり大量に摂食すると、身体にとっては危険なのだそうだ。

 そのおにぎりは不味かったが、毒とか腐敗という感じではなかった。だから食べることは出来たが、飢餓状態でありながら食が進まない。必然的にちびちびと食べ進めることしか出来なかった。

「女王様、美味しくないでチュウ」

「いまは耐え忍ぶでチュウ。味覚よりも命を優先するでチュウ」

そして我らは生き延びた。不味いおにぎりのおかげだった。不味かったが、あのおにぎりがなかったら。

 今となっては懐かしさすら感じられる不味さだが、今となっては食すのは躊躇われる不味さではあった。ではあったが、感謝はしてもしきれない。美味い不味いなど命あってのことだ。万民が生きてこそのことだ。

「どこのどなたが施してくれたものやら知りようもないが、ありがたいことでチュウ。みなのもの、不味い、いや有り難いおにぎりを与えてくださった存在に、限りない淀みない味覚程度のことに頓着しない感謝を捧げるでチュウ」

「捧げるでチュウ」

「幸福を祈るでチュウ」

「祈るでチュウ」

「もし料理が下手なら美味しくなるよう願うでチュウ」

「願うでチュウ」

「おにぎりくらい美味しく作れるようになるでチュウ」

「なるでチュウ」

真希はひと月後くらいの、あたしが忘れたか覚えているか微妙な時間を経て、チュウ、してちょうだいよ、と言ってきた。

「どうなったんかいな」

料理がうまくなったかどうか聞くのは怖かったのでそう聞いた。

「なんか、家族が美味しい美味しいって食べるようになったよ」

「ほう」

「一度さ、外でおにぎり食べようと思ったら、ふたつとも凄い勢いで転がり始めて、どこいったかわかんなくなって。その日は空腹で困ったけど、そんときからかな。でもさ」

「はい」

「うちが、うちの作ったご飯食べると、なんか美味しくなくなっててさ。つか、あんな不味いもの、よく食べるなって」

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