第三話 私たちの『物語』

 あれから三週間経った。

 みんなが新しい環境に慣れ始め、少し緩み出した頃。

 そんな時期になっても、彼女は部室に来なかった。

 休み時間などを利用して下級生のクラスを巡ってみても、彼女は見つけることは出来なかった。

 どこを探してみても、彼女は影も形もない。

 まるで最初から存在していないかのようだ。

 しかし僕にも希望が、最後の希望が残されていた。

 だから僕は、彼女が入部してから、約束してから一ヶ月の今日に賭ける事にした。

 廊下の足元に耳を傾け、ドアをじっと見つめる。

 程なくして、小さな足音が聞こえた。

 カラカラと開くドアから、待ち望んでいた金色の髪が見える。

 

「おや先輩、早いですねえ。どうしたんです、そんなにじっと見つめて。私の顔に何か付いていますか? それともお待たせしちゃいましたか?」

 何事もなかったように彼女はとぼける。

「可愛い目と鼻と口がついている。それと心配しなくて大丈夫、今来たところだ」

 だから僕も、勤めて冷静を装う。

 ゆっくりと椅子から立ち上がり、彼女の方へと歩み寄る。

「な、なんですか、先輩。今日はやけに積極的ですね。何か良い事でもありましたか?」

「君にただ会えるだけで、僕にとっては良い事さ」

「やっぱり先輩、今日は様子がおかしくありませんか? 頭でも打ったんですか?」

「大丈夫、ただ君の美しさに打ちのめされただけだよ」

 ペラペラわざとキザったらしい言い回しで応える。

 今日は彼女にペースを渡すわけにはいかない。

 だから全力で踊るのだ。

「どうぞ、座ってくれないか。立ったままじゃ辛いだろう?」

 椅子を引き、彼女に座るよう促す。

 彼女をみすみす逃してしまうわけにはいかないからだ。

「はあ、どうも」

 怪訝そうな顔をしながらも、彼女は着席する。

「あれ、先輩は座らないんですか?」

「ああ、僕は最近筋トレを始めたんだ。見てくれ、この筋肉を」

 そう言いながら腕を曲げてみせるものの、枯れ枝のような腕は当然うんともすんとも言わない。

 彼女の目が段々と憐みの色を帯び始めた。

「じ、実は今日は約束を果たしに来たと言いますか……」

 早く切り上げたいのか、彼女はさっさと本題を切り出す。

 鞄をガサゴソと漁り、ひと束の原稿用紙を取り出す。

 

「どうぞ受け取ってください、先輩。これが私の、いえ私たちの『物語』です」

 

 そう言って渡してきた原稿の表紙には『黒猫と王子様』と書かれている。

 僕はそのタイトルに、心当たりがあった。

 

「大好きでした、先輩。さようなら」

 言いながら彼女は立ち上がる。

 でもここで逃すわけにはいかない。

 僕は足をめいいっぱい踏み出し、手を伸ばす。

 慌てて部室を出て行こうとする彼女の手をなんとか掴んだ。

 

「待ってくれ、忍江‼︎」

「ひゃ、ひゃいっ⁈」

 ビクリと身体が硬直し、彼女はそのまま立ち止まる。

「忍江?」

「ななななな、なんですか先輩?」

 明らかに動揺した様子の彼女は、顔を真っ赤に染めて目をグルグルと動かしている。

「どうした、忍江?」

「なんでもありません、なんでもありませんよ。ええ、ただ先輩に名前を呼ばれて、少し驚いてしまっただけです、それだけです、ええそれだけですとも」

「だけど顔が赤い。真っ赤じゃないか」

「だだだ、大丈夫です帰って寝れば治ります。ですので先輩、どうかこの手を離してください」

 そう言いながら僕の手を振り解き足早に去って行こうとする。

 

「おいおい、それはないんじゃないか。紅さん、いやくーちゃん」

 再び彼女はピタリと足を止める。

「……いつから気付いていたんですか、むっくん」

 

 彼女は自らの頭に手を伸ばすと、するりと金髪を剥ぎ取った。

 その下からは、艶やかな黒髪が現れる。

「むっくんっておかしな呼び方だよな。ススムの尻から取って、むっくんってさ」

「くれないの頭を取ってくーちゃんと読んでいる人に言われたくありません。情緒が、遊びがないでしょうに。それと、茶化さないで答えてください」

「渾名は機能性が大事だろう。分かりやすい、シンプルイズベストだ」

「先輩!」

「なんだよ、せっかくの思い出話なのに。わかった、今朝だよ。今朝、ようやく気が付いたんだ」

 睨みつける彼女の眼を真っ直ぐ見つめ返す。

 もう逃げも隠れもしない。

 僕は前に進むと決めたんだ。

「そもそも、いくら探しても君を見つける事が出来なかったのはおかしかったんだよ。君の容姿であれば、遠目からでも気付くはずだ」

「そんなに褒めていただけると、照れますね。それと先輩、私の事をずっと探していてくれたんですか?」

「探しもするさ。心配だった。謝りたかった」

「謝るなんて、言わないでくださいよ。私が惨めになるじゃないですか」

「ごめん、そんなつもりじゃ……」

「ほら、また謝って」

「違う、僕は」

「良いんです、先輩。分かってます。忍江ちゃんは理解のある後輩ちゃんなので」

「違う、忍江‼︎ お前は何にもわかっていない。理解のあるフリをして、わかった気になっているだけだ‼︎」

「先輩に何が分かるって言うんですか‼︎ 私がどんな気持ちで過ごしていたかも知らないで‼︎ 何が『僕らはお互いのことをよく知らないから、付き合うことはできない』ですか。格好つけのつもりか知りませんけど、あんなの全然カッコよくないです。ダサダサです。どんなに私が傷付いたか分かりますか? どんなに私が辛くて、悲しかったか分かりますか?」

「僕に君を好きになる資格は無いと思ったんだ。僕なんかより、他に良い人が」

「『僕なんか』ってなんですか? なんなんですか? 勝手に私の好きな人を貶さないでください。それにいくらなんでもあの言い方は無いでしょう‼︎」

「ああ言えば君は僕の事なんて忘れてくれると思ったんだ」

「八年と三年、合わせて十一年ですよ、十一年。私が生まれてから大半をずっと抱えて来た気持ちを、今更忘れられるわけないじゃないですか。私はどこかの薄情な先輩とは違うんです‼︎」

「薄情なんかじゃ、それにあんなに変わっていたら気付けないだろう‼︎」

「先輩を驚かせようと、喜ばせようとしたんです。私はこんなに可愛くなったんだぞって、そう言いたい気持ちも知らないで‼︎」

 

 彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出す。

 それは奇しくもいつかの光景と重なった。

 

「なんですか、なんですか、なんなんですか。信じた私が馬鹿だったんですか。騙された私が悪かったんですか」

「違う、僕は」

「違いません!」

 駄々をこねるように彼女は首を振る。

 ぎゅっと瞑った目からはキラキラと雫が舞っていた。

「違いません。違いません。違いません。だってそうじゃなきゃ、そうじゃなきゃおかしいじゃないですか」

 彼女は顔を手で覆い隠す。

 隙間から嗚咽が漏れ聞こえる。

「ずっと私は待っていたのに、ずっと先輩のことを考えていたのに、ずっと寂しい気持ちを我慢していたのに。こんなのって、こんなのってあんまりじゃないですか」

「忍江、僕は」

「その名前で呼ばないでください‼︎」

 僕は思い出した。

 彼女はからかわれるから、という理由でこの名前を嫌っていた。

「ごめん、名前で呼ばれるの好きじゃなかったよな」

「違います‼︎」

 再び彼女は叫ぶ。

 優しい音色の彼女の声は、掠れて濁ってしまっていた。

 

「先輩には名前で呼んで欲しかった。私だって気付いて欲しかった。なのにちっとも気付かないし、名前を呼んでもくれなかった。なんですか? 君、君、君って。私は目玉焼きかなんかですか?」

「忍江、僕は」

「その名前で呼ばないでって言ってるじゃないですか‼︎」

 掠れ切った喉から、彼女は言葉を絞り出す。

「呼ばないでくださいよ、今更私を、その名前で。なんですか、なんですか、なんなんですか。心がざわつきます、心がぐらつきます、心が、心が、心が! これ以上私を弄ばないでください‼︎」

「忍江!」

 

「だから言っているじゃないですか‼︎」

 

 紅く充血した瞳で彼女は僕を睨む。

 そして勢いをつけて、僕の胸元に飛び込んできた。

「私は辛いはずなのに。私は悲しいはずなのに。おかしい、どうして、何で喜んでしまうんですか‼︎」

 一言一言が激しく、彼女自身を傷つける。

 彼女が振り上げた拳を、何度も、何度も僕は受け止めた。

「わからない、わかりません、わからないんです。何も、かも、全部! なんですか、なんでですか、なんなんですか‼︎」

 質問にならない質問をただただ受け止める。

 僕に出来ることは、ただそれだけだった。

「先輩は、先輩は、先輩は……」

 拳の雨はやみ、ただただ小雨のような呟きがポツポツと零れる。

 そしてそれも終わると、彼女は両手で僕をそっと押しやり離れていった。

 

「先輩、これを覚えていますか?」

 

 彼女が襟元から何かを取り出す。

 見るとそれは、星に乗った黒猫のチャームだった。

「僕が買った、ペンダント……」

「ええそうです、先輩にいただいたペンダントです。私はずっと持っていました。肌身離さず持っていました。いつもいつも、先輩のことを考えていました。先輩のことを、想っていました。先輩の事を、待っていました。けれども、けれども、けれども、けれども先輩は、先輩は違ったんですね」

 彼女はペンダントの紐を引きちぎり、その手を大きく振りかぶる。

 

「こんな、こんなもの‼︎」

 

 ガシャンという音と共に、それは不可逆な変化を遂げた。

「こ、これで、せいせいしましたよ。スッキリです。笑えちゃいますね。ふふ、ふふふ。こんな、こんなものを私は、大事に、大事、に……」

 ストンと糸が切れた様に、彼女はその場にしゃがみ込む。

「あはははは、はあ。私、何をしているんでしょう?」

 ぼんやりと彼女はそれを拾い上げる。

 かつて彼女の胸元に収まっていたそれは、痛々しく割れ、今はもう見る影もない。

 

「こんなはずじゃあなかったのに。こんなつもりじゃなかったのに。私は、ただ、二人で一緒に……」

 

 強く握りしめた手からは、一筋の赤い雫が垂れた。

「どうして好きになっちゃったんですか。どうして嫌いになれないんですか。どうして忘れられないんですか、先輩‼︎」

 

 

「私はこんなに想っていたのに。私はこんなに寂しかったのに。なんで忘れちゃったんですか、先輩‼︎」

 少女の沈痛な叫びが響く。

「なんで……。どうして……。もう何もわからなくなっちゃいました。ぐちゃぐちゃです。ぐっちゃぐちゃのドロドロです。なんでも教える忍江ちゃんは、何にも分からない忍江ちゃんになってしまいました。ねえ、教えてくださいよ、先輩。私、私、どうしたら良かったんですか?」

 

 それは、小さな女の子だった。

 悲しみに暮れる、少女だった。

 そして、行先をなくした黒猫だった。

 

 果たそう、僕らの約束を。

 置き去りにした結末を。

 かつての僕は、諦めたけど。

 進む勇気を君に、忍江に貰ったから。

 

「『ある日、王子様は黒い猫を見かけました』」

 彼女の横に座り込み、僕は話し始める。

「先輩、何を言っているんですか?」

 ポカンと呆けた表情を浮かべる彼女の頭に手を乗せ、ゆっくり優しく動かした。

「『その瞬間、王子様は雷に打たれた様な衝撃を感じました。一目惚れです。彼女のその美しい毛並みに、しなやかな尻尾に、そしてツンとすました表情に、見惚れてしまったのです』」

「先輩?」

 彼女は怪訝そうな目をしてこちらを見ている。

 そんな彼女に、僕は優しく微笑みかける。

「『しかし、王子様は知りました。猫にはもう、想い人が居たのです』」

「……」

「『なので王子様は、彼女の恋を応援する事に決めました』」

「先輩、それは」

「『せっせと道路を整備して、道に食べ物を用意して、人魚になれる薬なんかも用意しました』」

 思いつくまま僕は物語を紡いだ。

「『彼女の為に頑張ろう、喜んでくれるかな? ああいや、彼女の邪魔をしちゃいけない。だから静かに見守ろう。王子様はそう思いました』」

「勝手です、身勝手です」

 僕はそれに頷き返す。

「『けれども時間が来てしまいました。王子様は、隣国のお姫様と結婚することが決まったのです。王子様は、泣く泣く城へと帰りました』」

「そんなの、そんなのって……」

 酷く絶望した表情を彼女は浮かべている。

「『王子様は黒い猫のことが忘れられず、憂鬱な日々を過ごしていました。そうしてとうとう、結婚式が来てしまったのです』」

「……」

「『浮かない表情の王子様に、城のみんなも心配していました。ああ、かわいそうに王子様。しかし王子様は、お姫様を、みんなを心配させないよう、作り物の笑顔を浮かべていました』」

「そんなの、誰も幸せになりません」

 声をあげてしまった彼女を制止し、話を続ける。

「『さあ、遂にお姫様が目の前に現れました。白いヴェールをめくり、王子様は初めて彼女と顔を合わせました。すると王子様は、大層驚きました』」

「どうして?」

「『彼女は、あの黒猫だったのです。姿形は、確かに人間のものでした。美しい黒髪にしなやかな白い肌、それにツンと自信たっぷりなその表情は、紛れもなく彼女のものでした。王子様は、作り物でない満面の笑みを浮かべます』」

「……」

「『こうして王子様と黒猫は、末永く幸せに暮らしましたとさ。おしまい』」

 

 物語を語り終え、僕は彼女に向き直った。

「そんな、綺麗なお話だったら良かったんだけどな」

「先輩……」

「ごめんな、忍江。せっかくお姫様になってくれたのに、気付けなくて」

「そんな、先輩は」

「僕は情けないからさ、鈍くてとろくて臆病で。おまけに忘れっぽいから。一人じゃ何にも出来なかったんだ」

 照れる気持ちを隠して、僕は正直な気持ちを伝える。

 

「なあ忍江。僕は、君が好きなんだ」

 

「先輩……」

 彼女は眼を伏せ、沈黙する。

 そうしてしばらくして、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 

「待って待って、待ちました」

「ああ」

「ずっとずうっっと、待っていました」

「ああ」

「帰って来たって聞いたとき、私とっても嬉しかったんですよ、先輩」

「そう思って、くれたんだな」

「でも先輩は、いくら待っても会いに来てくれませんでした」

「……」

「嫌いになったんじゃないかって、不安で不安で夜も眠れませんでした」

「忍江、僕は」

「けれども先輩、私のことを忘れちゃってたんですね」

 悲しいそうに笑う彼女に、僕の胸がズキズキ痛む。

 これは僕の、優柔不断さが招いたことだ。

 だから甘んじて受け入れよう。

 けれども僕にはあと一つ、伝えなきゃいけないことがある。

 

「僕はさ、忍江」

「なんですか、先輩?」

「面白いものを書けるようになりたいと思ったんだ」

「面白いもの、ですか?」

「二人で物語を作っているあの時間が楽しくて、ずっとああしていたいと思っていた。だから小説を書いてみたいと、僕は思ったんだ。再会した君に聞かせるなら、思いっきり面白いものを、なんて見栄もあったしね」

「先輩……」

「いろんな小説を読んだ。小説の書き方を勉強した。そうして実際に書いてみて、思ったんだ。ああ、なんて薄っぺらいんだろうって」

「……」

「確かに僕の書いたキャラクターたちは動いていた。話もしたし、戦いもしていた。冒険もしたし、恋もしていた。けれども彼らは、生きていなかった。薄っぺらい紙の上で完結して、外の世界を持たなかった」

 語りながら、僕は当時のことを思い出す。

「何度も何度も書き直して、何度も何度も破り捨てた。何度も何度も書いては書いて、何度も何度も破って捨てた。そうして繰り返すうちにいつしか書く事そのものが目的になっていたんだ」

 彼女は静かに耳を傾けている。

「それから僕はどんな事にも手を出した。作品作りのためになるならと、僕は藁にもすがる気持ちで人の告白を受け入れた。まぁただからかわれていただけだったんだけどな。笑っちゃうだろ?」

「……先輩、浮気です。酷いです」

「本当に酷いやつだよな、僕は。そこで初めて気がついた。一体何をやっているんだろうって。なんだか全部虚しい気がして、僕は何も書けなくなっていた。天罰ってやつだ」

「ふん、自業自得じゃないですか。可愛い後輩を蔑ろにした罰です」

「その通りだよ、忍江。それで何も書けなくなった僕は、けれども紙とペンの前に座り続けた」

「何でですか?」

「誰かさんのさ、笑顔が浮かぶんだよ。笑っちゃうだろ。すっかり蔑ろにして忘れてたっていうのにさ。僕を離してくれなかったんだよ、彼女は」

「当たり前です、執念深いって言ったでしょう、先輩。諦めが悪いんです」

「でもおかげで僕は生きていられた。空っぽの僕の、僕自身を失わずにいられたのは君のおかげだよ。ありがとう、忍江」

「……ずるいです、先輩」

「ごめんな、忍江」

「ずるいです、ずるいです、ずるいです!」

「忍江」

「何で、何で、何で先輩は私を離してくれないんですか、何で私に諦めさせてくれないんですか‼︎」

「忍江の執念深さが移ったのかもしれないな」

「ずるい、ずるい、ずるい!」

「本当にごめんな、忍江」

「そんな事を言っておいて、また私を期待させて。それでまた裏切るんでしょう。私はもう騙されませんよ」

「それは違う!」

「違いません! きっと先輩は、また私を置いていくんです‼︎」

 彼女は眼を瞑り、耳を塞いで塞ぎ込む。

「もう何も言わないでください。もう何も見せないでください。もう何も期待させないでください、先輩」

 彼女は殻に閉じ籠る。

 硬い堅いその殻は、彼女の涙でコーティングされていた。

「忍江は何にも見えません、忍江は何にも聞こえません、忍江は何にも答えません」

 深く、悲しみにくぐもった声。

 けれどもそれは、中身の弱さの証明だった。

「忍江」

 その堅い殻に、僕は壊れ物に触るように触れる。

 僕は知っている。

 僕自身がそうだったように。

 その殻の中身はとても脆いのだ。

 そっと彼女の頭を撫でる。

 かつて彼女にしたように。

「私は殻、いえ卵なんです。ですから何にも感じません」

 ぐすんと洟を啜る音が聞こえる。

 だから僕は、彼女がそうしてくれたように身体を後ろから包み込む。

 

「卵は温めたら孵るんだよ、忍江」

 

 そっと彼女の背中に触れる。

 柔らかく小さなその身体は、優しい温かさに満ちていた。

「ずるいです、ずるいです、ずるいずるいずるい‼︎」

 彼女は後ろに向き直り、ポカポカと拳の雨を降らせる。

「どうして放っておいてくれないんですか? どうして今更構うんですか? どうして、どうして、どうして……」

 彼女の拳が傷付かぬよう、手のひらで全て受け止める。

 多少痛むが、彼女の負った心の傷よりずっと軽いだろう。

 甘んじてその全てを受け止める。

「先輩なんて、先輩なんて、先輩なんて!」

 涙交じりに彼女は拳を振り下ろす。

「先輩なんて、き、きら……」

 しかし言葉は続かない。

 

「嫌いになんてなれませんよ、先輩」

 

 彼女は絞り出すようにそう吐き出す。

 ああ僕は、なんて娘を泣かせてしまったんだろうか。

 彼女の背中に手を回し、その体をギュッと抱き寄せる。

 彼女の顔を押し当てた胸からは、火傷しそうなほどの熱を感じる。

 僕は優しく背中をさすってやりながら呟く。

「なあ忍江?」

「……なんですか?」

 忍江が顔をあげ、腫れぼったい目でこちらを見つめる。

「やっぱり僕、忍江がいなくちゃダメみたいだ」

「今更ですか? 私はとっくの昔にわかってました」

「なあ忍江? 君はまだ、僕のことを」

「ダメです、先輩。ダメダメです。そんなんだから、先輩はダメなんです」

「忍江、君は」

 

 言い終わる前に、喉から出かけた言葉を塞がれる。

 彼女の顔がまさに目と鼻の先にある。

 唇で彼女の柔らかさを感じた。

 息をしようともがいても、彼女は離してくれないし、僕自身勿体無いと思ってしまう。

 酸欠になりかけクラクラの頭に彼女の甘い香りが広がり、残った僕の思考をドロドロに溶かしていった。

 やがて永遠に思えた時間は終わりを告げ、温もりが離れていく。

 夕陽に真っ赤に染まった彼女は、得意げに笑った。

「大ヒントですよ、先輩。いくらにぶちんの先輩でも、これで分かったでしょう? まったく、先輩は忍江ちゃんがそばにいないとダメダメなんですから。もう一人で行っちゃ、ダメですよ先輩」

 そう言って笑う彼女を見て、僕は敵わないな、と思った。

 それとやっぱり、彼女に涙は似合わない。

 だって、あんなにも笑顔が素敵なんだから。

「なあ忍江」

「なんですか、先輩?」

 彼女はこちらのことなんてお見通し、という表情をしてみせる。

 ほら、やっぱり敵わない。

 僕は催促するような彼女の笑みに答えた。

 

「好きだ、忍江」

「知ってます、先輩」

「大好きだ、忍江」

「知ってますよ、先輩」

「お前が思っているより、ずーっと、好きだ‼︎」

「知ってますよ、先輩。先輩のことは、忍江ちゃんなんでもお見通しなんですから」

 悪戯っぽく笑う仕草がどうしようもなく愛おしい。

「なあ忍江、君は」

「ダメですよ、先輩」

 彼女は指で僕の言葉を遮る。

「言いましたよね、先輩。なんでも教える忍江ちゃんでも、それは教えてあげません」

 

 そう言って彼女は僕の頬にキスをした。

「そうだ先輩、週末空けておいて下さいね」

 クルリと一周回ってから、彼女はこちらへ向き直る。

「週末? 何をするんだ?」

「またまた、先輩、忘れたとは言わせませんよ。買ってくれるんでしょう、ペンダント」

「……ああっ⁈」

 言われて僕は、かつての約束を思い出す。

「『壊れたらまた買ってあげる』でしたよね、先輩。あっ、それと賭けのことも忘れていませんよ。『もし僕が君のこと好きになったら、何でも言う事一つ聞いてあげよう』って言ってましたよね、先輩。ちゃんと考えておきますから、楽しみに待っていてください」

 パクパクと口を開ける僕に対し、彼女はふふんと得意気だ。

「忍江ちゃんはなんでも覚えているんです。期待していますよ、むっくん」

 そう言って彼女は小走りに駆け出した。

 後ろ姿をぼんやりと見送りながら、僕はまた息を吐く。

 まあ、なんだ。

 やっぱり君には敵わないや。

 心地よい疲労感に包まれ、僕は後ろに倒れ込む。

 殻を破って破られて。

 外に引き摺り出しあった僕たちは。

 一緒に明日に進めるのだろう。

 だからもう待つのはやめだ。

 僕は自分の足で歩き出した。

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