第二話 「教えてくださいよ、先輩!」
何か大事な夢を見た気がするのに、思い出すことができない。
モヤモヤとした気分で迎えた放課後。
彼女が部室に襲来してから一週間が経った。
あれから彼女は毎日部室に訪れ、賑やかな、あるいは騒がしい日々を送っている。
何故こんな話をしているかというと、彼女を探すよう頼んでいた二人から、見つからなかった、という報告を受けたからだ。
そう言えば二人には文芸部で起こったことを話していなかったことを思い出し、ことの経緯を説明したら、二人は大層ご立腹だった。
もっと早く伝えろと詰られ拳骨まで貰ったが、まあ悪いのは話すのを忘れていた僕なので仕方ないだろう。
それにしても、顔の広い友達狂いにすら見つからないとは、どうやって彼女は身を潜めているのだろうか?
対面に座り、何を考えているのか唸っている彼女の顔を眺めながら思案する。
視線を感じたのか頬に手を当て恥ずかしがる仕草を見せた彼女は、ふと何かを思いついたように大きな瞳をこちらに向ける。
「教えてくださいよ、先輩!」
先程まで静寂に彼女の声が響く。
「何をだよ」
僕には彼女の考えていることがわからない。
「先輩が好きなものを、です!」
目を爛々と輝かせ期待に満ちた目に、僕は思わず気押された。
「な、何で僕が教えなくちゃいけないんだよ。僕の好みなんて」
「それは勿論執筆のためですよ、先輩。やっぱり良い作品には読者が納得するリアリティが求められると思うんです。つまり生の声、取材が必要なんです!」
言ってる内容は確かにもっともらしく聞こえるが、残念ながら溢れる邪念を隠しきれていない。
「それはそうかもしれないが、僕の好きなものって本当に必要か?」
「勿論、必要です」
しれっとした表情で彼女は頷く。
「別に聞くのは僕じゃなくてもいいんじゃないのか?」
「いえ、先輩だからこそ必要なんです。『お互いのことをよく知らない』なんて言っていたのは先輩じゃないですか」
「あ、アレはそういう断り文句だろう! というか良くもまあ、あの後すぐに入部しようと思ったよな」
「お互いのことを知るには同じ時間を共有するのが一番ですから」
「それも部長である僕に話を通さずに直接顧問のところに入部届を持っていくなんて」
「この前も言いましたが、あの後入部届を持っていっても受け取ってくれなかったでしょう?」
「当たり前だろ!」
「であれば顧問のところに直接持っていくしかないじゃないですか」
「そうかもしれないが……」
「でしょう?」
「ぐぬぬ……。と、とにかく、僕はまだ君の入部を認めていないと言うことを忘れないでくれよ」
「仮入部ってやつですよね。先輩も面倒なことを考えますねえ。ねじくれていると言いますか。迂遠とも言います」
「なんとでも言ってくれ。それで、進捗はどうなんだ?」
「ですから作品作りに必要だからさっきの質問をしたんじゃありませんか」
「さっきも言ったが、別に僕じゃなくても良いだろうに」
「いえ、やっぱり一番身が入るのは好きなものについて書く時だと思うのです。だから、先輩についてもっともっと教えてください」
「き、君は一体何を書こうとしているんだ」
「それは秘密ですって言ったじゃありませんか。でも、そうですねえ、先輩なら、わかるんじゃないですか?」
そう彼女は挑戦的な眼で見つめてくる。
だが彼女が何を書くか、僕にはわかるだろうって?
言われて少し考えてみる。
一体何を書こうとしているのだろうか?
作品作りのために僕の好みが必要?
いや、あれは彼女が知りたくて聞いているだけな気がする。
正直ヒントになるか怪しい。
であれば彼女は何を書こうとしているのだろうか?
考えてはみるものの、中々まとまらない。
「ええ〜、先輩わからないんですか?」
「いや、待て。あとちょっと」
「またまた、ちっともわかっていないくせに」
「そんなことない。ヒント、そうヒントをくれ」
「先輩なら知っているはず、これがヒントです。大ヒントです」
「そうはいってもな」
「これ以上は教えてあげません。なんでも教える忍江ちゃんでも、これは教えてあげません」
呆れたような瞳で見つめられても、悔しいが何も出てこない。
大体、僕が知っているだって?
一週間前に出会った僕が、何を知っているというのだろうか。
「まあ、出来上がったら最初に先輩に読ませてあげますよ。だからそれまで精々、悩んで眠れない夜を過ごすといいでしょう」
「ぐぬぬ……」
「心配しないでください。ちゃんと読ませてあげますから」
「それじゃあ、約束な」
「約束、ですか?」
「できたら読ませてくれよ。絶対な」
「先輩もとうとう私に興味を持ってくれるようになったんですね」
「いや、僕はただ君の作品が」
「わかりました。わかりましたよ、先輩。忍江ちゃんは約束しましょう。これが書き上がったら、必ず最初に先輩に読ませにくると‼︎」
大袈裟な身振りをしながら彼女は握った拳を突き上げる。
「お、おう」
「ですから先輩、今度は約束忘れないでくださいね」
「忘れるわけないだろう。僕はそんなに忘れっぽくない。ん? 今何か」
「私は約束を絶対に守るので、そこは安心して良いですよ、先輩」
自信満々に彼女は拳で自らの胸を叩く。
何か違和感を感じたような気がしたが、気のせいだっただろうか?
「それじゃあ気長に待つとするよ」
「首を長くして待っていてください。あっ、でも長くしすぎて捩じ切っちゃわないように気をつけてくださいね」
「君は僕のことをなんだと思っているんだ」
「本を貪る妖怪変化の類だと思っています」
「どうしてそうなる」
「とにかく、これを読んだら先輩も私に惚れ直すこと間違いなしです。期待して待っていてくださいね」
「惚れ直すって、まだ僕は君に惚れたなんて言っていないだろう。それに、君の作品を読んだくらいで僕は君のことを好きになったりはしないぞ」
「いえいえ、先輩があっと驚くような作品をきっと書いて見せますよ。『流石忍江ちゃん、惚れ直したよ』って先輩が思わず言っちゃうような作品を書いちゃいますよ」
「まだ書いてもいないのにすごい自信だな」
「どんでん返しの結末があなたを待っている!」
「邦画のキャッチコピーみたいな文句だな」
「前米が泣いた」
「違う、洋画だった⁈」
「あなたはこの夏、最高の結末を目撃する」
「今は春だ」
「とまあ私の作品の宣伝はこれくらいにして」
「えらくハードルを上げているけれども大丈夫か?」
「もちろん、期待に応えてみせましょうとも」
「まあ、期待せずに待っているよ」
「先ほども言いましたが、期待してお待ちください。こう見えて私は小説が、物語が好きなんです。きっと良いものを書いて見せましょう」
「好きと書けるは違うんだがな」
「大丈夫です。憧れ、と言えば良いんですかね。私は物語を作ることに憧れていたすので、シミュレーションはバッチリです」
「憧れ?」
「ええ。物語は、いろんな世界を見せてくれるんです。未来も、過去も、宇宙も、別の世界だって。手のひらの中に、一つの生きた世界があるんです。これってとても素敵なことだと思いませんか?」
「随分ロマンチックなことを言うんだな」
「まあ、人の受け売りですけどね」
「だと思った。君らしくないからな」
「酷いですね。まあ否定はしませんが。けれどもこの言葉は私の胸にずっと大切にしまっている、宝物なんです」
目を輝かせ語る彼女の目はどこか遠いところを見ている。
なんだかチクリと胸が痛んだ。
「ふうん。君にもそんな奴がいたんだな。面白いやつか?」
「ええ、ええ。それはもう面白く、素敵な人ですよ。忘れっぽいのと鈍感なのが玉に瑕ですが」
「忘れっぽいって、年配の方なのか?」
「まあ年上といえば年上ですね。確か今十六歳だったはずです」
「へえ、僕と同い年じゃないか」
「偶然って怖いですね」
「会えたら案外気が合ったりしてな」
「それはそうでしょうね。会えたらの話ですけれども」
「簡単には会えないところにいる人なのか?」
「いつも近くて遠くにいるんです。いてくれるんです。いてくれたんです……」
「何だよその言い方、それじゃあまるで……」
悲しそうな彼女の表情を見て罪悪感が湧いてくる。
きっと大事な人だったのだろう。
「悪い、あまり思い出したくない話だったか。少し無神経だった」
「ああいえ、勘違いしないでください。その人はピンピンしてますよ」
「それならそんな紛らわしい言い方やめろよ」
「まあ先輩には会えないというのは事実ですから」
「それこそなんでだよ」
「私に教える気がないからです」
「教えてくれたっていいじゃないか」」
「だめです、教えてあげません。なんでも教える忍江ちゃんでも、教えたくないことはあるんです」
そう寂しそうに微笑む。
「……だって、先輩に気付いてもらえないと意味がありませんから」
小さく口元が動くのが見えたが、よく聞き取れない。
「ん? 何か言ったか?」
「いえ、何も。先輩、疲れた顔していますし、幻聴でも聞こえたんじゃありませんか?」
「誰のせいだと思っているんだ。はぁ、まあそういうこともあるか。じゃあ今度気が向いた時にでも教えてくれよ」
「先輩の態度次第では考えておかない事もないです」
「なんか嫌味な言い方だな」
「嫌味にもなりますよ。こんなに可愛い後輩ちゃんが冴えない先輩に構ってあげているのに、ちっとも靡いてくれないんですから」
「自分で可愛いって言っちゃうのか」
「当たり前でしょう。私だって、努力しているんです。磨いているんです。磨き上げているんです。自分で可愛いと思えないものを先輩の前にお出しすることはできませんから」
「君も努力しているんだな」
「ええそうです、どこぞの朴念仁のために努力しているんです。可愛いって言って貰うために、努力しているんです。だからもっと優しくしてくれてもいいんですよ、先輩」
「それとこれとは話が別だ」
「つれないなあ、先輩は。ああ、そういえば先輩は私が完全に先輩目当てで入部したと思っているようなので一応断っておきますが、そもそも私は最初から文芸部に入部するつもりだったんです。元からです。先輩に告白したあの時点で、すでに入部することは決まっていました。既定路線でした。私はここに物語を作りに来ています。ですので、先輩との会話はあくまでオマケに過ぎません」
「オマケって、お前な」
「せいぜい九割くらいです」
「それはもう主目的じゃないか! オマケに主目的が思いっきり上書きされちゃっているじゃないか‼︎」
「失礼な、私の動機は一〇〇%純粋なのに」
「それはもう一〇〇%不純だ、純粋に真っ黒だ!」
「先輩にも伝わりましたか、私の純粋さが」
「君の純粋な不純さは嫌というほど伝わったよ」
「嬉しいです、この調子でどんどん先輩に私のことを知ってほしいですね」
「知りたくなかったよ、こんなこと」
「人は知りたくないことを知って、大人になっていくんですよ、先輩」
「こんなもの知っても将来の役には立たないだろ」
「私とこれから付き合う上では大事ですよ?」
「そんな未来絶対訪れない」
「いやいや、未来は誰にもわかりませんよ」
「絶対だ絶対、君のことを僕が好きになるなんてこと、絶対にない。何なら賭けたっていい」
「へえ、何を賭けるんですか?」
「もし僕が君のこと好きになったら、何でも言う事一つ聞いてあげよう」
「言いましたね、今何でもって言いましたね。後で後悔しても遅いですよ?」
「な、なんだよ、眼をギラギラさせて。そんなに期待したって、僕が君を好きになるなんてこと、万に一つも無いよ」
「いやぁ楽しみですね、先輩に何してもらいましょうか」
「聞けよ」
「あれがいいですかね、それともあれがいいかもしれませんね」
「無駄だ無駄、ありえない。逆立ちしたってありえない」
「逆立ち? 先輩がするんですか? ……ははぁん、先輩もムッツリですねえ」
「何を言って」
「いやいや、いいんですよ、先輩。先輩だって男の子ですもんね。女の子のスカートの中を覗きたくなる日もあるんでしょう」
「はぁ⁈ そんなわけないだろう。第一、なんで僕が逆立ちするんだ。よりにもよって、君のスカートを覗くために」
「え? 先輩がしないってことは、逆立ちするのは私ってことですか? スカートを履いた女の子に逆立ちさせるなんて、なかなか先輩も良い趣味をお持ちですねえ。まあ、先輩がどうしてもというなら私もやぶさかではありませんが。サービスしちゃいますが。先輩のために。後輩の女の子が逆立ちするのに性的興奮を覚える先輩のために。こうなることが分かっていたら、もう少し気合の入ったのを履いてきたのになあ」
彼女はこちらに生暖かい目を向けながら立ち上がる。
「僕に変な性癖をつけるのはやめてくれ。そして床に手をつき逆立ちしようとするのをやめろ、今すぐやめろ。足を上げるな、おいこら!」
彼女はこちらに背中が見えるような姿勢で前傾姿勢になり逆立ちを始めようとしていた。
勢いをつけながら足を上げているせいで、スカートの中身が見え隠れする。
「その性癖の使い方は間違っていますよ、先輩。正しくは性的嗜好、あるいはフェティシズムです。まあこれはこれで語源から外れた言葉ではありますが。あれ、もしかして先輩、おへその方が好きでした? シャツが捲れて見えるお腹とおへそがお望みでしたか。すみません、気付かなくて。私は気配りのできる後輩なので、サービスで見える様に調整しますね」
スカートからシャツを出し、再度逆立ちをしようと勢いをつけ始める。
「僕は逆立ちフェチなんてもの持っていない。ヘソフェチなんてものも持っていない。僕はいたってノーマルだ。だから逆立ちなんてしようとするのはやめろ。こちらに尻を向けて足を上げようとするのを今すぐやめろ‼︎」
「おや先輩、お尻を突き上げた姿勢の方が好みでしたか? お尻フェチは比較的ノーマルですもんね。こんな姿勢で良いですか、先輩?」
今度は床に手をつきこちらにその形の良い尻を突き出すような姿勢で止まってみせる。
シャツが捲れ、隙間からお腹かチラリと見える。
スカートが上がり顕になった健康的な太ももがとても眩しい。
「だからもうやめてくれといっているんだ。早く座ってくれ。床にじゃない、椅子にだ。こんなところ、他のやつに見られたらどうする」
どうして彼女はこうも突き抜けているのだろうか。
少しは節度を持ってほしい。
そう考えていると、つい先日聞いた話を思い出す。
「君はもう少し、紅(くれない)さんのように落ち着きを持つべきだ」
それを聞いてか、彼女はピタリと動きを止める。
「……どうして今その紅さん、とかいう人の名前が出たんですか?」
なんだか少し声色が変だ。
「なんでって、僕のクラスで話題になっていたからさ。一年生に、紅っていうめちゃくちゃ綺麗な女子がいるらしい。でもってその子は清楚で物静か、まさに大和撫子って感じの娘なんだと。同じ学年なんだから、少しは君も彼女を見習って」
「それだけですか?」
なおも伺うようにこちらを見つめてくる。
「それだけ、だよ」
何かを懇願するかのような瞳に、途切れ途切れの言葉が零れた。
「そう、ですか」
明らかに落胆した様子で彼女は肩を落とす。
一体どうしたというのだろうか?
「ほら、だから君も少しは他の人の目を気にしてだな」
「他の人なんて来ないんじゃありませんか。部員は私と先輩だけしかいないんでしょう。先輩にだったら、見られても構いませんよ」
明らかに不機嫌そうな彼女は軽くそう答える。
「僕が構うんだよ。それに万が一ということもある。誤解されたら困るだろう?」
「やだなあ、先輩。後輩に逆立ちさせてスカートを覗こうとしたのは事実ではありませんか」
「勝手に事実を捏造して僕を変態にするのはやめてくれ。逆立ちは君が勝手にやり始めたんだろう」
「逆立ちに関しては私が言い始めたわけではありませんよ、先輩。それとヤリ始めたってセリフ、何かいかがわしい事を始めたように聞こえますね、先輩」
「その補足本当に必要だったか? なあ本当に必要だったか?」
「文学部には言葉の持つ多面性を探求する側面もありますから、必要なことですよ」
「それは詭弁というやつだろう。はぁ、まあ、とにかくだ。今のやりとりでハッキリした。やっぱり、僕が君を好きになることは逆立ちしたってあり得ない」
「逆立ち? 私がすればいいんですか? 先輩もムッツリですねぇ」
「ループしてるから!」
「ループってなんですか、先輩。私は今から先輩の期待にお応えしてスカートでの逆立ちを披露するところなんですけど」
「そのやりとりも、もうしたから! 早く席につけ」
「逆立ちって先輩が言い出したんじゃないですか」
「逆立ちしろとは一言も言っていない。逆立ちしてもと言ったんだ」
「逆立ちですか? 先輩のリクエストにお応えして、逆立ち披露しちゃいますよ」
「だからリクエストしていないっての。何回繰り返すんだこのやりとり」
「先輩の言葉選びが悪いんですよ。そこは『天地がひっくり返っても』とかにするべきです」
「ああそうかい、次からはそうするよ」
「そうしたら私も逆立ちして天地をひっくり返してみせます」
「結局変わらないじゃないか!」
「それだけ私は諦めが悪いってことですよ、先輩」
「今のはもう諦めが悪いとかそういう話じゃないだろ」
「だから先輩も、そんなに簡単に決めつけないでください。時間は山ほどあるんですから、じっくり結論を出していきましょう」
「悪いが貴重な青春時代には限りがあるんだ。そんなことにかまけている余裕はない」
「だからこそでしょう。今しかできないこと、いっぱい楽しまないと」
「ああそうだな、そのつもりだ、そのつもりだったよ」
「ほらほら、そんな不機嫌そうな表情をしないください。幸せが逃げて行っちゃいますよ。どうしたんです、そんなにカリカリして。なんなら忍江ちゃんが優しく慰めて差し上げましょうか?」
「いや、いい」
「またまた、遠慮しなくてもいいんですよ。スキンシップは心を落ち着かせるのにとても良いと言いますし。ねっ、先輩?」
「誰のせいでカリカリしていると思っているんだ」
「睡眠を削り夜更かしして本を読んでいる先輩でしょうか? だめですよ、先輩。夜はしっかり寝ないと。記憶の定着は夜に行われるんですよ」
「君のせいだよ。君がやかましく騒ぎ立てるからだよ」
「先輩の人生は退屈そうですし、隣で騒ぎ立てているくらいがちょうど良いのではないでしょうか?」
「僕は平穏を求めているんだ。静かな方が好きなんだよ、僕は」
「なんですか先輩、そんな枯れた老人みたいなこと言っちゃって。そんなことを言っていると、ボケて忘れっぽさが酷くなってしまいますよ」
「余計なお世話だ」
「それに先輩、さっき言っていたじゃありませんか。『貴重な青春時代』って。一度しかない青春をそんなふうに浪費してしまうのはあまりにも勿体無いと思いませんか?」
「浪費じゃない、きちんと僕の糧になっているから無駄じゃない」
「そんな紙の上のことだけじゃなく、先輩はもっと周りをよく見た方が良いと思います。例えば目の前にいる可愛い可愛い後輩ちゃんのこととか忍江ちゃんのこととか」
「大したもんじゃないよ、現実なんて。見る価値もない。すべからくゴミだ」
「それは先輩の心が汚れているからではないでしょうか? 先輩の心の眼鏡が曇っているのではないでしょうか?」
「なんだよ、また僕の心が捻くれているって言いたいのかい?」
「いや、確かに先輩の心はねじ切れるんじゃないかと心配になるくらい捻れていますが、それとこれとは話が別です。先輩には世界が歪んで見えてしまっているんじゃないかと思うんです。指紋でベタベタ汚れたレンズのように。そんな低解像度では、本当に大切な物まで見落としてしまいますよ」
「うるさい、そんなの僕の勝手だろう。第一恋に盲目になっている君にだけは言われたくない」
「確かに私は恋に一直線ですが、それは何も見えていない、と言うことではありません。ズームしているんです。限界まで先輩にフォーカスしているんです。ですから、先輩のことなら忍江ちゃんはなんでもお見通しですよ」
「君に何がわかるって言うんだ」
「少なくとも意固地になっているのがわかります。怖がっているのがわかります。先輩、何をそんなに恐れているんですか?」
「恐れる? 僕が? 何を? そんなの出鱈目だ、僕は何も恐れてなんかいない!」
「そんなに強がって否定しているのがなによりの証拠です」
「僕は強がってなんかいない。ただ事実を述べているだけだ」
「弱い犬ほどよく吠えるとも言います」
「なんだ、君は僕が弱い犬だとでも言うのか?」
「そうです。私には先輩が、怯えて震えて縮こまるチワワに見えます。傷を抱えて隠しています」
「そんなことはない。傷付くわけがない、僕は何も期待をしていないんだから」
「だから裏切られることもないって言いたいんですか? 弱いです、先輩。弱々です。そんな消極的な考え方をしているから、幸せも逃げて行っちゃうんです」
「僕は今でも十分幸せだ」
「嘘です、いつもムスッとした表情で退屈そうに過ごしているじゃありませんか。つまらなそうに過ごしているじゃありませんか」
「そんな事はない。僕は元からこんな顔だ」
「嘘です、私は時折先輩が何かを期待して諦めた表情をしているのを知っています」
「僕は何かに期待なんかしていない。期待しても、するだけ無駄なことを知っているからな」
「それは先輩が諦めちゃっているからです。足を踏み出す事なくモジモジしているからです」
「踏み出した先に道がないのを知っているからだ」
「それは先輩が小さく様子を伺っているからです」
「見えている穴に自分から飛び込んでいくやつはいないだろう」
「先輩はその穴の大きさに気付いていないだけです。大きく足を踏み出せば、それは飛び越えられるはずです」
「そうやって落ちたことがないからそんなことが言えるんだ!」
「落ちてもそこからまた這い上がれば良いじゃないですか!」
「出来るもんか。一度落ちたら這い上がるのがどれだけ大変かも知らないで」
「諦めたら本当に終わってしまうんです。そんなの、寂しいじゃないですか。悲しいじゃないですか」
「諦めたら楽になる。平穏を得られる。高望みなんてしない。それで何が悪い」
「悪いです。一人で生きているつもりになって、孤高に生きているふりをして。人の気持ちも知らないで。私は絶対に認めません!」
「認めなかったらどうなる。どうするって言うんだ。上から土を投げ落として、それで満足か? 人を助けているつもりになって、生き埋めにして満足か?」
「だから耳を塞いで蹲っているんですか? 自分は何も知らないんだって、見て見ぬふりをしているんですか? 真っ暗な穴の底は、そんなに心地良いですか?」
「ああ良いね。心をざわつかせるものは何もない。穏やかだ」
「心がざわつくのは、先輩の心が求めているからです!」
「必要ない、煩わしいだけだ」
「そんなんだから、心にカビが生えてしまうんです。もっと自分の本心と向き合ってください」
「これが僕の本心だ。心の底から思っているよ。ただただ刺激のない平穏な日常が恋しいってね」
「それは先輩が固まっているからです。自分で小さく丸くなって、ますます身動きが取れなくなって」
「いいじゃないか、動かなくたって。動けなくたって。それでも僕は、生きていける」
「それはただ思い込んでいるだけです。先輩の心は悲鳴を上げているんです!」
「そんなはずはない」
「あるんです。耳をずっと塞いで、ただ聞こえないふりをしているんです」
「自分の心の声は、自分が一番わかっている!」
「わかっていません! 目を瞑り、耳を塞いだ先輩は何も知らない、わからないふりをしているんです」
「君に何がわかる!」
「わかります。先輩が変わってしまったということは」
「僕は元からこうだった」
「違います」
「違わない。第一出会って一週間の君に何がわかる」
「わかります。ずっと先輩を見てきたんですから。想ってきたんですから」
「そんなの勝手に考えているだけだ。君が勝手に解釈しているだけだ。残念ながら、僕は君が考えているような奴じゃないよ。だから他を当たってくれ。悪いがもう僕のことは放っておいてくれないか?」
「できません。私はまだ諦めていません!」
「諦めてくれ。僕にその資格はない」
「そうやって蓋をするんですか。見て見ぬふりをするんですか。聞こえないふりをするんですか」
「そうするのが一番賢いんだよ。僕の経験則だ」
「馬鹿です、愚かです、浅はかです。先輩は井戸の中の蛙さんです」
「いいさ、それでも。僕にとっては、それが全てなんだ」
「それじゃダメなんだって、どうしてわかってくれないんですか!」
「それは君の都合だろう。君の理屈だろう。僕にそれを、押し付けないでくれ」
「嫌です、押し付けます。押しかけます。無理矢理だって、受け取ってもらいます」
「それが迷惑だって言っているだろう!」
「迷惑上等です。先輩ごときの蓋なんて、私が壊してこじ開けてみせます!」
「独りよがりだよ、君は!」
「先輩は自分のことすら見ていないじゃないですか!」
「五月蝿いな君は!」
「こうでもしないと、先輩は聞いてくれないじゃないですか‼︎」
机を強打し、ガタリと彼女は立ち上がる。
熱くなった場に、唐突に静寂が訪れた。
彼女の荒い息遣いが聞こえる。
余裕たっぷりな普段の様子とは異なり、彼女は真っ赤な顔で興奮していた。
僕も頭を冷やしながら、酸欠になりそうな肺に空気を送り込む。
お互いに睨みながら、どちらが先に口を開くか伺っている。
さながら気分は早撃をするガンマンだ。
ただ僕らの状態は、お世辞にも格好良いとは言えない。
わかっていた。
彼女の方が正しいと。
傷付くの恐れて心に蓋をし、殻に篭って見て見ぬふりをする。
それはきっと、良くないことなんだろう。
けれども僕は、選んでしまった。
選ばされてしまった。
そうしなければ、崩れてしまいそうだったから。
壊れてしまいそうだったから。
僕は残ったものをかき集め、固めて心を覆う殻にした。
これ以上壊れてしまわないように。
これ以上零れてしまわないように。
歪に組み上がったそれはかつての形もわからなくなったけれども、それでも僕を守ってくれた。
暖かく包み込んでくれた気がしていた。
もう何だかわからなくなってしまったけれども、それは僕にとって大事なものだったような気がしている。
だからというわけではないけれども、僕にはそれを手放せなかった。
一度手を離れてしまったものは、帰ってこない事を知っていたから。
ただその温もりに、包まれていたかった。
ただその温もりに、触れていたかった。
それは贅沢な事なんだろうか?
いやわかっている。
このままじゃいけないと。
わかっていた。
手放さなければいけないと。
けれどもそれは今じゃないんじゃないか?
また明日、また今度すれば良い。
後回しにして過ごした日々。
また、また、また、言い訳をずっと続けていた。
いつ来るのかわからない明日を待って、ただただ怠惰に過ごしていた。
明日を待って、心地よい停滞に身を包み変わらぬ静寂に身を委ねた。
そんなもの、待っていても来るはずないのに。
待って、待って、待ち続けた。
何を待っているのか忘れ、何をしていたのかも忘れて変わらぬ日々を送り続けた。
だから彼女の言い分はきっと正しい。
それでも僕は、認めることが出来なかった。
次には何を失うんだろう。
次には何が壊れてしまうんだろう。
次には、次には、次には。
次を考えるだけで足がすくむ。
動こうとするだけで悲鳴をあげる。
どうして変わろうとするんだ。
そのままの方が良いに決まっている。
そんな言葉が僕を掴んで離さない。
雁字搦めで動けなくなる。
「無理だよ、僕には」
ポツリと弱音が零れる。
目を伏せ、机の上の影を眺める。
ああ、なんて臆病なんだろう。
ああ、なんて情けないんだろう。
頭がどんどん重くなり、思考がどんどん沈み込む。
どうして、どうして、どうして。
ぐるぐる頭で回る言葉に、ますます鈍くなっていく。
視界が次第にぼやけてきた。
僕の影も歪んでいく。
歪んで溶けて、わからなくなる。
ポタリと机に水滴が落ちる。
ポン、と頭に手が乗った。
ゆっくりと頭を撫でる、優しく柔らかい感覚。
「別に私は、何も一人で立ち上がれなんて言っていませんよ、先輩」
後ろから僕を影が包み込む。
いつのまにか後ろに回り込んでいたらしい。
「まったく、そんなんだから周りが見えていないって言っているんです。みんなが手を差し伸べてくれているのに、気付かないふりを続けてたんです。助かるつもりのない人を助けることはできないんですよ、先輩」
背中に柔らかな感覚を感じる。
人の、彼女の温もりを感じる。
冷え込んだ身体に、心にじんわりと熱が伝わった。
とくん、とくんと刻む鼓動を受け取る。
ただそれだけが心地良い。
「ねえ先輩? 聞こえますか?」
「ああ、聞こえているよ」
「私も、聞こえています」
「そうだな」
「ねえ先輩?」
「なんだ?」
「私、先輩のこと、好きなんです」
「ああ」
「好きなんですよ、先輩」
「知ってるよ」
「いいえ、先輩は知らないんです。私がどれだけ先輩のことが好きなのか」
「そうだな。僕は知ろうともしなかった」
「酷い人ですよ、先輩は」
「本当だな」
「どうしようもない人ですよ、先輩は」
「まったくだ」
「なのに好きなんです、先輩のこと」
「ありがとう」
互いの鼓動が溶け合い、一つになっていく。
それがとても心地よい。
「ねえ、先輩?」
「なんだ?」
少し彼女の身体が強張ったのを感じる。
緊張しているのだろうか?
「……何でもありません」
脱力し、身を委ねてきたのを感じる。
ふうと息を吐く彼女の吐息が耳にかかる。
「何だよ? 気になるじゃないか」
「何でもありません。何でもないったら、何でもないんです」
「そうか?」
「そうです。忍江チャン、ウソツカナイ」
「何でカタコトなんだよ」
「何でもなかったことなので」
はははと二人で笑い合う。
それだけがただ心地よい。
こんな時間が続けば良いのにと思う。
馬鹿な事を言い合って、くだらない事で笑い合う。
そんな日々も、悪くない。
彼女と一緒なら、きっと何でも楽しめる。
僕は確かにそう思った。
「ねえ先輩、こっちを向いてもらえますか?」
「どうし」
頬に柔らかな、しっとりとした感覚。
思わず目を見開いてしまう。
離れていく愛おしい熱。
呆然とした僕を見下ろす彼女。
窓際、逆光の中彼女は確かに笑っていた。
「さようなら、私の大好きな先輩」
鞄を掴み、駆け足で出ていく彼女をぼんやりと見送る。
頬に手をやると、微かに湿った感覚が僕に事実を認識させる。
きっと今鏡を見たら、とんでもなくだらしない顔をしているはずだ。
温もりの残滓を感じながら、僕は甘い夢を見た。
どんな顔で彼女と会おう。
どんな事を彼女と話そう。
僕は明日に思いを馳せる。
早く明日が来れば良い。
僕は強くそう願った。
明日をこんなに待ち望んだのはいつぶりだろう?
その日、僕はよく眠れなかった。
次の日の放課後、僕は部室で本を読んでいた。
いや、読んでいるポーズをしている、と言った方が正しいだろうか?
僕は文庫本を片手に持ちながらドアが見える位置に陣取り、彼女が来るのを待っていた。
ガラガラと騒がしくドアが開くのを待っていた。
『先輩!』と花のような笑顔で語りかけてくるのを待っていた。
それは永遠のように感じられた。
カチッカチッと針の進む音が静かな部屋に響く。
いつもは心地良く感じていたその音は、今日はやけにうるさく感じた。
胸の鼓動が大きくなる。
僕はどんな顔をしているか気になって仕方がない。
こんなことなら鏡を買っておけば良かった。
座りの悪さを感じながらドアの方をじっと見つめる。
廊下の足音に耳を澄ませる。
その日、下校時刻のチャイムが鳴るまで彼女は部室に現れなかった。
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