スタンバイ #3

「お、絢真けんしん。お疲れ」

放課後、教室で自習をしていて、そろそろ帰ろうと廊下を出た俺は、ばったり舜と会う。

「おー、お疲れ」

特に誘うわけでもなく、2人で一緒に帰ることになる。

「また残って勉強?偉いな、お前は」

「いや、模試の成績お前の方が高いだろ?」

「あれ、そうだっけ?まあまあ、お互いさまってこと!」

舜と俺は、保育園の頃からずっと一緒だ。高校も同じところを受けて、受かって…変な縁ってこういうやつ?まあ、途切れてほしくはないけど。

階段を下りる足音が、誰もいない校舎に響く。もう昇降口以外の電気は消されていて、闇の中に運動部のかけ声がどこからか聞こえてくる。

「絢真さぁ、塾入る予定ある?」

舜が下駄箱の扉を開けて、靴を取り出す。俺は上履きを脱ぎ捨てながら答えた。

「…今のところ、ないな」

「そっかー、ま、お前なら大丈夫か」

「そういうお前だって文系のトップクラスだろ?ラジオであんなこと言いやがって」

「いや、マジで数学やばいんだよ。共通テストなんて消えろ~」

「…お前、どこ行きたいんだっけ」

「んー?んとね、D大。加藤先生がさ、ゴリ押ししてくんの。お前なら行けるって。行けねーよっての」

「…ふーん」

俺たちはそうやって駄弁りながら、校門を出た。空には、ぽつぽつと星が瞬いている。

「だいぶ日が長いよね、最近」

「もうすぐ夏だよなー、補習しかないけど」

「さぼんなよ?去年みたいに」

「うっせ、絢真だって1日俺と遊びに行ったじゃん」

「あれはカウントなし」

「ハハ、バーカ」

久しぶりに話したけど、やっぱりこいつは変わらない。昔からバカ話をしては笑い合って、俺にはこいつが1番気が合うと思ってるのは内緒っていうか…こいつも分かってると思いたい。

「なぁ、サイダー飲まね?喉渇いたわ」

「まぁ、たまにはいいか」

舜が、通学路途中の屋根付き自販機に走って行く。お金を入れるチャリンという音と、サイダーがゴトンと出てくる音がやけに大きく聞こえた。

「あー、うめぇ」

「そういえばさ、ラジオで1年の子が、夏が楽しみっていうお便り出してたよな」

「うんうん。いいね、楽しんでほしいな」

「…」

こいつは人の幸せを祈ることができる奴だ。俺はどうだろう…。考えようとしたけど、自習して脳が疲れてるから、黙ってサイダーを飲む。冷たい砂糖水が、喉を滑り落ちていく。

「ラジオ、順調そう?」

「俺はいいんだけど。1番はお前だよ。聴く人がおもしろいと思ってくれれば、大成功なんだから」

舜が俺に期待の目を向ける。俺はなんだかこそばゆくなって、サイダーを口に含んだ。

「いや、俺は好きだよ?あのラジオ。元気出るし」

「やったー、じゃあ俺の努力も報われたってことで」

遠くからバイクの音がする。暗さが増してきて、舜の顔にも深い影を落としていた。

「そうだ、今週の金曜の放送で俺、放送部引退だから、最後のラジオ絶対聴けよ?」

舜の煌めいた瞳。こいつの貪欲な姿勢。まっすぐで、俺にはないもの。

自販機の屋根の下、明るい星ような舜とただそれに照らされてるだけの小惑星みたいな俺。この一瞬だけ、勉強を忘れてた。






「ただいま」

「お帰り、ご飯できてるよ」

家に帰ると、お母さんがいた。カバンをソファーに投げながら尋ねる。

「今日は早かったね」

「仕事早く切り上げたの、明日は遅いよ」

「お父さんは?」

「今日は10時過ぎに帰るって」

切り干し大根の匂いを嗅いだ途端、お腹が空いてるってこと思い出した。さっき炭酸飲んだのに。

「早く手を洗って、ご飯にしよっか」

母さんが台所から言った。



「サバ、おいしいね」

「ほんと?よかったー、スーパーで処分品だったの。まずかったらどうしようと思った」

母さんと向かい合って、たまに話しながらご飯を食べる。このところあんまりお母さんと話すネタがない。

「絢真、勉強どう?」

ネタといえば、この話題だけだ。

「…まあまあ」

「ならいいけど。塾行かなくてよさそう?まあ、高校入試のときは塾行かずに受かったもんね、絢真なら大丈夫かぁ」

お母さん、なんにも分かってねぇ。高校入試と大学入試って、全く違うんだよ。…俺、今けっこうやばいんだよ。今日だって…。そこで我に返る。思わず心の声が漏れそうになって、サバをかぶりついた。

「なんかあったら先生に言いなよ、あたしじゃ無理だから」

お母さんが笑う。なにかチクリとしたのは、喉に触れたサバの骨だけではない。







中島なかしま、今日昼休み第2講義室来られるか?」

翌日の朝のホームルームが終わったあと、担任の山岡やまおか先生に呼ばれた。当然、進路の話だろう。

「…はい」

どうせ内容は分かってる。だから、今は1限にある英単語テストの勉強をしよう。そう思って単語帳を開いたのに、まるで単語が入ってこない。あれ?どうした、俺?

「はい、おはよー」

英語の先生が入ってきたので、俺は無理やりにでも集中力を上げた。




授業を受け始めたら雑念は消えると思ったのに、なんだか今日はだめな日だった。こんなんじゃ落ちるぞ、俺…。

こんな感じで、午前が終わった。言われた通り、俺は第2講へ向かった。けど、足が重い。

「失礼します」

ガタガタミシミシ、ボロいドアを開ける。

「おう、お疲れさま」

やっぱり、先生は何枚かのプリントを机に広げていた。書いてあることは見なくても分かる。

「それでね、今日は今後のことについて話し合いたいんだ」

先生はそう切り出した。先生はまっすぐ俺の目を見た。

「お前、この前の校外模試、数学と英語が振るわなかっただろ?それで、ちょっと保険かけておくのも手かな…って俺は思ってる」

「第一志望のK大だけじゃなくて、C大も視野に…ってことですか」

「うん」

苦いものを食べているかのような表情の先生は、手元のプリントを特に読むわけでもなく、ぺらぺらめくった。

「僕、電子工学が学べるなら、どこでもいいです。ただ、K大にチャレンジしたいだけです」

「うん。それは分かってる。俺も応援したいけど、けっこう時間なくなってきてるのも事実だから…。…4月にも聞いたけど、お前浪人してもいいって思ってる?」

「……」

──思ってた以上に、時間ないし、俺はそれに見合う結果を出せていないんだな。

志望大変更。そのことをいつ言われるか。心の奥でいつも思ってた。他のやつより勉強してるつもりだし、一応理系クラスでは上位にいる。やっぱり、地元でトップの大学に挑戦したかった。もちろん、やりたい仕事につながる電子工学を学ぶことが1番の目的だけど、俺がこの3年間出してきた結果を誰かが見れば、俺がK大を目指すことにギャップは感じられないと思う。

───でも、現実ってそう甘くない───

使い古されたセリフだけど、今までこんなセリフ使ったことなかったけど、今の俺自身に送る、ぴったりのセリフ。

そう、俺は4月に入ってから成績が伸びてない。それどころかどんどん落ちてきている。元から苦手な英語だけではなく、俺の武器の数学さえも。合格判定もツーランク下がった。そりゃ、先生が心配するのも分かるし、このままじゃやばいってこと、自分が1番分かってる。勉強量も、集中力も、変わってないはずなのに。モチベーションだって、なんとか保ってるはずなのに。

「ごめん、いきなり言われてもな。ちょっと、考えといてくれるか。別に、K大やめろって言ってるわけじゃないし。お前の努力も分かってる。ただ、ちょっと最近の成績を見ると…ってだけだから。親御さんともしっかり話してさ。俺もいつでも話聞くから。いつでも、職員室来い」

少し黙ってた俺に、先生が困ったように笑った。違う、先生。俺が現実を受け入れてないせいだから。そう言いたいのに、口に接着剤がついてるみたいだ。

「さあ、ここで終わり。メシ食ってないだろ?教室戻れ」

先生がプリントをまとめる。俺はなんとか立ち上がると、

「ありがとうございました、決まったら伝えに行きます」

と、なるべくしっかりした声で言った。

「中島。あんま無理すんな」

廊下での別れ際、先生に背中を軽く叩かれた。なんだかそこが、ひりひりした。








雨の匂いがする道。やっと学校が終わった。今日は自習をせずに帰ることにした。空に浮かぶ灰色の雲のように、俺の気分も晴れない。今日の降水確率は高かったのに、傘を忘れてきた。なんかついてない。

「それでさぁ、早川先輩リアルで見た友だちがさぁ、めっちゃイケメンって言ってたー」

「マジ?イケボで顔もいいってやばすぎー」

「話もおもしろいし、最強じゃん?」

俺の後ろを歩く後輩の女子ふたりの声が耳に入る。

…舜はなんでもできるのに。勉強も、昔一緒にやってたサッカーも。それに、コミュニケーション能力の高さだって抜きん出ている。俺は、俺は、俺は、俺は。

心の方が先に、雨が降ってる。

道路の石ころを蹴りたくなったけど、モノに当たるのだけはやめろって理性が言った。しばらく悶々と歩いていると、一粒、二粒落ちてきて、すぐにどしゃ降りになった。俺はバス停まで走った。雨が顔を打ち付ける。濡れた髪の毛が、頬に張り付く。

「おい、絢真!」

舜の声が聞こえたと思った瞬間、雨がやんだと思った。横を見ると、舜が傘を俺にさしてくれていた。

「お前なにしてんだよ!?びしょぬれだよ!傘は?」

「…大丈夫だよ!忘れただけだし!」

思わず吐き捨ててしまう。 

「…なんかお前おかしいよ?どうした?」

「どうもしてない」

「…そっか」

舜はそれきり何も聞いてこなかった。

「な、明後日のラジオ絶対聴けよ?」

いきなり宣伝かよ。昨日も聞いたし、それ。

「分かってるし、お前も勉強しろよ」

「…?」

…やばい、つっけんどんな言い方になっちゃった。しばらく二人の間に沈黙が流れる。

「絢真…お前さ」

ずっとうつむいていた俺は、舜になにか言われると思って、ぎゅっと目を閉じた。雨水が目に染みる。

「最近、あの曲聞いてるか?」

「…は?」

思わず顔を上げた。なに言ってんだこいつ。そうか、国語が得意だからこんなことが言えるのか?…って俺はバカか。考えることがぐちゃぐちゃだ。

「ほら、中学の頃よく聞いてたじゃん」

「ああ」

雨音に、懐かしいメロディが流れる。今はあんまり聞いてないやつだ。

「俺、明後日これ流すから」

「はぁ」

突然の宣言。隣を車が走り去っていく。

「あとな、これ本題」

舜が俺に一歩近づいて、傘の中で息遣いが混ざる。

「お前、俺のこと信用してるなら、もっと話せよ。I'm full of anxiety.って顔に書いてるよ」

確かに、『私は不安でいっぱいです。』…状態だけど。

「俺だってお前と同じ香坂生で、受験生で、18歳で、男だから。だてに保育園から付き合ってないし」

舜の眼差しが俺を刺す。俺の瞳の奥に、こいつが入り込んでくる。雨音がもう、耳に入らない──

「…ねぇ、あれがリアルのボーイズラブ!?」

「わぁ、マジだ!やばぁー」

俺たちは我に返る。さっきの後輩女子たちが

俺たちを観察していた。くっ…なんなんだよ!

「…おい、責任とれよ」

「?絢真がイケメンだからだろ」

「……黙れ!」

「────行こう」

ふっと真面目な顔になって、舜が俺の腕を取って走り出す。もう雨なんかどうでもよかった。びしょびしょのままバスに乗って、ケタケタ笑い合って、バカ話をしているうちに、俺たちの町に着いた。雨はもうやんでいた。

「舜、あのさ」

「ん?」

バスを降りて、先を進む舜につぶやいた。

「ちょっとだけ話を聞いてほしい」

「…うん」

俺たちはいつも遊んでた公園へ行った。濡れてないベンチに座って、俺がたどたどしく話すのを、舜は黙って聞いていた。話し終わって舜の反応を見ると、あいつは笑ってた。

「…絢真さ、ガチで何かを諦めたくないって思ったの、初めてじゃね?」

「え?」

…そういえばそうかも。高校入試だって、とりあえず香坂選んで、まあまあがんばって勉強してたら受かったし。中学の部活も、適当にやってたし。リスク回避で過ごしてきた。

「絢真のその姿勢、いいと思う。ただ、浪人してもいいかどうかはお前が決めることだし、それでK大かC大か変わってくるだろ」

リスクのある方を選んで頑張るか、安全パイを取るか。俺がするべき、いや、したいのは───。

「今すぐは決められないからさ、今日は帰ろう」

長く考え込むのを見かねたのか舜は、俺を立たせた。それもそうかと思って、俺はカバンを持った。俺たちは公園を出た。水たまりに淡い光が反射している。

「なぁ、俺のファンクラブ出来てるらしいぞ?」

「はぁ?嘘だろ?」

「マジマジ、すごくね?」

「…いろんな意味でな」

舜に話を聞いてもらって、心が少し軽くなった。舜だっていろんな悩みがあるだろうし、勉強時間も奪ってしまった。でもこいつは、いやな顔ひとつせずに俺の話に耳を傾けてくれた。多分、ラジオのときのこいつだってそうだ。嫌なことがあったとしても、みんなに元気を与えられるように常に笑顔でいること。当たり前にできなきゃいけないことだけど、けっこう難しいと思う。

それが、舜がみんなに愛される理由なんだろうな。

「この、もてる男め」

「痛ぁ!お前、嫉妬してんのか?」

「バーカ!」

お互いを小突き合いながら歩いてたら、別れ道に着いた。

「舜、ありがとう」

「?なんもしてないよ俺。それより、ラジオ聴いてくれよ」

またラジオ…と思ったけど、今度はしっかりとうなずく。

「うん」




「お帰り、絢真…って、なんでそんな濡れてんだ!?傘は!?」

家には父さんがいた。俺は曖昧に返事をして、浴室へ直行した。

シャワーを浴びながら考える。今日舜に打ち明けられたのは、雨のおかげかもしれない。雨に打たれてハイになって、なおかつ、舜とばったり会ったから。それはただの思い違いかもしれないけど、ひとつ言えること。それは、いろんなことが積み重なって今があるってこと。

舜みたいに前向きに考えよう。風呂上がったら、父さんに考えを伝えよう。俺は濡れた髪を勢いよくかき上げた。たくさんの水滴が、風呂場を飛んだ。
























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