第五十八話 孤独な子供


 私は小さい頃、お父さんとお母さんの三人で暮らしていた。


 あまり覚えてはいないけれど、他の家と比べればそれなりに裕福な家だったんだと思う。

 それというのも、お母さんは自分で起業をしていて会社を持っており、お父さんはまた別の会社で働いていて、それなりに偉い人だったらしい。


 そんな両親が共働きの家で生まれた私は忙しい両親と接する機会は少なくて……でも、愛されなかったのかなんて言われれば、そんなことはなかった。


 仕事のあった日でもできるだけ早く帰ってきてくれたことは知っているし、その度に一緒に寝かしつけてくれたりもしてくれた。

 お休みの日には家族でお出かけをしたりもして、他の子たちと比べれば家族の時間というのは少なかったのかもしれないけれど、それでも私にとっては十分すぎるくらいに大切で、満たされたものだった。


 特にお母さんなんかは自分の会社のことで忙しかっただろうに、本当に可愛がってくれていた。

 自分が料理をしているところを目を輝かせて見ていた私に一緒にやろうかと言ってくれたり、風邪をひいて寝込んでしまったときには仕事を無理やり切り上げてまで付き添ってくれた。


 私はそんな家族が大好きで……そんな幸せな時間が当たり前に続いていくんだと信じ切っていた。


 だけど、それは叶わなかった。


 私が中学生になった時に、お父さんの浮気が発覚したのだ。

 相手のことなんかや経緯に関しては聞かされなかったし教えられなかったので詳しくはわからなかったが、幼い心ながら非常にショックを受けたのを良く覚えている。


 そこからは早かった。

 私を心配させまいとしてくれたのか、言い合いをしているようなところを見かけたことはなかったし、いざ離婚をするとなった時にも喧騒はなく、お父さんは私に一言だけ謝罪をして去っていった。


 お母さんに引き取られることになった私は、それを黙って見ていることしかできず、何が何やら分からないまま気づかぬうちにことは終わってしまっていた。

 ただただ呆然としているさまの私を見て、お母さんは強く抱きしめて「ごめんなさい」とだけ言った。


 …そして、そこからが本当の孤独だった。

 お母さんは前の思い出を流し去るかのように今まで住んでいた家から今の家まで引っ越してきた。

 幸いお仕事も軌道に乗ってきたようで、お金の心配はしなくていいと言われたけれど……そうじゃなかったんだ。


 お仕事のために様々な場所に出向く必要があったお母さんは、必然的に家を空けることも多い。

 そうなれば残された私は当然一人になるに決まっている。


 以前にお母さんに教えてもらった料理や家事の仕方なんかは知っていたから、それらで困ることはなかったけれど……それでも、寂しいという感情は消えてくれない。

 あれよあれよという間にお父さんが去っていき、お母さんも前は私とたくさん話してくれたのに、今では顔を合わせることもほとんどなくなってしまった。


 …まるで、お父さんの忘れ形見を見たくないとでも言うように。


 毎月のように送られてくる生活費だけがお母さんとのつながりになり、頼れる人なんて誰一人としていない。

 中学生の頃には私に言い寄ってくる人もいたけど、それを気にかけていられる精神状態でもなかった。


 結果、私は誰に頼っていいのかもわからないまま中学を卒業した。

 そして今に至るまで、私はお母さんと話せていない。





     ◆





「…だから、あの時はお母さんが近くにいると思って飛び出して行っちゃったの」

「…そういうことか」


 唯の話を聞いて、全てに合点がいった。

 なんであれほどまでに家事が上手いのか。

 どうしてあんなにも置いていかれる子供のような表情をしていたのか。

 …そして、なぜ唯が他人を求めていたのか。


 全部、彼女が一人だったからだ。

 こんなにも小さな体には重すぎる孤独に耐えてきたからこそ、あれだけの歪さが生まれてしまったんだ。


 過去の大切な人たちから置いていかれた経験から、唯は再び一人にされることを極端に恐れていた。

 …そして今回も、自分の都合で拓也を振り回したことから、彼まで離れていってしまうことを危惧していた。


「……お母さんには会えなくて、また何もできなくて……拓也くんにまで迷惑をかけた」

「…そんなことは……」

「もう嫌なの……! ずっと我慢してきて、それでも何も解決しなくて! もうどうすればいいのか分からないの!」

「………」


 それは、唯が初めて漏らした本心だったのかもしれない。

 長い間を一人で過ごし、いつかまた母親と笑い合える日がやってくると信じて待った少女には……何もやってこなかった。

 それを知った時の彼女の気持ちは、どんな苦痛だっただろうか。


「私は拓也くんが思ってるような綺麗な人間じゃない! 自分勝手な都合で振り回して、挙句の果てに利用してた! …そんな自分も、嫌いなの!」

「………唯」


 もう限界だった。…いや、とっくに限界なんて迎えていた。

 その両肩に乗せるにはあまりにも重すぎる孤独は、唯から誰かに甘える方法を奪っていった。

 幸福を待ち望んでいた少女にもたらされたのが更なる孤独だというのは、なんて皮肉なのか。


「拓也くんの時間を奪って、その優しさにつけこんでた! 人の気持ちも考えないで、自分のことしか考えてなかった! …そんな私なんて、いない方が……!」

「唯」


 それ以上は黙って聞いていられなかった。

 そんなことを、唯の口から聞きたくはなかった。

 下を向いて叫んでいた彼女の顔を両手で挟み込み、強制的に上を向けさせる。


「…なんて顔してんだよ。可愛い顔が台無しだろうが」

「…っ!」


 唯の顔を見れば、涙目になった瞳からはどうしようもないやるせなさが溢れている。

 自分への怒りでぐちゃぐちゃになった表情からは、押し殺してきた本心を発露させたことから見るに堪えないものになっていた。


 指で溢れていた涙を拭きとり、唯の視線をこちらに合わせてやれば、彼女は無意識に目を逸らそうとしてくるが、そうはさせない。

 今の唯に言葉を伝えるには、それしかないから。


「…俺の気持ちにつけこんでた、なんて言うな。そんなわけないだろ? …俺だって、唯と一緒に居たくて過ごしてたんだから、そんな悲しいことを言わないでくれ」

「だ、だって……!」

「そりゃ最初は、強引に押し切られたって思うこともあったよ。一緒に過ごすようになってからも戸惑うことだって多かったし、なんで俺なんかといるんだろうってな」

「………」

「でもさ、その後のことは違うだろ? …唯が、ずっと嘘をつきながら過ごしてたわけがない」

「っ!?」


 そう。確かに最初は困惑してた。

 俺みたいな地味なやつに関わるメリットなんて皆無なのに、唯はところかまわず突き進んできた。

 …彼女の言う通り、最初は利用するためだったのかもしれない。

 でも、共に時間を過ごすようになってから見せてくれた表情は嘘ではないと断言できる。


 はにかみながら見せてくる笑顔。恥ずかしそうにうつむいた照れ隠し。頬を膨らませて怒ってくる態度。

 それらは間違いなく唯の素の表情だったし、そこには一片の嘘だってまぎれてはいなかった。


「それに言っただろ? 唯が倒れそうな時は支えてやるって」

「……本当? 離れないで、いてくれるの?」

「俺から勝手に離れるようなことはしないよ。…少なくとも、唯が嫌になるまではな」


 彼女が自ら離れていかない限りは、拓也から唯を手放すことなんてない。

 それは以前から決めていたことだし、彼女の過去や思いを聞いてより強くそう思うようになった。


「もう唯は十分頑張ったんだ。なら、もう苦しむ必要なんてない。…一人でいるのが嫌だっていうなら、いつでもここで待っててやるよ。だからそんな顔すんな」

「た、拓也ぐ………あ、あああぁぁぁぁっ!!」


 自分が唯にとって替えの利かないような人間であるかなんてことは分からないし、そんな自信だってない。

 それでも、彼女を一人にしたくはない。…この小さな体で孤独を味わってきた少女に、少しでも安心してほしい。


 そんな思いから、どんな時でも待っていてやると伝えれば……これまでの苦労が決壊したかのように、拓也の服をつかんで強く慟哭する。

 部屋に響く唯の嗚咽は、彼女自身が耐えてきた時間の重みが乗せられているようで……拓也はそんな唯の泣き顔は見ないようにと上を向いておく。



 唯の過去を知った。彼女の本心を知れた。

 押し殺されてきた唯の心は、想像を絶するくらいに過酷なもので……今も泣き続けている儚い少女を、守りたいと思ってしまった。


 もう、部外者ではいられない。

 見て見ぬふりだってしたくはない。


 そう思えるようになった今だからこそ、してやれることはあるはずだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る